肌理の勾配

肌理きめ勾配こうばい

 奥行きを知覚するための手がかりのひとつ。床や天井の模様が奥に続いているとき、手前から奥にかけて、模様の肌理が細かくなっているように見えること。



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 妃は困っていた。


 最近、自らの美しさに陰りが見え始めたのだ。


 いや、決して、自分が世界で一番美しいなどと思っているわけではない。しかしこれまでの人生、人々ばかりか、動物や小人たちにまで、その美しさを褒め称えられ続けてきたのだ。過去にはその美しさから継母にいじめられ、殺されかけたのだ。それどころか、殺されて一度死んだ。その遺体を現在の国王に見初められ、なんだかんだで感動的に生き返り、こうして見事幸せな人生を手に入れたのだ。


 つまりそういう経験からも、自身の美しさはそれなりのものだといえよう。継母を反面教師として、謙虚に、内面も美しくをモットーに生きてきた。だからこれは奢りではない、客観的な評価だ。


 だが、しかし。


 妃はドレッサーの前に腰掛け、その顔を鏡にくっつきそうになるほど近づける。齢30も半ばだが、皺はなく、肌理もまあ良い。だが、その肌に一点、見落としてしまいそうなほどに薄く、暗色のくすみが見える。妃はゆっくり嘆息した。自然、息が震えてしまう。


 かつてはスノーホワイトなどともてはやされた自慢の肌。自身の美しさの象徴とも言えるこの白くなめらかな肌。そこに浮かび上がったこの薄茶色の点。こすって落ちればいいものの、内側からじんわり浮かび上がったそれは、頑として右頰の隅に存在し続けている。


 年には勝てないわね。そう割り切ろうと思っても、簡単にはいかない。美しさは、妃のアイデンティティーである。特にこの、白く肌理の細かい肌は。

 きっとこれからも、美しさはゆるやかに下降してゆく。美しさゆえにいじめられていた自分だが、これからは醜くなるにつれて下世話な噂の的となるのだろうか。そう思うと背筋がぞっとした。


 ……皆には隠しておきましょう。


 今まで滅多なことで肌に化粧など施さなかった妃は、はじめて自ら白粉を手に取ったのだった。



「最近、お妃さまのお化粧派手じゃないかしら?」

「昔は化粧なんてしなかったのにね」

「かの美しき雪の姫君も、年には勝てず若作りかぁ」


 別に噂の的にされるのは構わない。構うものですか。


 妃の美点は外見の美しさだけではないのだ。柔和な物腰、分け隔てなく与えられる慈愛。そしてなにより、人々を魅了してやまない微笑。若作りなどしていない。断じてない。ただ皆があまりにも自分の外見についてあれやこれやと話をするので、ちょっと気を使って入念に化粧をしているだけである。


 妃は自身の部屋で鏡を見つめる。以前のようなみずみずしい愛らしさはなくなったが、言い換えれば大人の美しさが引き立つ年になった。むしろ艶っぽくて魅力的だ。ここは前向きに考えよう。誰だって年は取るのだ。年相応の美しさを求めれば良い。


 心の中でそんなことを何度も唱え、落ち着いて目の前の自分の顔を見つめる。ちょっとだけ微笑んでみた。


「……………」


 笑うと皺が目立った。


 ……不用意に微笑むのはよそうかしら。



「妃よ、最近臣下たちから良く思われていないようだが、何かあったのか?」


 ある晩、王はそんなことをたずねてきた。妃は寝間着の上からガウンを羽織ると、ベッドを出て窓に近く寄った。

 無言をなんと捉えたのか、王はこう続けた。

「昔はあんなにも優しく、皆を愛し皆に愛されていたお前が、ここ数年はめっきり無愛想になって態度も冷たくなったと聞くぞ。何か不満があるのなら、私が力になりたいんだが…」

 

 妃は嘆息した。この人は何もわかっていない。自分がこうしてあなたに愛されるために、どれほど気を張っているのか。昔のように思うままに日を浴び、花と戯れ、水に触れ、めいっぱいに笑っていては、きっとそこいらの女中よりも醜い中年の女に成り下がっていただろう。あなたが見初めた美しさを保つには、捨てるものがたくさんあるのだ。


 しかしこんな惨めな執着を、王に知られたくない。妃はただ、なんでもありませんわ、と小さくこぼし、自身の部屋へと足早に去った。



 聞いていない。

 いつだ。いつからだ。


 妃は鏡の前で頭を抱えた。いつからだ。王は今までずっと長い間、側室なんてとったことはなく、ただ自分だけを愛でていてくれたはずだ。それがどうだ、妃よりも20も下の生娘との間に女児をもうけたのだ。


 子がなせなかったことは深く申し訳ないと思った。それを何度も懺悔し、そして王は何度も赦してくれたではないか。やはり子供が欲しかったのか。ならば養子でもなんでも引き取ればよかったではないか。せめて、跡取りが必要だからだと、ひとこと断ってくれてもよかったではないか。


 それを王に問いただしても「跡取りのためだけではない」とため息をつかれた。どうしてそんな呆れた顔で、こちらを見るのか。


「原因は、ここ十年のお前にもあるだろう。妃よ、私は昔のようなお前が恋しかったのだ」


 それっきり、王はだんまりを決め込んだ。妃は自室に駆け込んでひとしきり泣いて、そして今に至る。少し冴えてきた頭で王の言葉を反芻した。


 ここ十数年の私。


 昔のような。昔のように。


 そういうわけにはいかないのです、王よ。

 

 私はもう、昔のような美しさを持っていないのです。


 今の私を、美しいと言ってください。


 あなたのために、美しくなる努力をしたのです。


 あなたは昔の私が恋しいようですが、私は今、あなたの愛が恋しい。


 なんの努力もなく、若さに甘んじたその娘よりも、私を愛してください。


 もっともっと、美しくなります。


 世界で一番、美しくなります。


 妃は顔を上げ、鏡を見た。泣いて化粧が剥がれ落ち、肌理の粗い肌が見て取れた。しかし妃は絶望しない。


 大丈夫。私はまだ、醜くない。私より美しい人間なんて、この世にいない。

 私は誰よりも美しく、愛される存在なのだから。


 妃は自身の顔をじっと見つめ、そしてにこりと口の端を上げた。


 鏡よ鏡、この世で最も美しいのは。

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