6
「じゃあこのクラスはー……天使喫茶ってことでー……」
消えてしまいそうな声とは対照的に、教室中で歓声が上がった。教卓に立っていた橙色の髪の妖精『イオーシェ』はチョークを持ち、黒板に「天使喫茶」と書く。書き終わると、イオーシェは大きなあくびをかいた。彼の目元には濃い隈があり、今にも眠ってしまいそうだった。クラスメイトに呼ばれ、イオーシェはゆっくりと瞼を開く。
たった今決まったのは、文化祭での出し物だった。来月に行われる予定のそれは、クラスごとに出し物を決めて盛り上げることになっている。キシリア学園は国唯一の学園であり、毎年国内から大勢の客が来るらしい。
俺のクラスは、「天使みたいなコスプレをして喫茶店を開こう!」という、どこに需要があるのか分からないものに決定した。
女子がやるならまだ分かる。しかし、コスプレ対象者にはもれなく男子も含まれているのだ。男が天使になっても……いや、特定の需要があるのは分かっているが、それを俺もやるのかと思うとめちゃくちゃ嫌だ。絶対、断固嫌だ。
それなのに、気分が沈む俺とは対照的に、クラスメイト達はやる気に満ちていた。そのため、クラスメイト達が大盛り上がりする中、俺一人だけはその雰囲気に乗れず、ポツンと取り残されたような気分になっていた。
「服ならわたしに任せて!」
「じゃあぼくは内装のデザインをするよ!」
積極的なクラスメイトのおかげで、次々と役割が決まっていく。最後に残ったのは俺とファイリアだった。イオーシェが眠たそうな目で俺達を見て、気だるそうに口を開く。
「じゃあ君たちは、この案を理事長に報告してきて」
「うわ~。一番面倒な役目だね」
「主張しない自分たちのせいだよ」
「しょうがないか。頑張ろうね、ナギサくん」
「報告って、頑張らなきゃいけないことなのか?」
「あー……相手が理事長だからねえ」
苦笑するファイリア。彼女のその表情が忘れられず、不安を抱きながらその日の授業をこなした。
放課後、早速ファイリアと共に理事長の元を訪れることにした。理事長室は校舎どことも繋がっていないため、校舎から外へ出なければならない。
風が強く、眩しい太陽は時折雲に姿を隠され、世界が暗くなる。再び明るくなった時、ファイリアはふと尋ねてきた。
「ナギサくん、『天界への扉』はもう見た?」
「ああ。ユウキから詳細も聞いた」
「そっか。井戸の中に水が入っているのは見た?」
「並々入ってたな」
「そう。そのお水はね、天界に存在する聖水なんだって」
――――――魔界への入り口だから。
ユウキの言葉が脳内によみがえる。ファイリアまでこう言っているのだから、やはりそれは嘘なのだろうか? そもそも魔界への入り口なら、もっと魔物が現れてもいいはずだ。
だが、それならば何故、ユウキは嘘を吐いたのだろうか?
「魔物に呪われた人にその水を飲ませると、呪いから解放されるっていう言い伝えもあるの」
「じゃあファイリアも、魔法から解放される……ってことか?」
「本当ならね。でもまだ誰も試したことはない。魔法が使えるせいで寿命が縮むのはたしかに真実だけど、それ以外に深刻な影響も無いし、何より非常事態のためにとっておきたいしね」
「非常事態?」
「勇者がこの世からいなくなった時のことだよ」
中央校舎から初等部へ向かう渡り廊下の下を歩く。廊下のガラスには、冴えない男子高校生と、エメラルドに彩られた女子高校生が映っていた。少女は険しい表情で呟く。
「勇者がいなくなることが、この世界で最も危険な状態だからね」
「なあ……勇者って、生まれながらに決まっているものなのか? 誰でもなれるものではなく?」
「生まれた時から決まっているらしいよ。だからナギサくんがいくら足掻いたところで、勇者にはなれないの」
「なりたいとは思わないけどな……」
「へえ。珍しいね」
「だって大変だろ。生まれながらにそんなことを押し付けられるなんてさ」
ファイリアは驚いたように、エメラルドの瞳をぱちくりさせた。その反応に俺も驚く。そうさせるようなことでも言っただろうか?
