第6話 人に心に正直に

 ケイジは家につくと同時に、今日の出来事がフラッシュバックのように脳裏を駆け巡った。さらに自分は、見てはいけないものを見てしまったのではないかと焦燥にも似た感情をいだいた。あれは白昼夢か、或いは弁天様が化身の遣いを寄越しなすったとか、そういう幻影を体験したのかも知れない。




夢ならばそれでいい。そのままであって欲しい。この病気のような不規則で邪な動悸を仕向ける激情が、嘘であってほしいと願わずにはいられなかった。




 左手は包帯をぐるぐるに巻かれており指先を動かすくらいしか可動範囲が残されておらず、反対の手には病院で捨てればよかったというのに血の染みたちり紙がずっと握り込まれていた。




 結局今日はサークル関係者各位に大人しく家に帰っておけと、慈愛の憂慮をはんぶんこしていただき帰路についた次第、この埋め合わせは必ずどこかでと胸の片隅に安置したは良いが、今はそれに意識を割くほど釁隙を広く持たなかった。




 太平洋に小舟だけ渡されて、潮の流れるままに島流しにされたような不安と抱き合うような気分であった。あの時なぜ痛みになど負けてしまったのか、今にして思えばそれを振り払ってでも、あのひとにせめて名前だけでも伺っておくべきだった。あの運命的な偶然の出会いを只々蔑ろにしてしまったことへの後悔という海を航海をしているのだ。とっくに錨はあがり、随伴のないままの遊覧はとどまるすべを持たない。




 ケイジは暗闇に浮かぶホタルを一匹追いかけるように、ぼうっとした足取りで自室を目指し、ぼとりと重力に身を任せて足元に落ちるカバンには意を留めず、夕闇の支配する見慣れた小部屋の中心にあぐらをかいて座り込んだ。




 部屋は簡素なもので、高さ50センチほどのタンスに本棚と、デスクと壁には小さなコルクボード。そして折りたたみのできるシングルベッド。趣味を伺わせるものといえば、ゲームセンターで確保できそうなクオリティの少年ジャンプの漫画の主人公のフィギュアが、箱に入れられたまま本棚の上に飾られているくらいだ。いくつか生活に使われていそうな小物がデスクや箪笥の上に無造作に転がされているが、床は広くスペースを残していた。




 ちらと1秒も見なかったあの人の顔を、不思議なことに目を閉じれば鮮明に思い出せる。




 瞼の裏に焼き付くとはすなわちこういうことかと、ケイジは今身をもって理解した。焼き付きすぎて身が焦げている。それはもう身を焦がすほど暑苦しい想いを馳せている。なんと邪悪なことか、ケイジはあの人物の格好にあれこれ空想上の表情を貼り付けて、卑猥な妄想を捗らせた。




 笑った顔、怒った顔、悲しい顔、それらを想像するたびに血液が沸騰するほど火照り、滾り、生唾を飲み込む。カラカラに乾いているのに、なおも喉を動かす。頭からベッドと掛け布団の隙間にはまり込み、羽毛で頭全体を締め付けその感覚に身を任せた。




「うおお、なに考えてんだ俺・・・・」




ジタバタと自らを苦しめる奇行に陥ることを、誰も咎めはしない。そのかわり、『ポキポキ』とスマートフォンがケイジを呼ぶのが、正気の世界へと帰還させた。




ピタリと動きを止め、この音が何の音だったか、今一度考える。もう一度同じ音がなったところでその正体を思い出し、起き上がってスマートフォンの在り処を探した。確かカバンに詰め込んでいたはずと、すぐ近くのカバンを漁った。




 探し当てたものの小さなパネルには、飾り気のない文でたくさんの友人からの見舞いのメッセージが綴られていた。人の怪我でグループラインは盛況なようだ。同じサークルの奴もそうでない奴も、雁首揃えて覗き込んできた。




