第3話 アスファルトと檻

「横山さ~ん、それ終わったらこっちの書類もおねが~い」


「あー・・・りょーかーい」


 特に忙しなくもない狭いオフィスで、横山と呼ばれた女は事務仕事に従事していた。


 あまり似合わないスーツに身を包んで、キーボードを叩き続け時には電話に応答し、上司と取り次いだりお茶を給仕したりとまさに下っ端のOL冥利に尽きる日々を過ごしていた。


「もう肩が上がんなくなってきた・・・。運動不足かな」


 なんてことをぼやくと、横山の隣に鎮座する大仏のように丸い同僚が、こちらの進捗を覗き込んできた。


「そりゃ、四十肩ってやつよ。あたしもあなたの歳くらいから感じたもの。なまちゃんももういい歳でしょう?」


 認めたくないとばかりに横山は、顔を手で覆い足をばたつかせて言った。


「まだ38ですぅー」


「そう言ってるとあっという間に人生終わっちゃうわよ。あなた結婚もしてないでしょう?ただでさえ婚期逃してるんだから、稼いでる男はどんな手段使ってでも掴まないと老後苦労するわよ」


「ぐぬぅ・・・」


 横山は余計なお世話だと心のなかで叫ぶと、一度心を落ち着けようと椅子を立ち、喫煙室で一服済ませることにした。


「15分休憩もらいます」


今日も定時で帰ってやると確固たる意志を胸に刻みながら。


 はたから見れば、ありきたりな様子であることだろう。騒がしくも一切の面白みもなく、やりがいなんて言葉とは程遠い職場で、世間からはほど低い認知度の人々が寄り添う様子だ。


 古びた備品に囲まれて、埃っぽい匂いを充満させて、当たり前にここへ通い、誰の役に立っているのかも知らない仕事をこなして帰るだけの毎日。


 ただし誰にでも共感が得られて、色んな人が味方についてくれる光景だ。そんな常識の世界だ。ただ一人を除いて。


 それが、横山という女だ。それだけが、この世界の非常識であった。


 年の割に若々しい顔、性別の割に高身長、性格の割の人望やなど、その程度なら割とありえる話だ。ただ横山には決定的に人と違うところがあった。そもそも人であるかすら怪しかった。


 頭を見上げれば動物の耳、視線を下げれば動物の尻尾。それ以外の特徴は人間そのものだがその事実さえあれば疑うには十分だ。この世界にそんな生き物は一切闊歩していないし、漫画を覗く以外にそれを目にする機会はありえない。当然、一般人には見えないだとか、そんな都合のいい設定はない。


 横山は喫煙室に入るなり、タバコを咥えてマッチ箱を取り出した。


「・・・・・・・・ふはー・・・」


 煙に包まれ一瞬は気が紛れたものの先程の言葉が脳裏に染み付いて離れなかった。わかってはいるのだ。自分が人間でないかもしれないことを差し置いても、この場の大人たちは友好的であるということが。今のことだって、善意で言ってくれているのは百も承知である。


 しかし、自分が何者であるかもわからないというのに、他の人間とそういった関係をもつことに抵抗を感じるのだ。気分がうだる中、深い溜め息を吐く。すると、尻尾をむぎゅと掴まれる感触に、横山は思わず素っ頓狂な声を上げた。


「ひゃあああっ!!?」


「よっ!なまちゃん。マリアナ海溝並みに深い溜息ついちゃって、課長にセクハラでもされた?冤罪でも訴えちゃえ」


「せ、セクハラはあんただろ、レーコ。あとその冗談はエグい」


 気づかぬうちに喫煙室に忍び入ってたのは、後輩の稲垣玲子(イナガキレイコ)だ。歳は24で、ここでは1年の付き合いになる。目下の相手ではあるが、横山は玲子に好印象を抱いており、また玲子自身も横山をかなり気に入っているようで、プライベートではもっぱらお互いにざっくばらんな態度でいる。


 横山は清涼感のあるショートボブヘアで、瑞々しい若さにあふれていると、アラフォーである自分と対比して評価していた。


「ごめんって。だってなまちゃんの尻尾、もふもふですごく気持ちいいからさ。てか、相変わらずマッチ持ち歩いてるのね。今時珍しいというか渋いというか。ケータイだってガラケーでしょ?」


 ライターを持たない主義なのは、なんとなく、吸いすぎないように気を使っているためである。本数を減らすより、火をつけれる回数を視覚化すれば、自然と吸うのも渋るようになるだろうと考えたのだ。実際の効果の程は知らないが。


「さすがにスマホくらい持ってる。」


「なまちゃん、でもそれオジサンが持つようなモデルだよ。」


「画面がでかくて見やすいからいいのですー。」


「だめだこりゃ。」


 お手上げだとばかりに、玲子は自分もタバコを吸い出した。横山はそれを尻目に、その画面の大きなスマホを操作してSNSアプリを起動した。横山の手にはそれは程よく収まっていた。興味のないニュースばかりが目に止まり、口からドロリとした煙を吐き戻す。すると、玲子が2度ほど、横山の背中を叩いた。覗き込むようにして玲子は言った。


「ねぇ、今夜飲みに行かない?」


 横山は久しぶりに誘われて、思わず口の端が緩んだ。その時、玲子の口から漏れる煙が鼻ををかすめた。


 銘柄が、いつもより軽いのに変わっていると気がついた。


・・・・ああ、おめでとう。


 横山は心の中で、ちょっと悔しい気持ちを抑えながら呟いた。

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