第十一話 妬いてなんて、ないんだからね。②

「古谷さん、湯加減はよろしいでしょうか?」


 ぼちゃん! と音を上げ、反射的に口元まで湯に体を沈めた。


「あ! はい。ありがとうございます。」


「朝からこの陽気なのに随分お身体が冷えてましたから、

 しっかり温まってくださいね。

 着替えと、下着は主人のものですが新品がありましたから、これをどうぞ。」


「恐縮です。」


 妙な流れになってしまった。


 すりガラス越しに脱衣所に見えた彼女、堀川さんに湯船から礼を述べたが……。

 二年前にご主人を失くしたという彼女は、この家に一人暮らしのようだ。


 八幡様への参拝が、朝の日課である彼女を助けたはいいが。

 その境内で私が野宿していたと知ると、是非お礼にと、半ば強引に風呂を勧められてしまったのだ。

 体が冷えていたのは、リンがずっと体を重ねていたからに他ならないが……。


 そのリンは湯船の端に腰を下ろし、足と腕を組んだまま、彼女の姿が消えた先を睨んでいる。


『あの人、絶対古谷に気がある。』


「そんなことはありますまい。」


『見たでしょう? 仏間の遺影。

 旦那さん、なんとなく古谷に似てたじゃない?』


「まあ私が眼鏡をかければ、そう見えなくもありませんでしたが。

 ところであの……せっかくなので髪を洗ってもいいですか?」


 湯船から目だけ上げ尋ねると、リンは無表情のまま姿勢も崩さず、目だけぎょろりと下に向けた。


『どうぞ。』


「いえ。どうぞではなく、出ていて頂いても……。」


『いいじゃない。見たいもの。』


「私が恥ずかしいのです!」


 気が気でなく、落ち着いて風呂に浸かることも出来ぬまま、しばしのち。


 お借りしたスウェットを着て、堀川さんのいる居間の襖を開けた。

 塵一つなく綺麗に整えられた部屋の壁に、私の背広を掛けていた彼女が振り向く。


「いいお湯でした。ありがとうございました。」


「ああ、似合ってよかったです。」


 私を頭からつま先まで見つめる堀川さんの隣で、リンは口を尖らせた。


『この人絶対古谷に気があるって。

 ジャケットにブラシかけてワイシャツにアイロンまでかけてたわよ?

 これで布団まで敷きだしたら殺すところだったわ?』


「こんなにまでして頂いては。」


 きっと冗談ではないリンの気迫に押され、やや顔をひきつらせながら頭を下げた私に、堀川さんは穏やかな笑顔を向けた。


「それより古谷さん、朝ご飯をどうぞ。私も頂くところでしたから。」


 ここまでくれば、妙な遠慮は無用であろう。


「では、お言葉に甘えて。」


 彼女が台所に立つと、スウェットから自分の服へと着替える。


 その後、台所に呼ばれ、白いテーブルクロスだけが掛かったテーブルについた。

 その上に並べられたご飯に味噌汁、それに焼いた鮭。それはどうやら私と半分に分けたようだ。大きい方をいただいでしまった。


「何もなくて、すみませんでした。買い置きも整理した後だったものですから。」


「美味しいお味噌汁でした。久しぶりに家庭の味を楽しませていただきました。」


『どうせ私とじゃ、外食だけですものねー。』


 ふくれたリンに応えるように、私は堀川さんに顔を向けたまま続けた。


「旅を続けていれば、仕方ないことですが。」


「旅ですか……。羨ましいですわ。私もそんな風に自由になれたら。

 古谷さん、奥さんは?」


『ほーらきたー。』


 じっと私を見つめる堀川さんを、リンは目を細め睨みつけた。


「妻には何年か前に先立たれましてね。」


「そうでしたか。私と同じですね。」 


 堀川さんは寂し気に微笑んだ。そんな彼女の前でリンは腕を組み胸を張る。


『古谷には私がいるからいいのよ!』


 それはもちろんですとも。


『ふふッ♪』


 ん? 今、リンは私の言葉に笑ったのか? 

