「いつもみたいに二人で図書室にいたんだ。五時くらいにイオリがトイレに行くって言って、そのまま帰ってこなくて……」


 中央校舎に戻り『天界への扉』の前で、俺達はユウキから話を聞いていた。今の時刻は午後六時。いなくなってから一時間程経っていることになる。


「捜しには行ったの?」

「当たり前。あと行ってないのは女子寮と学園街だけ」

「じゃあボクは女子寮を探してみるよ」

「僕は学園街に行く。アンタは校内をもう一度探してきて」

「あ、ああ」

「じゃあ……」

「待ってくれ!」


 捜しに行こうとしたユウキが振り向いた。早く行きたいのに、と言いたげな表情で俺を睨んでいる。その気持ちは分かるが、俺とて急展開についていけない。


「なんで俺達に助けを求めたんだ? 大して親しくなったわけでもないのに……それに……『天界への扉』のことだって……嘘、だよな?」


 ファイリアが首を傾げる。目を伏せ視線を逸らしたユウキは、小さく口を開いた。


「アンタが次代勇者を助けるためにここに来たって言ったから、助けを求めただけ。それに、『天界への扉』のことは本当だよ。信じるか信じないかはアンタ次第だけど」


『天界への扉』のことは……ひとまず置いておこう。いま解決すべき疑問じゃない。


「分かった。イオリを捜しに行こう」

「ユウキくん、ボク達を頼ってくれてありがとうね」


 ユウキがファイリアをじっと睨みつけ、ぼそりと呟いた。


「………頼りたくなかったよ」

「ん? 何?」

「何でもない。じゃあよろしく」


 イオリを捜しに、俺達は別れた。まず中等部へ行き、全ての教室を回った。さすがに女子トイレには入れないので、近くにいた女子に中を確認してもらった。

 その後高等部、初等部、男子寮など、行ける所は全て行き尽くしたが、イオリを見つけることは出来なかった。


「ユウキの次はイオリ捜しか……」


 捜し始めてもうすぐ一時間。壁に手をつき、上がった息を整えながら思考を巡らせた。

 俺がまだゲームをプレイできているということは、まだイオリは死んでないということだ。その点は安心できるが、ならば一体どこへ行ってしまったのかが謎だ。

 イオリは人と関わらない。唯一親しい友人はユウキだけ。そんな彼から離れて、一体どこへ?


「おにーさん、見ない顔やなー!」


 キャンキャンと子犬が吠えた―――ような声と共に、背中に何かが激突してきた。倒れそうになったのをなんとか踏ん張り、おそるおそる振り向く。腰に抱きついていたのは、犬耳を髪の間から生やす少女、ホクピだった。


「もしかして、おにーさんがイオリちゃんを捜しておるんか?」


 思わずホクピを凝視した。大きな黒い瞳に、茶髪の男が映っている。戸惑ったような、恐怖で凍りついたような表情を浮かべていた。

 ―――ただ見つめられているだけなのに、その目が怖い。獣に狙いを定められた人間は、どうすることも出来ずに固まってしまった。


「そんな怖い顔すんなやー! 学園中捜し回ってたら、そら噂になるって!」


 ホクピはケラケラと笑う。とりあえず苦笑を返し、ホクピを引き剥がした。


「そんなすぐに噂になるか?」

「なるなるー! この学園、狭いからあっという間やて!」

「狭い……?」

「ああ、狭いやないか!」


 この学園は狭くて窮屈らしいわんこに、イオリを見たか尋ねると、彼女は得意気に答えた。


「見たよ! バッチリ!」

「えっ本当か⁉ 先に言えよ!」

「別にええやないか!」

「良くない! 緊急事態なんだ!」

「そうなんか? 男と一緒におったけど……」


 イオリが男と一緒に? ユウキ以外の男と一緒だなんてにわかに信じられないし、それが不安を増幅させた。捜すアテがない今、唯一の目撃情報を頼るしかない。

 その場所を教えてもらい、すぐにそこへ向かった。どうやら大学部周辺で見かけたらしい。校舎の間を走り抜けながら、俺は辺りを注視してイオリを捜した。多くの大学生達とすれ違い、ぎょっとした表情ばかりを返される。