「ファイリア?」
「………いやはや、驚いた。やっぱり勇者様の見立ては間違いじゃなかったんだ」
「え?」
「ナギサくん。お手柄だよ」
急に誉められても困る。どういう意味か訊くと、ファイリアは嬉しそうにはにかみながら答えた。
「今まで、『勇者になるなんて可哀想』なんて言う子は一人もいなかったんだ」
「へ? なんで?」
「だって勇者になれるなんて、すっごく名誉なことなんだよ? それは神に選ばれたと言っても過言じゃない。どの種族も、そこは口を揃えていたんだ」
「へー………神に……」
「でも、学園にいる人間はイオリちゃんとユウキくんだけ。だから人間の意見は聞くことが出来なかったんだけど………ふふっ、それなら納得」
「ファイリア?」
「人間は勇者になっても嬉しくない。むしろ苦しいことと認識するんだね。だからイオリちゃんは死にたいのかもしれない。いやあ~その可能性は考えなかったな~」
―――本気で言っているのだろうか? 本気で、「勇者になることは名誉なこと」だと思っていたのだろうか? 世界のために戦い、魔物に狙われ、いつ死んでもおかしくないような役目だっていうのに。
俺だったら嫌だ。自らその道を進むのならまだしも、たくさんのプレッシャーもあるだろうし、イオリのように死にたくなるかもしれない。
「ナギサくん! そうと分かればさっさと理事長から許可を貰って、イオリちゃんのところへ行くよ!」
ファイリアが俺の手を握り、走り出した。目は生き生きと輝き、心の底から笑っていた。そんな姿を見ていると、つられてこちらの口元も綻ぶ。
――――――こうして人と喋り、素直に笑えたのはいつ振りだろう。もう二度とこんな日、来ないと思っていたのに。
やっぱり、楽しいもんだな。出来ることなら、ずっとこの世界で暮らしたい。
ファイリアのいる、この世界で―――。
やがてたどり着いた、キシリア学園西校舎。ビルのようなグレーのコンクリートで造られており、ガラスの自動ドアをくぐると、正面にエレベーターがあるだけの空間が広がっていた。まるで廃墟のように人の気配が無く、天井の隅には蜘蛛の巣まで張られている。戸惑う俺とは対照的に、ファイリアはエレベーターへと近付いた。
「ほら早く、ナギサくん」
ファイリアが赤いボタンを押すと、エレベーターが両開きする。彼女に続いて俺も乗り込み、扉は閉じられた。扉とちょうど反対側の壁に、0から9までのボタンと、赤いボタンが備え付けられていた。ファイリアはそれらの数字を、「76253」の順で押し、赤いボタンを押した。直後、エレベーターがガタガタと動き出す。
「理事長は蛇なんだ。絡めとられないように気を付けてね」
蛇と聞いて、背筋がぞくりと震えた。
チロチロと、細長い舌でも出してくるのだろうか? それともメデューサみたいに、髪の毛一本一本が蛇だったり? 目を合わせると石にされたり? 怒らせると、丸呑みにされたり? いずれにせよ、油断大敵だ―――不安と緊張が、少しずつ大きくなっていく。
ガタンとエレベーターが静止する。扉が開くと、道の先に赤い扉があるのが見えた。コンクリートの壁とは似合わない、黒で縁取りされた赤い扉。ファイリアがノックすると、扉がゆっくりと開き出した。
「こんにちは。理事長」
「―――やあ、久し振りだね」
扉の先から低く透明な声が響く。赤い絨毯、赤い壁紙、赤い天井、全てが赤で装飾された中で、モノクロがポツンと一人立っていた。白いストレートロングの髪を垂らし、黒いスーツを身に纏う、赤い目をした男。その顔立ちは中性的で、女性と言われても不思議ではなかった。
「最近どうだい? 変わったことはあったかな?」
「やはり魔物が活発です。早く発生源を突き止めないと、取り返しのつかないことになりますよ」
ファイリアが部屋の中へ入っていく。おそるおそる俺も足を踏み入れると、赤い瞳に捉えられた。
「やあ。初めまして、ナギサ君。私はこのキシリア学園理事長、カンセだ。以後宜しく」
「よろしくお願いします」
カンセが俺の前に立ち塞がった。高身長の真っ赤な目で見下ろされ、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまう。固まる俺に、中性の顔が近付いてきた。間近でじっと見つめられる。
「あ、あの……?」
「人間の子はどれも可愛いね。思わず食べたくなってしまうよ」
「へ………?」
た、食べたくなる? やっぱり蛇って人のこと、食べるのか? 丸呑み? ゆっくり溶かされるのか?
「どうだろう、私のものになってみないかい?」
「は……?」
「理事長。これ以上ふざけるなら勇者様呼びますよ」
「ごめんって。怒らないでくれよ」
謝りながら、クスクスと笑うカンセ。よ、よく分からなかったが、どうやらからかわれていたらしい。止めてくれたファイリアに感謝だ。
ファイリアは呆れたようにため息を吐くと、スクールバッグから一枚の紙を取り出し、カンセに渡した。蛇はそれを受け取り、目を通す。
「それ、文化祭での出し物の詳細です」
「天使喫茶? へー、なかなか斜め上なことをするんだね」
「天使を嫌う人なんていないと思いますよ?」
「そうだね。つまり、君達は天使のように客に奉仕するというわけか」
「嫌な言い方だな……」
「そのまま進めてもよろしいですか?」
白蛇の理事長は紙を眺めながら、しばらく考え込む。俺達生徒は姿勢を正し、黙って返事を待っていた。カンセが紙から目を離し、ファイリアの方を向く。
「うん、良いだろう。頑張るんだよ」
「ありがとうございます」
ぺこりとお辞儀をして、くるりと踵を返すファイリア。俺も頭を下げ、彼女についていった。エレベーターに乗り込み振り向くと、カンセは薄く笑って手を振っていた。扉が閉まり、エレベーターは下降していく。ファイリアはほっと息を吐いた。
「よかった、ダメ出しされないで。みんなやりたがっていたし、これでひとまず安心だね」
「なあ……決まってから言うのもあれだけど、天使なんてどこに需要あるんだ?」
「え? うーん……需要は分からないけど、ボクらがやりたいからやる、みたいな感じだよ」
「あ、そうなのか……」
「大体そんなものでしょ?」
もちろんそれはそうなんだが、その「やりたいこと」がコスプレっていうのがな……まあ一度きりだし、ゲームの中だし、別にいいか。
エレベーターが静止し扉が開く。降りたその先に、一人の少年がいた。たった今ここに到着したのか、息を切らしてこちらを睨んでいる。予想外の人物に、俺は思わず足が止まった。
「お前……ユウキ? な、なんでここに?」
呼吸を整えるのに必死で、ユウキは答えなかった。そんな彼へと、ファイリアは不思議そうに歩み寄る。
「どうしたの? ユウキくんも理事長に何か用事が?」
「ッ………イオリが……!」
「イオリちゃん?」
ファイリアの隣に立つ。顔を上げたユウキは、クールな少年―――ではなく、取り乱した表情をしていた。
「イオリがいなくなった!」
ユウキの叫び声に、俺とファイリアは顔を見合わせた。
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