第3話 なんで象は生きるのか?
「コップの中の漣みたいなもんだよ」
その時の課長は、俺たちの教育係をやっている、まだ役職のない先輩だった。居酒屋でグラスの側面を指で突きながら新人の俺と阪本に話していた。
課長の起こした振動で、グラスに半分残っていたビールが小さく均等な波紋を立てていく。
「世間は、こうやって安全な場所から、小さな変化を見ていたいんだよ。誰も、波の中に飛び込みたいなんて思ってないし、波がコップの外、自分たちの現実にまで出て来ることも望んでない」
課長はそう言って、トロンと酔った目で俺たちを見た。
俺は阪本とそれまであまり話したことがなかった。
だけど、その課長の言葉を聞いた時、隣にいた大柄の男から伝わって来るテレパシーのようなものがあった。
絆って言うのだろうか? なんとなくだが、あの瞬間に阪本と分かり合えた気がした。
そのあと、どっちが誘うでもなく、俺たちは別の居酒屋に二人で入り、飲み直した。
「あの先輩みたいにはなりたくねぇ。困っている人から目を背けて、嘘っぱちを伝えるなんて、おかしいだろ」
阪本がボソッと呟き、俺はフッと笑みがこぼれた。それから二人でよく飲みに行くようになった。
二年後に、阪本は仕事を辞め、今でも海外を転々としている。対する俺は、結婚し、子供ができ、次第に課長の言っていた事を理解し、納得するようになった。
沙優は象のニュースを見てくれただろうか?
自宅のマンションから明かりが見え、自然と早足になってしまった。あれで、少しでも元気が出てくれれば……
「ただいま」
まっすぐリビングへ向かうと、妻の姿だけであった。
「また、ちょっと熱が上がってきたみたいなのよ」
「夕方のニュースは見たか?」
俺が言うと、妻は「ニュース?」と首をかしげた。
「あ、いや……象のニュース、なんかちょっと元気になったって、さっきやってたから」
俺の詳しい仕事は妻にすら話していない。世間はニュースが虚構だと言うことを知らないのだ。
そうか、見なかったのか……。
様子を見に、沙優の部屋へ。起こさないようにソーッと入った。
眠っている沙優の顔は、熱でかなり暑そうだった。
俺は阪本の行動を誇りに思っているし、今でも大切な友人だ。俺が結婚したときには祝電を送ってくれて、思わず涙がこぼれてしまった。
だけど、俺はベッドで眠っている沙優に、阪本が今見ている現実を見せたくはない。
「象さん」
沙優が俺に気付いてうっすら目を開けた。
「大丈夫。さっき、ニュースで歩いてる姿がやってた」
「ほんと?」
「ああ、だから沙優も寝てなさい」
また沙優は目を閉じた。
昼間に見た、坂本の写真には、確かに俺も胸が締め付けられる思いになった。
だけど、あんな重くて大きな十字架を、今の年の沙優が背負って生きていく姿を想像すると、坂本の写真を破ることに、俺はなんの躊躇いもなかった。
普通に暮らしていれば、一生会うことのない人間の十字架を、なぜ無理に背負わないといけないんだ。
それは決して悪ではないだろ。
人はただ正義を語りたいだけなんだ。それを行動に起こしたいなんて思っていない。
「小包どうしたの?」
リビングに戻ると妻に聞かれた。
「会社で見た。やっぱ阪本だった。手紙を読んだら元気そうだった」
「どんな写真撮ってるの?」
「……海外の景色とかだよ」
多分、妻に今の阪本のことを話してもピンとこないだろう。AMPができて以来、強度なストレスを受けるおそれのある情報は、検閲され削除されている。
もう、一般人に阪本の写真を見せても、それが現実だとは信じない。
真実というのは、信じる人間がいて初めて成り立つのだ。
ヤツが撮っている真実は、もはや虚構でしかない。だけど……
写真の海外の子供が、沙優と重なって見えた。
もし阪本があの子達を見捨てて日本に戻ってくると言ったら、俺はきっとアイツの事を軽蔑する。
俺も阪本のことを、コップの中の漣として見ているのかもしれない。
その日の未明、沙優の部屋で寝ていた妻が俺を起こしにきた。
「沙優の熱がまた上がってるのよ」
部屋に行くと、沙優の顔はさっきよりも赤くなっていた。
「救急車を呼ぼう」
妻がリビングで電話をしている間に、俺は着替えを取りに寝室に戻った。すると、枕元にあったスマホがチカチカと点滅している。
課長の番号から。
嫌な予感がしたが、折り返しで掛ける。
「何かあったのか?」
「すいません。娘の熱が少し上がって、救急車を呼んでいて」
「病気なのか?」
「ええ、三日ほど熱が下がらなくて」
「そうか……娘さんがなぁ」
なんだ、この妙な納得の仕方は? 沙優がどうかしたのか?
すると、電話の向こうから、課長が紙を手に取ったような音がした。
「ストレスレベルのことで、さっき上に呼び出された。象の数値が予定から大きくかけ離れていると……」
「えっ! そ、そんな……」
「私情を挟むなと、あれほど言ったはずだが……なんで、象が歩いているんだ?」
電話のむこうから、心臓を握りつぶされたような気がした。それで、さっき娘のことで……俺の口から言い訳も何も出てこなかった。
「明日、始業の三十分前に会議室にこい」
「……わかりました」
娘へのお見舞いの言葉もなく、電話が切れた。
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