「どこだ……⁉ どこにいる……⁉」


 なかなか見つからず、苛立ちと疲労が積もっていく。もうとっくに日は暮れており、電灯の照らす道、照らさない校舎裏をひたすら走っていた。


「あの子大丈夫かな」

「さあ。関わらない方がいいと思うよ」


 気になる話し声が聞こえて急停止した。声の主である二人の女は、ある場所をチラチラと見ながらこそこそと話している。そこは、大学部の校舎の中でも一番高いと思われる、オフィスビルのようなガラス張りの建物だった。

 急いでそちらへ駆け寄ると、聞いたことのあるような声が耳に飛び込んできた。声に導かれ、校舎の裏へと自然と足が進んでいく。


「やめっ―――」


 校舎の裏に顔を出した瞬間、目に飛び込んできた光景に絶句した。男が少女の手首を掴み、壁に押し付けてキスしていたのだ。あまりにも突然で予想外のことで驚いていたが、それ以上にその人物に驚いてしまった。

 ―――キスをされていた少女は、イオリだったからだ。


「………なんだ? お前は」


 俺に気付いた男が、イオリから顔を離しこちらを睨んできた。イオリも同じように視線を向ける。青い瞳は怯えきっており、華奢な体は震えている。濡れた唇が微かに動いた。声にはならない彼女の叫びが、脳に直接伝わってくる。



 ――――――――――――たすけて。



「………その子を、離してもらえませんか」


 そう言うと、男の睨みがきつくなった。しかし、もう後戻りは出来ない。負けじと俺も男を睨み返す。男は見定めるように鋭い目で俺の全身を眺めた後、嘲笑を含んだような渋い声を張り上げた。


「お前、イオリの彼氏か? なら諦めることだ。この子はお前のことなど好いちゃいない」

「は……? お、俺は彼氏じゃないですけど……いやそもそも、なんであなたにそんなことを言われなきゃいけないんですか?」

「この子は、男なら誰でもいいからな」


 男がにやりと笑う。それを見たイオリは急に焦り出したかと思うと、じたばたと暴れだした。


「やめてっ! 言わないでっ!」

「なら大人しく帰るか?」

「っ………!」

「あ、あんたこそ何者なんだよ! 無理矢理連れていこうとして……」

「私はこの子の父親だよ」


 耳を疑った。イオリの震えも一層増し、青い瞳から涙を流した。父親は娘の体を引き、こちらに歩いてくる。


「勝手に家出して学園に居座る娘を連れ戻しに来て、何かおかしいか?」

「でも嫌がっているじゃないか! そ、それに、さっき……」

「あいつらが飽きたなら飽きたと言えばいいのに。そうすれば、新しい客を連れてきたのになあ」


 父親がそう言うと、娘が反抗するように立ち止まる。しかし力で勝てないか弱い少女は、無理矢理足を動かされた。横を通り過ぎる時、恐怖で凍りついた目が俺を捉えた。

 ―――その瞬間、心がざわついた。



 ――――――ゲームとか関係無く、助けなければならないと思った。勇者とか関係無く、彼女を守らなければならないと思った。



 ―――だから俺は、男の頬を殴った。



「ガッ―――」


 一瞬怯んだ隙にイオリの腕を掴み、そのまま走り出した。校舎の隙間を掻い潜っていき、高等部の校舎を目指す。周囲は異様なものを見たような目を俺達に向けていた。それでも構わず走り続ける。

 高等部へ行けば、ファイリアに守ってもらえる。先生にも頼み込めば、保護してくれるかもしれない。とにかくあいつに追い付かれなければ、この子を助けることが出来るはずだ。