『なあ、占い師が怪我したってマジ?』




『手ぇ切ったって?』




『めっちゃ死にそうなツラしてたって聞いたけど』




 友人らのメッセージを上から順に確認する間にも、次々と最新のチャットが更新されていった。




 占い師、というのはケイジのあだ名である。別に占いなど全く心得がないが、人柄がよく、朗らかな性格の彼はよく人から相談事や愚痴を持ちかけられる。聞き上手というのが幸か不幸か、彼をいつの間にやら占い師というポジションへと昇華させたようだ。




 本人は至ってそんなつもりはないのだが、何者もケイジの前では口を閉じている我慢ができず、どうでもいいことでも話したくなるのだそうだ。そういうオーラが発せられているのかも知れない。




『いやいや、痛え話やめろって。なまら怖えべさ』




『わやだべ。つ~か生きてる?』




 ケイジは怪我した当人を置いてけぼりにして次々話が進むチャット欄を見てフフッと笑うと、ポチポチとコメントを打つ。心配してくれているのはわかるが、それにしたって気がはやり過ぎというものだ。しかしこれほどまでに自分の身を案じてくれる人がいることには、幸せというものを感じずにはいられなかった。




「はんかくさいこと抜かすな。生きとるわ!」




普段方言を使わない連中がこぞってこの場で言うのは、もちろん愛情表現の一種だろう。なんだかんだ元気であることを伝えるべく、ケイジも流れに乗ってくだらない仲間へと罵倒をくれてやった。




『そうか、まあ、大丈夫そうで良かった』




『今日はゆっくりしとけ。機材の撤去もお前は明日やんなくていいからよ。代わりに事務の方頼むな』




『おっと、もろもろの計算は俺がやっちゃったから、ケイジがやることはもうねえんだな。せいぜい占いに専念してくれ』




『はあ?俺聞いてねえんだけど』




『すげえぞ、今年の売上はなんと7万4千』




 チャット欄がおおーの3文字で埋め尽くされる。ケイジらのチーズ焼きそばは1食500円。148食売れたことになる。これは過去最高出数であり、ありがたいことに売り切れ御免である。例年のデータからもともと総数を少なく設定していたが、あの調子であれば倍は売れていたことだろう。惜しいことである。




 原材料はほとんど自分たちで作っているため普通の露店がやるより原価が安い。そのため売上がほぼそのまま利益になって返ってくるのが気のいいところである。深緑祭で得た利益はサークルの活動費に当てられる。飲み会費もここからある程度補助されるので金がなくて集まれない、という問題はほぼ解消されている。




『あとで打ち上げの日付のアンケート載せとくから回答頼むな』




その言葉を皮切りにコメントは落ち着き始めた。あまり手伝えなかったことを申し訳なく思い、その旨を伝えると、準備を頑張ってくれたからと、ねぎらう言葉がほとんどだった。




『じゃあ、また明日な。』




『なんか頼みがあったら遠慮せず言ってくれていいからな』




 最後にそういう言葉を見かけて、ふと、ケイジは思った。頼みとかではないのだが、強いて言うなら、一つ相談に乗って欲しいと思うことがあったのだ。




 それをチャットに書こうとして、一瞬ためらう。思えば、人に心中を打ち明けるというのはこっ恥ずかしく、でも、聞いてほしいという衝動が共存する。だから、可能な限り誤解をさせまいと言葉を選ぶのに時間を掛けてしまう。




「とりあえず聞いてほしいんだけど」とだけ言葉を打ち込み、既読がつくのだけ確認する。7つの既読がついて、まだみなが画面を見ていることに安心と羞恥を抱えながらも、勇気でそれを弾き、ついに吐露した。




 今日の騒動とは全く関係のないことを言うので、空気感など知れたものではないが、それでも今言わねば感情に正直な言葉では語れないと思ったのだ。




「俺、好きなひとできたかも」




そしてチャット欄は脈絡なく、狂喜乱舞の大舞台と化した。




『☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜』




『゜+*:;;:* *:;;:*+』




『.:*゜..:。:.   .:*゜:.。:.』




『占い師に春が来たああああああああああ!!!』




 痛みを訴える左手からは意識を遠ざけられるほど、ケイジはその日一日中、グループ通話にて拘束されることとなったのだ。

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