アレキシサイミア

【アレキシサイミア(失感情症しつかんじょうしょう)】

自身の感情についての気づきや表出、内省や想像力に乏しい特徴。心身症患者に見られやすい。


__________

「すでにご存知だと思いますが、もう一度簡単にご説明させていただきますね」

  そんな前置きをして、担当コーディネーターは続けた。


「お客様がご注文になられた次世代型子育てツール『アンジュ』は、お子様の問題行動を低減させることのできる微小なチップになります。もう少し専門的なお話としましては、このチップは特定の状況においてレイちゃんの脳…前頭眼窩野の活性化と扁桃体の活動抑制を可能にします。例えば、レイちゃんが動物をいじめて興奮しているようであれば、動物を見つけた時に感情の高ぶりを抑え、以後同じ問題行動は現れなくなるなど、将来の非行防止にも役立つと考えられます。アップデートは定期的に行われますので、こちらの親御様用端末にてアップデートの了承を行ってください。次に倫理規定のご説明をーーーー」


 サラは腕に抱かれて眠るレイの小さな頭を撫で、冗長に思える説明を聞きながら眠気ののしかかる目を開いて説明書を眺めていた。

 サラが今回購入したのは、子供のしつけに役立つと話題になっているチップだ。レイはそろそろ3歳になる。おしゃべりを覚え、自分で歩きたがるようにもなり、好奇心からこちらが冷やっとしてしまうような行動も増えつつある。シングルマザー、親は簡単に頼れるほど近くにいない、かといって今の職を辞め、新しい土地で仕事を探して子育てをする余裕は身体的にも精神的にもない。思い悩んでいる時に、職場の同僚たちが面白半分でこの商品のことを話していたのを聞いて、自分なりに情報を集めた上で購入を決意したのだった。


「…以上になりますが、何かご質問等はございますか?」

「……い、いえ。大丈夫です」

 長々と紡ぎ出される機械的な説明は30分ほどで終わった。コーディネーターは席を立つと、「ではさっそく施述に移らせていただきます」と言ってサラとレイを部屋の外へ案内した。


 アンジュの購入後、使う機会はすぐに訪れた。

「もう、泣かないでって言ってるでしょ?」

「ねえ…今ちょっと手が離せないんだけどなあ」

「どうしてそんなにわめくの…お母さん困るわ」

「わがまま言わないでちょうだいよ」


 電車で泣き喚く時、食べ物の好き嫌いをする時、夜中にぐずる時友達を殴った時何かを欲しがる時いうことを聞かない時こっちが疲れてるのにかまって欲しがる時口答えした時擦り傷程度で大げさに泣く幼稚園に行きたくないと叫ぶとにかく気に入らない意味がわからない都合が悪い面倒臭いエトセトラエトセトラ。


 おかげでレイはとてもいい子になった。口答えもしないし、人前で粗相もない。周囲の人たちもレイは落ち着きがあって大人っぽいお利口さんだと褒めてくれる。


 気づけばアンジュ使用開始から4年過ぎ、レイは今小学1年生だ。


「まっ! どうしたのその腕!」


 ある日、学校から帰ってきたレイは腕に傷をこさえてきた。誰かにやられたとしか思えない、細く浅い切り傷が両腕それぞれ4本ずつ。

「友だちにやってもらったの」

「やってもらったって……どういうことなの!?」


 怒鳴っても、レイはいつも通り、お利口さんの落ち着いた態度で言った。


「悲しいがわからないから、泣いたらわかるんじゃないかと思って。みんなは痛いと泣くんだって」


 でも、私は泣けなかった。淡々と述べるレイを、サラはぎゅっと抱きしめて囁いた。


「悲しいなんて辛い気持ち、無理して味わう必要はないのよ。それに、涙は嬉しい時にも出るものなの。だからもうこんなことをするのは止しなさい。あなたはあなたのままでいていいのよ」


 レイの大きな瞳は、鏡のようにサラの心配そうな顔を映し出していた。

「うん、わかった」

 そう言うと、レイは部屋に駆けて行った。


 一安心したサラはテレビをつけ、ソファに身を沈めた。しばらくぼんやりとワイドショーを眺めていたが、やがてレイが不自然なほどに静かであることに違和感を覚え、テレビを消した。


「レイ? 何してるの?」

 呼びかけても返事はない。妙な胸騒ぎがして置きっ放しのアンジュ操作端末を取ろうとダイニングに向かったものの、端末がなかった。急に不安が増し、子供部屋へ様子を見に行く。ドアを押したが、何かにつっかえたように開かなかった。

「レイ?」

「待って、おかあさん。まだ入っちゃだめだよ」


 このおかしな状況にそぐわない、いつも通りのしっかりしたお返事。サラはドアを強く叩いた。

「レイ! 何してるの!? 早く開けて、いい子だから!」

「いい子になりたくないの、おかあさん」

「バカなことやめなさい! 言うことを聞いて!」

「悲しくないから、つらいの」


 レイは単調に、だが切実な悲鳴を上げていることに、サラは気づかず必死にドアを叩き続けた。サラは勢いをつけて、ドアに体を打ち付けた。


「……レイ!」

 強引に開けた子供部屋の中で、レイが黒い操作端末を持っていた。

「それをおかあさんに返しなさい。怒るわよ」

「私も、怒ったことってあったのかな」

「は?」


 意味を理解しかねるサラに、レイは少し微笑んだ。そして端末を思い切り床に叩きつける。

「いやぁぁあ! 何してるのよ!! これはあなたに必要なものなのよ!!」

 必死に端末の破片をかき集め、サラはすぐそばに立ち尽くす娘を見上げた。


 見上げたつもりだったが、レイはいつのまにかそこにはいなかった。代わりに、部屋の窓の縁に足をかけ、外を背にしてこっちを見ていた。いつになく嬉しそうである。


「わたしそれ、いらない。わたしはわたしのままでいたいの。だからおかあさんは、他のいい子をみつけてね」

 言い終えると同時に、レイの体は窓の外に消えた。


 呆然とするサラの手元には、黒い破片だけが残った。




 

 

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