 しかしその途中、ふと西校舎に目がいった。


 ―――そうだ。理事長に頼めばスムーズに事が進むかもしれない。あの男を学園から追い出すのも容易いだろう。あいつは部外者なんだから、いくらでも理由は付けられる。


 急遽予定変更し、西校舎へと向かった。エレベーターに飛び込み、数字のボタンを「76」まで押して、指が止まる。

 ―――それ以上を思い出すことが出来なかった。今日のことだというのに、いくら記憶を辿っても確証を得ることは出来なかった。

 足音が近付いてきている。仕方なく「235」と入力し、赤いボタンを押した。エレベーターは動き出す。どくんどくんと、鼓動が高鳴り響く。


「早く……早く理事長のところへ……!」

「……っ………」


 やがてエレベーターが止まり、扉がゆっくりと開く。視界に映った光景に絶句した。

 薄暗い空間に光る電球、それが照らすのは薄汚れた天井、ボロボロの赤い絨毯、ひび割れたコンクリートの壁、そして本棚だった。本棚は等間隔で並んでおり、電球に届く程高さがある。中にはぎっしりと本が詰め込まれ、重々しい雰囲気を纏っていた。


「ここ……どこだ……?」


 どうやら俺は数字を間違えたらしい―――それだけは分かる。もう一度赤いボタンを押してみるが、エレベーターは何の反応も示さなかった。しぶしぶエレベーターから降り、辺りを見回す。

 エレベーターが使えないとなると、どうやってここから脱出すればいいのだろうか。出口が見当たらないのだが……。

 ―――ふと、暗い闇の中で、イオリが体をぶるぶると震わせているのが見えた。握っている手からその怯えが今になってやっと伝わり、慌てて手を離した。


「ごめん! 必死になってて……大丈夫?」

「ッ―――!」


 顔を近付けると、イオリはカッと目を見開いて体を仰け反らせた。さらに震えが増し、俺を押しのけ本棚の間へと駆け出す。


「あっちょっと待て!」


 追いかけるが、足を絡ませて転んだイオリにはすぐ追い付いた。膝をついて彼女に手を伸ばす。


「大丈夫か?」

「触らないでッ!」


 抱き起こそうとした手は強く叩かれた。上体を起こしたイオリは、本棚に背をつけて座り込み、胸の前で手を握った。怯えた目で俺を睨み上げる。


「触らないで……!」

「何もしないよ。俺はただ、君を助けたくて……」

「近寄らないで……」

「なっ……ど、どうして俺を避けるんだよ? さっきまで助けてほしそうにしてたのに……」

「……………」


 困ったような顔をして目を伏せるイオリ。彼女の顔を覗き込むように問いかけた。


「なあ、事情を教えてくれるか?」

「……………」

「協力したいんだ。君一人のままじゃ、また父親に捕まるかもしれない」

「いやっ……!」


 バッと顔を上げ、懇願するような目をするイオリ。震えは一層増して、小さな声はしぼり出された。


「たすけて………」

「じゃあ教えてくれないか? あいつが言っていたことは……本当なのか?」


 ぎゅっと手を握り、再び目を伏せたイオリはしばらく沈黙した。やっと答えた少女の声は、あまりにもか弱いものだった。


「…………ユウキが、ここに連れてきてくれたの。お父さんから逃げるために」

「虐待でもされていたのか?」

「…………………うん」


 足先を内に向けて縮こまるイオリ。先程よりも震えはだいぶ収まっていたが、怯えは続いたままだった。安心させるべく、俺はなるべく優しく話しかけた。


「もう大丈夫だよ。俺は君を守るために来たんだ。ユウキだって君を守ってくれるんだろ?」

「………でも、卒業したらまた戻される」


 ぽつりと呟かれた言葉は、俺を金縛りにさせた。


「いつかはここを追い出される。そしたら、絶対にお父さんはわたしを連れて帰る。帰ったらきっと、前よりひどいことをされるに決まってる………」

「………だから君は、死のうとしているんだね?」


 こくりと頷いたイオリを見て、俺は全て理解した。

 どうして彼女は死にたがっていたのか―――卒業したらまた虐待される。それなら死んだ方がマシだ。彼女はそう思ったのだ。わざわざ学園まで来て連れ帰ろうとするほど執念深い父親に、解放されたいという願いから死を選んだ少女。


