第十二話 妬いてなんて、ないんだからね。③
リンが消えた堀川さんの家の方角をしばし見つめ、八幡様の社で待とうと振り返った時だ。
「む? これは……。」
堀川さんが倒れた狛犬の台座の陰に、開封していない小さな瓶が。夕べこんなものはなかったはずだ。とすれば、堀川さんが落としたものか?
小瓶を手にしてラベルを見た瞬間、毛穴が開いた。
睡眠薬!
「しまった!!」
なぜ気づかなかった?
あの家の綺麗に整えられていた部屋。
テーブルの上に何もなかった台所。
食材の買い置きも片つけていたとは……つまり!
堀川さんは自殺するため、身の回りの整理をしていた、ということではないのか?!
『古谷ッ! 来てッ!!』
脳内に突然響いたリンの声に、髪が逆立った。
《リン! 堀川さんは自殺する気です! 止めねばッ!!》
『遅かったッ! この人、刺されて家には火をつけられてたッ!!』
《なんですと?!》
ものの二十分も経っていなかったのに、なんたる不覚!
薬瓶を上着のポケットにねじ込み、急ぎ、もと来た道を駆けだした。
玄関を開け放ち、土足のまま居間を目指す。
至る所に火の手が上がる部屋の真ん中に、腹部に包丁が刺さったままの堀川さんが倒れていた。
「しっかりしてください! 堀川さんッ!!」
呼びかけた私に、堀川さんの脇に立っていたリンは鋭い目を向ける。
『無駄よ。古谷の声は聞こえていない。』
「まさか? すでに?!」
床のカーペットに広がっていた血を見るに、まだ致命の失血とも思えぬが?!
『勘違いしないで。周りをよく御覧なさい?』
顔を上げ、見渡すに……夢中で気づかなんだが、部屋中の壁を這い天井に達した炎が、揺らめきもせず静止している?!
「時間を操作したのですかッ? なぜ私は動いていられるのです?!」
いや、理由など聞くべきでもない。これも私の分身を取り込んだから、ということか。
やはり、リンは「当然」というように頷いた。
『それより早く、この人をここから運び出して。
そのために古谷を待っていたんだからね。
止まっているように見えても、火は燃え続けているわ。』
落ち着き払ったリンに頷き返す。
なるほど。リンが憑依して彼女を避難させることは不可能だ。そんなことをすれば、この状態の堀川さんは即死してしまう。
『いい?! そっと、静かに。
この人にとっては急激な振動になってしまう。一気に失血してしまうわよ?』
冷や汗をかきながら、腹部に刺さった包丁をそのままに、堀川さんの体を慎重に抱き上げる。
と、周囲で静止していた炎がゆっくりと揺らめきだした。その炎を瞳に映したリンは軽く首をかしげる。
『少し速めたわ。このくらいの中なら、あなたも無理なく動けるでしょう?』
「ええ、ありがとうございます!」
『いいのよ。初めてだったものね。』
先に行くリンに続き、玄関から堀川さんを運び出し、離れた隣家の前で静かに下ろす。
振り返り堀川さんの家を見たが、まだ炎は上がっていない。
『私、することがあるから。』
「わかりました。」
再び姿を消したリンの考えは、既に私にもわかっていた。
堀川さんを刺したのはあの孫の男だ。
暴力をふるい続けただけでなく、命まで奪おうとは……許せるわけがない!
するとほどなく、リンに続いてその男が現れ、私と堀川さんの目の前を駆け抜けた。
リンは男の目の前に、何かをかざしていた。
男はそれを追いかけ、必死の形相で掴み取ろうとしている。
そしてリンに続いて家に駆け込んでいった……直後。
堀川さんの家は一気に屋根まで炎に飲み込まれた。
中から男の断末魔の悲鳴が聞こえたが、瞬間的に炎に包まれた彼が逃げ延びることなど、到底できるはずはあるまい。
すっ と、私の隣に現れたリンは冷めた口調でつぶやいた。
『あの男には時間に囚われないよう、呪いをかけて連れてきた。』
「彼を試しましたね?」
仰ぎ見る私に、リンは前髪を上げながら私を下目遣いに見つめる。
『いけなかった?』
「いいえ。ああなったのは、彼自身が選んだことですから。」
あの男は家に飛び込む直前、ここに堀川さんがいることを、しかと目をむき凝視していた。気づきながら家に飛び込んでいったのだ。
後悔の念が少しでもあれば、立ち止まることもできたはず。
そもそも少し考えればわかろうものを。
自ら火を放ったことも、忘れていようとは。
「ところで、彼が必死に掴もうとしていたものは、なんだったのですか?」
『通帳よ、堀川さんの。あの男から奪ったの。よほど欲しかったんでしょうね。』
「金目当てでしたか。」
恐らくは、あの孫は堀川さんに無心を繰り返し、その都度暴力をふるっていたのだろう。
堀川さんは自殺まで考えるほど、思い悩んでいたということだろうか。
リンは燃え上がる炎をその漆黒の瞳に映し、冷ややかに口元を上げる。
『お金なんてあの世じゃ遣えないのに。愚かね。』
「血のつながりはありましょうに、悲しいことです。」
腕の中の堀川さんは、微かなうめき声とともに、苦痛に顔を歪めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます