第十話 妬いてなんて、ないんだからね。①
しまった!!
夢から覚めた私は慌ててズボンに手を突っ込み、まさぐった。
ああ、助かったッ!
してなかった。
この歳になってよもや「夢精」などと、心臓が止まる勢いであった。
『ど、どうしたの?』
その声にぎょっとして身を起こす。
昨夜の宿としてお借りした、とある街郊外の八幡様の小さな社の中で。
私から離れ、壁際に背中を張り付けるように正座をしていたリンが、目を見開いたまま私を見つめていた。
幽霊ゆえ血の気などありはしないが、かすかにその頬が、上気しているようにさえ見える。
「……リン? 今の今まで……私が寝ている間に憑依してましたよね?」
冷や汗に濡れながら恐る恐る尋ねる私に、リンはひきつった笑みを返す。
『こッ、これだけ離れてるのに?』
「あなたに距離や時間は関係ないですよね!」
私の強い語調に、リンはしばらく息をひそめるように身をこわばらせたが。睨み続ける私に、やがてすぼめた両肩の間で上目遣いに小さく答えた。
『……うん。しちゃった。』
「寝ている間だけはどうかおやめくださいと!」
リンは両の掌を胸の前で振る。
『あ、あのね、古谷、聞いて?
なんだか寝苦しそうだったから、
私がくっついていれば、少しは涼しいかなって……。』
確かにここ数日の陽気は夜になってもうだるようであった。
だが幽霊が憑いていたら、常人であれば涼しいなどという表現を通り越し、寒気に震えることもある。ましてリンであれば、少しどころではない。
そのリンは、さらに焦ったように弁明を続けていた。
『最初は添い寝するだけって思ってたの、信じて?!
でも、その……我慢できなくなって。』
よもやまさか……?
「やはり、あれは夢ではなく?!」
そうだ。不思議な感覚に私は包まれていたのだ。
頬にかかる、感じるはずのないリンの吐息。体は冷やされ続けていたはずなのに、芯からこみ上げる熱く溶けてしまいそうな快感につい、私は……。
目の前のリンは、膝に置いた右手をぎゅっと結び、左の手で顔を隠すようにうつむいた。
『うん……身も心も重ねて……しちゃった。
あなた、抱きしめてくれた。
とても優しく……そんなふうにされたの、初めてで。
そしてあなたが私の中に……。』
うあああああっ!
声に出せぬほどの罪悪感ッ!
やはり先ほどは間違いなく!!
『射精したこと? 恥ずかしがることはないのよ?』
はにかんだ笑みを浮かべながら返さないでくれッ!
だが、射精したならなぜ下着を汚さずに?
『私が全部、そのままもらっちゃったもの。』
はああああああッ?!
またも声に出せぬほどの驚愕!
心なしかいつもよりリンの頬が艶やかに見えたのは、錯覚ではなかったというのか?!
『別に不思議なことでないわ?
女の幽霊が男と寝て、その精液を吸い取るなんて。
日本でもたまにいるし、中国の幽霊なら大抵誰でも持っているスキルよ?』
「ちゅ、中国で転生したことが?」
『いつの時代だったかしら……反乱軍の武将の一人に愛され、殺されて。
それから次の転生まで幽霊でいた少しの間、その人の夜伽をしてたもの。』
それは確かに中国の古典にもよくある話だ。快楽に溺れた男は幾夜を重ねるうちに精液を根こそぎ吸い取られ、やがて死に至る。きっとリンの転生後、その武将も枯れ果て死んだに違いないであろうが。
『あ! でも私、あんな人とあなたを比べたりなんてしてないわよ?
あなたとしながらあなたを殺すつもりなんて毛頭ないわよ?』
こ、言葉が露骨すぎま……いや、もうそれほどではないか。
まずは私が落ち着かなければ!
既にリンの憑依によって互いの霊能力を補完しあう間柄である。今更、肉体の死になんの恐れもありはしないが。
「この体はいつか朽ち果てます。
ですが、魂となってそばにいますから、十分ではないですか?
この老いぼれの体から精を吸い取るような真似をせずとも。」
肉体がないならないで「脳内セックスをしよう」などと、先日言いだしていたリンだが。
かといってこんな風にされ続けては、私の魂そのものが昇天してしまうは必至!
するとリンはうつむいて、右の人差し指で、社の床に小さく円を繰り返し描き始めた。
『そうだったんだけど……、あなたに憑依して一緒に過ごして……。
生きた体があるのもいいなぁって。
一緒に美味しいご飯を食べるとか。
あなたのあたたかさとか。
あなたの匂いとか……みんな愛おしくて。
あなたの精液が私の中に溶けていくのが……嬉しくて。』
だんだん小声になるリンに、年甲斐もなくだんだん顔が赤らみ、熱く火照るのが自分でもわかる。
だがそんな私の様子を察したか、リンも慌てたかのように声を張り上げた。
『かっ、勘違いしないでね?
いつもやりたくて憑依してるんじゃないんだからね?』
そこで胸を張られるような話の流れではなかったはずだが……もしや誤魔化そうとしてるのか?!
ならば念には念を入れておかねば。
「とにかく! もう寝ている時への憑依は禁止です!!」
『もうしないからさせてッ!!』
「どっちなんですか?!」
『だってセッ……
リンが叫びかけたその時、どさっ と社の外で誰かが倒れる音が。
振り向いて社の格子戸から外を見ると、境内入口の狛犬の脇に一人の年配の女性が横たわっているのがわかった。
私もリンも急ぎ社を飛び出す。
「もし? 大丈夫ですか?」
「す、すみません。急に眩暈が……。」
小柄なその女性を抱き起す私の体を、まるで押しのけるようにリンは体を半分重ねてきた。
『古谷。この人、体中にあざがあるわ。』
《なんですと?》
質素な衣服に隠れ、リンの言うあざは私には見えない。
私より少し上の年齢に見えるこの女性。
染めたのだろうが根本に覗いている白髪。そして疲れきった様子ながらも優し気な面持ちの人だ。
「家まで送りましょう。」
「いえ、近くなものですから、結構です。」
そう言って身を起こそうとしながら、彼女は苦痛に顔を歪め、再び私の腕に体を預ける。
「無理なさってはいけません。立ち上がれますか?」
「はい。ありがとうございます。では、お言葉に甘えてすみませんが。」
支えながらゆっくりと立たせ、彼女が指さす方向へと歩き出した。
『近い。近すぎるううう。』
半分体を重ねたままのリンが、何やら唸っている。
《仕方ないではありませんか?》
『わかってるわよ。もう!』
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