 ――――――他人事には、思えなかった。



「………なあ。君は生きるべきだよ。だって、それを変えられる可能性があるんだから」

「え………?」


 不思議そうに顔を上げるイオリに、俺は笑ってみせた。


「君にはユウキがいる。俺の知り合いだって、クラスメイトだって、事情を聞けば助けてくれると思うぞ」

「でも………お父さんは強いんだよ。仲間だってたくさんいるの」

「こっちにだっているさ。いや、作る! 俺が呼び掛けてみるよ!」


 だって俺はそのためにここに来たんだから―――それは口には出さなかった。代わりに、そっと手を差し出した。


「だから、もう大丈夫だよ」

「ホントニダイジョウブナノ?」


 ―――キャハキャハと、子供の笑い声が耳元で囁かれる。振り向くと、黒で塗り潰された、まるで幼子が描いたような子供が立っていた。白いクレヨンで縁取られた目が、山の形になって笑う。


「オトウサンハ、トッテモツヨインダヨ? ドウシテ、ダイジョウブダトイイキレルノ? ナニモシラナイクセニ」

「そ、そうだよ……やっぱり無理だよ。お父さんは強いんだ。勝てるわけない……」


 子供に驚くことなく、イオリは再びか弱く震え出す。慌てて俺は反論した。


「そんなことないって! 仮に物凄く強くても、みんなで頑張れば……」

「ミンナデガンバレバ? ミンナッテ? ダレノコト? ミンナガ、ワザワザタタカッテクレルトオモッテルノ?」

「思うよ! 少なくともユウキは助けてくれるだろ! 次代勇者だって知れば、もっと手を貸してくれる人はいるはずだ!」

「ソ~カナア~? ユウシャナンテ、シンヨウデキナイナア~!」


 キャハキャハと爆笑が生まれる。いつの間にか何人もの子供に囲まれていた。狂ったような笑いが頭に響き、激しい頭痛に襲われる。早くこの場から離れなければいけないと立ち上がろうとすると、子供が背中に抱きついてきた。


「ユウシャナンテイタッテ、マモノハオソッテクル! ユウシャナンテイタッテ、タスケテモラエルトモカギラナイ! ユウシャナンテ、ウソツキダ! ミンナヲタスケラレルトオモッテル、ゴウマンノショウチョウダ!」


 耳元で叫ばれ、頭痛が一層増した。子供を剥ごうとすると、その手に別の子供が飛び付いた。バランスを崩して仰向けに倒れると、次々と子供が飛んでくる。視界に映ったのは暗闇と、数多の笑う目だけだった。


「ソレナラバ、ジブンノミハジブンデマモルシカナイヨネ? タニンヲケオトシテデモ、タニンヲコロシテデモ、イキテイタイノガ、イキモノナンダカラ」

「そうかもしれないけど……! そうじゃないやつだって……!」

「ジャアキミハ、ソンナヒトトデアッタコトガアルノ? ミンナカラキラワレテイタ、キミガサア」





 ――――――近寄んなよ。

 ――――――怖いよね、どっか行ってくれないかな。

 ――――――さっさと消えろよ。

 ――――――きっとあいつも同じさ。あー怖い怖い。

 ――――――生きる資格ないんじゃない?

 ――――――どうしてのうのうと生きていられるのかしらね?





