17
少女と出会ったのは、彼女の家の前だった。じめじめとした梅雨の日、少女は玄関前で呆然と立ち尽くしていた。灰色の空を見上げ、不満そうに口元を歪めている。
何をやっているのか―――何となく気になり、通りかかった僕は足を止めた。
「何やってるの」
声をかけると、少女はビクッと肩を跳ね上げた。僕を見るなり、安堵したような、不安そうな目を向けてくる。
「えっと……」
時折視線を逸らしながら、何かを言おうとして言わない。待っているのも時間の無駄なので帰ろうと、僕はふっと顔を戻した。
「言わないならいいよ」
「あっ!」
少女は慌てたように腕をこっちに伸ばした。どういうつもりなのか、僕は分からず少女を観察する。少女は視線をあちこちに走らせ、絞り出したようなか細い声を出した。
「………待ってるの……」
「待ってる?」
「うん………お母さんを……」
「そこで?」
「カギ………忘れちゃって……」
理由を聞くとすぐに納得し、途端に興味が失せた。そのまま立ち去ろうとすると、再び少女が腕を伸ばしてきた。
「あの! 多賀くん……だよね?」
なんで、僕の名前を―――そういう目で見ると、少女はビクッと体を震わせた。
「あの、えっと、わ、わたし、同じクラスの、コトカイオリ……って、いうんだけど……」
「コトカイオリ? 変な名前」
「そ、そう………かな……」
泣きそうな顔を俯かせる少女。僕は少女の隣に立ち、傘を畳んだ。びっくりして目を丸くする少女に構わず、僕はランドセルから鉛筆とノートを取り出した。
「ここに書いてよ」
「え?」
「名前。どんな字なの?」
何となく気になったから―――理由を訊かれたら、そう答えることしか出来なかった。
少女は大きく見開いた目をぱちぱちと瞬かせ、おそるおそる鉛筆を受け取った。湿った紙に名前が刻まれる。
「殊花依織……」
初めて見る文字列に、僕は興味が沸いた。
「これ、コトって読むんだ」
「う、うん。多賀くんの名前は……」
鉛筆を返してもらい、殊花依織の下に書いた。
「多賀……悠樹」
「僕の名前、知ってるんじゃなかったの?」
「下の名前は、知らなくて……」
依織は、僕の名前をじっと眺め、そして僕を見上げた。
「悠樹くんかあ……」
「なに?」
「え? あ、いや、別に変なこと、思ってないよ。その、ただ……」
「なに」
言おうとして、一度口をつぐみ、依織は静かに言った。
「多賀くんって………いじめられてる?」
――――――悠樹君は可愛いねえ。
耳元で粘っこい声が聞こえた気がして、反射的に振り向いた。しかし、誰もいない。雨粒達が地に落ちていくだけだった。
「あのね、ごめんね、違ったら。多賀くん、たまに………アザみたいなのが見えるの」
肌はなるべく隠しているつもりだった。夏でも長袖、長ズボンが無かったらハイソックスを履く。暑くても我慢していた。
―――そうしろと、キツく言われていたから。
―――そうしないと、おしおきされたから。
「………なんで分かったの? そんなに袖をまくったりしてないのに」
すると依織は、僕の首を指差した。
「ここ、たまにすごく赤くなってるときあるから」
――――――ああ、「あいつら」の残したアトのことか。そういえば、首まで隠したことはなかったな。
ノートと鉛筆をランドセルにしまい、僕は傘をさして雨空の下に足を運ぶ。そのまま立ち去ろうとすると、声が後追いした。
「待って!」
「僕もう帰らなきゃ。お父さんに叱られる」
「またおしゃべりしよう!」
その言葉に、思わず振り向いた。依織はにこりと笑って、ひらひらと手を振った。
「わたし、多賀くんとお友達になりたい!」
―――そんな言葉、言われたことも言ったこともなかった。故にその時、嬉しいというよりも、何故という疑問の方が頭を支配していた。
変な子だ―――依織の第一印象はそれで終わった。
「おはよう。多賀くん」
翌日、登校すると依織は笑顔で挨拶してきた。宣言通り、僕とお喋りをするつもりらしい。
「ねえ、悠樹くんって呼んでもいい?」
「…………ダメ」
「えっ」
その呼び名は、「あいつら」を思い出すから嫌だ。せめて日中くらい、何もかも忘れて過ごしたい。
「じゃあ………悠樹は?」
「………まあ……それなら……」
「じゃあ悠樹ね! わたしのことは、依織って呼んで!」
それから依織は、僕の好きなものとか、喧嘩した妹のこととか、くだらない話やとりとめのない話ばかりをした。アザについて深く追及されることもなく、だからだろう、普通に楽しかった。
そう―――普通に。
他の子みたいに、まさか僕も普通に友達と喋れる日が来るなんて思ってなくて、依織と一緒にいる時は幸せな気持ちになっていった。
そして、幸せを知ってしまえば、当然それを手放したくなくなる。
故に僕は、だんだんと家に帰りたくなくなった。
「じゃあ、一緒に逃げよう!」