 いや、そんなはずはない。恥ずかしくて言えない言葉だ。まさかうっかり口にしたのだろうか?


 横目でちらとリンを見るに、先ほどまでと違い、微笑みさえ浮かべている。どういうことだ?

 理解に苦しみ黙り込んだ私に、堀川さんはまた尋ねる。


「お子さんは?」


 慌てて少々上ずった声をあげてしまった。


「ああ、いえ。子宝には恵まれませんでした。堀川さんは?」


「私は……一人息子がいたのですが、主人に続いて、去年他界しまして。」


「それは、なんとも……お気の毒に。」


『二人続けてって、可哀そうね。』


 いつの間にか、リンの堀川さんに対する感情が穏やかになっている。

 堀川さんは手にした湯呑みをじっと見つめていた。


「でも、その……孫が一人、おりますから。」


『どうしたのかしら? なんだか嬉しくなさそう。』


 リンの覚えた印象と同感だ。恐らく唯一の身よりであろうに、堀川さんの表情は一瞬曇ったのだ。


「どこか、まだ痛むのですか?」


 それとなく聞いた私に、はっとしたように彼女は顔を上げた。


「い、いいえ。大丈夫です。」


 そして一度目を閉じ、また穏やかな微笑みを私に向けた。


「今朝は、こんな素敵な出会いをいただけて八幡様に感謝ですわ。

 古谷さんが主人に似ていて、久しぶりに会えたようで嬉しかったです。

 今日はありがとうございました。」


『古谷のことっていうより、旦那さんを思い出してたのね……。』


 リンも寂し気に呟いた、その時。


 玄関が乱暴に開けられ、どすどすと何者かが上がりこんできた音が。

 テーブルの下ですぐ対応できるよう身構えた直後、台所にその音の主は顔をだした。


「あれ? 客?」


 私を見て不躾にそう言った男は、十七、八歳ほどの若者だった。

 タバコを咥え髪はだらしなく伸び、不精髭も。そしてその目はどこか死んだ魚のようだ。 


「ま、孫です。」


「お邪魔しています。」


 挨拶をした私には答えず、少し強張った表情になった堀川さんに彼は笑う。


「珍しいじゃん、人、うちにあげんの。」


「え? ええ。

 朝、八幡様で転んでしまったところを助けていただいて。

 ちょうど今、お帰りになるところだったのよ。」


「へえ、そう。」


 先程までとは全く違う、どこかぎこちない笑みを向けた堀川さんに、彼は顔も向けず奥の居間へと移っていった。


 私も席を立った。


「では、お邪魔しました。ありがとうございました。」


 玄関で見送ってくれた堀川さんは、寂しげな微笑みを浮かべながら、私の背をそっと押して戸を閉めた。


 時に再び八幡様へと戻る私に、リンは右の眉だけ上げいぶかしがる。


『なんだか急に追い出されたみたい。すんなり出てきちゃって良かったの?』


「堀川さんの様子だと、いったん引いた方がよいかと。」


 あの男の態度といい堀川さんの様子といい、明らかに人には知られたくない秘密を持っている。

 恐らくはリンの見たという堀川さんの全身のあざは……。


『きっとあの男の暴力によるものに違いないわね。』


 まただ! 冷めた声の響きに、ぎょっとして隣に立つリンを見つめる。


「なぜ、私が考えていたことがわかったのですか? 憑依もしていないのに!」


 リンは前髪を軽く指で上げながら、妖しげな光を湛えた瞳で私を見つめた。


『今頃気付いたの?

 だって今朝、あなたから吸い取っちゃったでしょう? あなたの精液。』


 いきなりなぜ朝の話を?

 するとリンは両手を胸に重ね、静かに目を閉じる。


『あなたの分身は私の中に溶け込んだ。

 あなたが思うことは、もう離れていてもわかるもの。』


 なんということだ……。

 リンは顔を上げた。


『それって、逆も然りなのよ? 

 だから気になることがあったら念じて。

 私も伝えるべきことは古谷に念じるから!』


 身がすくみ凍りつくような笑みを浮かべると、リンは すっ とその姿を消した。

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