「うわあああああああああああああああああああああああああああああああッ!」


 たくさんの悪意が頭の中に流れ込んだ。おぞましい視線に体を貫かれる。誰かに助けを求めても、その手を取ってくれる者はいなかった。

 傷だらけの心に振り下ろされた、トドメの刃。









 ―――――――――あいつも、死ねばいいのに。









「ナギサくんッ!」





 視界が切り替わった。エメラルド色の髪を垂らした少女が、俺の顔を覗き込んでいた。上体を抱き起こされ、不安を帯びた瞳で全身を眺められる。


「大丈夫? ボクが分かる?」

「………………ファイリア」

「よかった。頭は大丈夫そうだね」


 ファイリアがにこりと笑う。その笑顔に心底安心した。辺りを見回すと子供はいなく、あの薄暗い場所でもない。

 ソファーには、眠ったイオリの上体を抱えて座るユウキがいた。目が合うと顔を逸らされる。

 部屋の奥のデスクチェアにはカンセが座っており、ここが理事長室だとすぐ理解出来た。ファイリアが補足の説明をする。


「ホクピちゃんにキミの行った先を聞いて来てみたら、中学生の娘を連れ去った男子高校生を捜し回る男がいたの。もしかしてって思ってボクも捜してみたんだけど……」

「その時私が彼女に連絡を入れたんだよ。ナギサ君とイオリちゃんが書庫に入ったってね」


 ―――ということは理事長、俺達が入っていったってこと、知っていたんだよな?

 そう訊き返すと、カンセはこくりと頷いた。


「私は書庫の見張りもしているんだよ。で、君達の迎えをファイリアに頼んだってわけさ」

「理事長、戦うのは嫌いですもんね」


 それでも子供を預かる学園の理事長かと、心の中で毒づいた。ファイリアの手を借りながら立ち上がり、イオリを一瞥する。


「あの……理事長。頼みがあるんですけど」


 カンセに視線を移しながら言い放つ。白蛇は探るように、真っ赤な目で鋭く人間の男を見据えた。


「イオリを、助けてくれませんか?」


 ほう、とカンセは腕を組んだ。


「君が勇者に頼まれたんだよね? 次代勇者を守ってほしいって」

「いえ、そのことじゃなくて………イオリの、父親のことです」

「お前まさか……!」


 驚くユウキに俺は頷き、声量を抑えつつもハッキリと述べた。


「イオリは虐待されていたんです。ユウキに連れられてこの学園に逃げてきたみたいで……さっき、父親に連れていかれそうになっていたんです」

「へえ……」

「だから死にたいって言っていたんだ。卒業したらまた虐待されるって……彼女は怯えている」

「それで理事長に、どうにかしてほしいと思ったんだね」


 ファイリアの言葉に再び俺は頷く。


「俺だけじゃどうにもならない。誰かの力を借りるしか、イオリを救えないんだ。だからお願いします。生徒達にも協力してもらえるように、声をかけてもらえませんか?」


 カンセに頭を下げた。沈黙の中、三人からの視線が俺に集まっている。それにどういう思いがこもっているか、俺には分からない。ただただ、返事を待つしか出来なかった。

 カンセのため息が聞こえ、俺は顔を上げた。一度赤い目を瞑り、ゆっくりとその瞼を開いて白蛇は冷たく言い放つ。


「残念だが、私は力を貸すことは出来ない」

「なっ、なんでですか!」


 この人でなし―――は、寸前で飲み込んだ。代わりに睨みつけるが、カンセは一切怯むことなく続けた。


「正直に言って、そういう過去を持っている子はこの学園にたくさんいるんだよ。だから私が声を上げて、イオリちゃんだけを助けることは出来ない」

「なんだそれ……じゃあカンセは助けもしないで、その子達を黙って見ているってことか⁉ なんで助けてあげないんだ! そういう子達をみんな助ければいいじゃないか!」

「ナギサ君。私は慈悲深い神でも天使でもないんだよ。魔物相手に戦うならまだしも、どうして何の得にもならないことをしなければならないんだい?」


 その返答に絶句した。本当に人でなしだ。蛇はみんな、こんなに冷たいのか?