僕が毎晩何をやっているのか、もうそんなことしたくないと告白したのは同時だった。だから依織は、その二つをいっぺんに解決する提案をした。
「誰も追ってこない所まで、二人で行こう!」
「依織も?」
「うん! わたしが提案したんだし、悠樹のこと放っておけないよ!」
齢十二、三の子供が行動できる範囲なんて狭い。それでも僕は、二人でならどこまでも行けると思った。
思いたかった―――の間違いかもしれない。
でも、それでもよかった。
結果的に、僕はあの地獄から逃げることが出来たのだから。
「それでは………ゲームスタート」
次代勇者を守り抜く、体験型ゲーム。ゲームオーバーになった時には死を覚悟したけど、実際はもっと優しい罰だった。依織の記憶が失われたのは悲しかったが、命を落とすよりは全然マシだった。
―――何より、この世界にいる限り、僕は絶対に地獄に落ちることはなかった。
だからこそ、数多くのプレイヤーをゲームクリアへと導いた。プレイヤーには「良い人」だと感謝された。それも気持ちよく、ずっとこのままゲームのキャラクターとしてい続けようと思っていた。
――――――そう、思っていた。
「それ、イオリちゃん、可哀想だね」
「え……?」
真実を打ち明けた時、三十路のプレイヤーにそう返された。プレイヤーは、すれ違う女子高生達にひらひらと手を振る。
「だって、お前に付き合ってずっとここにいるんだろ? イオリちゃん、本当は現実世界に戻りたいんじゃないのか?」
その言葉に、納得してしまった自分がいた。
―――依織は現実に何の不満も持っていなかった。普通の日常を送っていた、普通の少女だ。
ただ、一人だった僕に付き合って縛られている。
―――そんな彼女は今、幸せなのだろうか?
―――そんなわけがないよな。
そこから後は、罪悪感に苛まれるまま、プレイヤーを殺すことだけを考えていた。依織を死なせてゲームオーバーにはしたくなかったから、依織を助けて気を緩ませ始めた頃、プレイヤーを襲撃し始めた。
はじめは刃物や銃で襲った。しかし初撃を失敗すると、守りが堅くなり、その後は襲撃が難しくなった。
それならば、魔法で攻撃しようと思った。この世界の魔法は、簡潔に言えば「何でもアリ」だ。故に、完全に不意を突いて襲撃することも可能である。
しかし、その魔法を習得するためには、それ相応の魔物に呪われなければならなかった。簡単な魔法を習得するにも、「呪われる」という行為は相当きつかった。負担が大きすぎて、ゲームが終了するまで目を覚まさなかったこともあった。
しかも、ゲームがリセットされると魔法のスキルもリセットされる。でも僕は記憶を受け継いでいる。だから何度も呪いを受けて慣れれば、たとえ上級の呪いでもすぐに習得出来ると思っていた。
「頑張るユウキくんにアドバイス―――君は魔法を習得することはできないですよ。だから、呪われるのはやめなさい。進展の無い物語を見てても退屈なだけです」
―――ゲーム制作者のおじさんの声が空から降ってきたことがあった。新しいプレイヤーが来て、魔法を習得しようとしたときだった。今までそんなことは全くなかったのにわざわざ釘を差したということは、きっと本当なんだろうと確信したし、同時に落胆した―――僕のやっていたことは無意味だったのか、と。それから、魔法で殺すのはやめにした。
「なんで……なんで死んでくれないんだ!」
何度やっても、プレイヤーをゲームオーバーにさせることは出来なかった。追い詰めたと思っても、何だかんだみんなクリアしてしまった。
帰りたいと懇願しても、代わってくれる人はいなかった。もしかすると、もう二度と帰れないのではないかと思ったくらいだった。
「おじさん! なんで僕らを返してくれないの⁉」
「それが罰ゲームだからです」
「もう僕達になんか飽きたでしょ⁉ いい加減返してよ!」
「いいえ、面白いですよ? 毎回異なる展開になるんですから。君だけ記憶を残したのは正解でしたね」
奴は、僕達の足掻く姿を見て楽しんでいるんだと悟った。まるで神にでもなったかのように、無様な人間を鑑賞している。
―――このゲームは、プレイヤーが楽しむものじゃない。
プレイヤーのプレイを見て、奴が楽しむゲームだ。
―――それがこのゲームの本質なんだと、いつの日か悟った。
「…………絶対に、帰ってやる」
――――――そして、今がやって来た。
今度こそ、僕は依織と現実に帰る。たとえ僕が再び地獄に落とされても、なんてことしたんだと依織に嫌われても、これ以上彼女を縛り続けるわけにはいかない。
僕は彼女に、一時的にでも救われた。だから次は、僕が彼女を救う番だ。
僕の地獄を押し付けられた君を、僕がこの手で救う。
だから………だからどうか――――――。
――――――死んでくれ、プレイヤー。
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