「助けがほしいなら直接頼めばいい。君が声をかけて賛同してくれる子を、私は罰したりしないよ」

「………自分には関係ないからですか?」

「ああ。学園は生徒の命を保証しているわけでもないしね。何か問題でも?」


 首を横に振る。

 ―――こいつに頼ろうとした俺が馬鹿だった。こんな場所になんかいられない。

 逃げるように部屋を出ていき、足早にエレベーターへと向かった。乗った瞬間にファイリアが急いで駆け込んできた。扉が閉まり、エレベーターは下降していく。ファイリアが心配そうに俺の顔を覗き込んだ。


「ナギサくん。気持ちは分かるけど、理事長の言う通りだよ。こういうことは、やりたい人達だけで解決しなきゃ」

「実際に被害を訴えている子供がいるっていうのに……学園よりも、警察に相談した方が早いのかもな」

「ナギサくん。ここは君の住んでいた世界じゃないんだよ」


 その言葉は冷たく鋭かった。横目で妖精と人間、エメラルドと橙の視線が交錯する。


「……ファイリアまでそんなこと言うのか?」

「ボクだって、理事長が協力してくれればって思うよ」

「だったら!」

「だからこそ、変わらない事実に文句なんか言ってないで、ボク達が頑張らなきゃいけないんじゃないか」


 ガタンとエレベーターが止まり、先に降りたファイリアについていく。


「理事長にいくら頼み込んだって協力してくれない。それは既に確認済みなんだよ」

「…………そう、なのか」

「うん。それを先に言っておけば良かったね」

「いや………俺こそごめん。ファイリアが悪いわけじゃないのに」

「大丈夫だよ」


 微笑を見せたファイリアの隣に並び、俺達は校舎を出た。


「っ……!」


 校舎の前で、一人の男が待ち構えていた。月夜の下、胸元まで開いた黒いシャツにスーツを羽織り、濁った青い目は怒りを帯びている。


「ここにいたのか」


 重々しく低い声が闇夜に響く。奴がイオリの父親だと、俺はファイリアにそっと耳打ちした。


「娘を返してもらおうか」

「あんたもしつこいな……! いい加減イオリを解放してやれよ!」

「そんなこと出来るか。あの子は大事な収入源なんだからな」

「しゅ、収入……?」


 くつくつと、喉の奥から絞り出されたような笑い声は、薄暗さも相まって不気味だった。ファイリアは目を細めて男を見る。


「あの子は私が作った最高の商品だよ。客を飽きさせない良い出来に仕上がった。まあ、飽きさせないようにあれこれ準備しているのは私なんだがね」


 こいつがイオリに何をさせていたのか、何となく想像がつく。だからこそ、怒りがわいてしょうがなかった。

 今すぐにでもこいつを殴り飛ばしてやりたい。しかし、こいつを倒せる力を俺は持っていない―――理想と現実がかけ離れすぎていて、ぐっと拳を握って怒りを抑えた。

 だが、ここでこいつをどうにかしないと、再びイオリが地獄に引き戻されてしまう。

 ファイリアなら―――ちらりと見ると、彼女は深呼吸をしていた。


「――――――久しぶりに頭にきたなあ」


 笑ってはいるが、目は一切笑ってない妖精に、緊張が走った。


「ねえ、イオリちゃんのお父さん。一週間後、ボクらと戦わない? ボクらが勝ったらあなたはイオリちゃんを諦める。あなたが勝ったらボクらは一切関わらない。どう?」

「ほお? 良いだろう。しかし、口約束では信用ならないな」

「もちろんボクだってそう思うよ。だからさ……」



 ―――殺し合おうよ。負けた方は死ぬってことで。



 ファイリアは静かに怒っていた。口調も表情も変わらないのに、それらは怒りを含んでいると明確に分かった。男は不敵な笑みを浮かべ、くるりと踵を返した。


「後悔しても知らないからな」


 男はそう言い残して去った。奴が見えなくなっても、ファイリアは闇夜を睨んでいた。俺の視線に気付くと、一変して苦笑した。


「ごめんねナギサくん。勝手に決めちゃって」

「いや、俺も腹が立ってたし。でも………殺し合いって……」

「言って聞くような人種じゃないでしょ、彼は」


 少女から吐き出されたとは思えないほど、低く冷たい声が響く。


「出来れば、生き地獄を味わわせてやりたいくらいだよ」


 ああ、こんな子が現実にもいたらよかったのにな―――俺は密やかに嘆いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る