素直


 半年も経っていない通勤ルートをなぞりながら帰途に着く。すると、アパートの大家である藤堂るりがちょうど自宅から出てきたところだった。彼女は吾妻を見るや否や、まるで戦地から帰還した兵である夫に涙ながらの抱擁をするべく走り出した妻のように、吾妻の下へ駆け寄って来た。

「どうかしましたか」

 息を切らした彼女は、息を整えてから落ち着いた様子で話し始めた。

「あなたにも報告しておかないと、と思っていたのに、全然帰って来ないのだもの。実は私……お祖父ちゃんが抱えていた借金を背負うことになって、ずっと支払いに追われていたのよ。でも、それが突然支払い完了の書面が届いたの。私はまだ完済なんかしていないから、どういうことなのか確認をとったのよ。でも、教えてくれなかった」

「へえ? 借金ですか。でも、相手側が完済してあるというのであれば、素直に受け入れてもいいのでは?」

「受け入れたわ。願ったり叶ったりだから。でも、それ以上に今日の新聞に驚かされたわ」

 そう言って彼女はくしゃくしゃに握り締めていた新聞を吾妻に手渡した。その新聞によると、とある闇金業者に今朝がた警察の捜査のメスが入れられ、麻薬・拳銃の密売、人身売買のほう助、その他にも児童買春やら違法行為の証拠品の数々が多数見つかり、全員がその場で逮捕されたとのことであった。

 何が起こったのであろうと模索し、ふと福沢諭吉先生が脳裏に過る。

「本当に何があったのかしら」

 不思議そうに首を傾げる彼女に、やんわりと吾妻は言った。

「金に呑まれて金を汚した人間の末路でしょう。おおかた、福沢諭吉先生にでもかけられたのではないかなあ」

「呪い?」

「そう、たとえば

 冗談っぽく言って吾妻は新聞を返した。

「借金があったとか、相談してくれたらよかったのに。皆、きっと手を貸してくれたと思いますよ」

「だって……無駄に心配かけたくなかったもの」

 涙を薄らと浮かべた彼女だったが、いつもの彼女に戻るのは早かった。もうちょっと弱っていてしおらしい彼女を眺めていたかった、などと言えるはずもなく、とりあえず両手を塞ぐものを吾妻は彼女に見せた。

「では、今日はお祝いですね」

「?」

「ちょうどここに酒やらつまみやら何やらがぎっしりと詰まっています。これを使ってパーッといきましょう!」

 吾妻が言うと、彼女は涙を指で拭って「そうしましょう」と笑った。つられて吾妻も笑い、一番軽いジュラルミンケースを彼女に渡し、大家宅へ向かう。その途中、彼女が立ち止まり、唐突に振り返った。微かに香る石鹸の香り、夕日で伸びたアパートの影の横、飛行機雲が空を走る下で、彼女は少し迷った後にこう言った。


「吾妻くん、あなた……何かしてくれた?」


 彼女の言葉に吾妻は一度目を瞑り、ニッと笑った。

「実は宝くじが三億円当たりまして、しかしながら僕には不相応の額、使い道が見つからず、偶然そこに借金を抱えているという女性の話を耳にしまして、それで居ても立っても居られない性分の僕は現金化した三億円をジュラルミンケースに詰め込んで闇金業者に一人乗り込み、紳士的な立ち振る舞いにて借金の返済にそのほとんどのお金を使ったというわけです。万事解決、いや、まさかその借金に大家さんが絡んでいるとはまったくもって寝耳に水でした。いやはや偶然とはこのことですね!」


 ……などと冗談めいたことなど言うはずもない。

 偽善者、多くを語らず。

「大家さん」

 藤堂るりに歩み寄り、いつもどおりのトーンで吾妻はこう告げた。

「僕がそんなに頼りがいのある男に見えますか?」

 自虐的発言に彼女は次第に笑い出し、くつくつと笑ってジュラルミンケースを振り回し、吾妻の脇腹に軽く当ててきた。

「それもそうね」

 と、笑った彼女の瞳が幾億の星々が敷き詰められているかのように煌めいたのは、きっと涙と夕日のせいであろうと吾妻は小さく頷き「そりゃあそうですよ」と歩き出す。隣を歩く藤堂るりと一緒に玄関先へ向かい、ちょうど照明が自動的に点灯した。振り返って星空を見上げ、おんぼろアパートのはるか上空に浮かぶ綺麗な月を見つめ、口元を緩ませる。

「どうしたの?」

「いえ、まあ何というか、月が綺麗ですねえ」

 正直に言うと、何故か藤堂るりは笑顔を浮かべて軽やかなステップを踏み、玄関に上がった。吾妻も上がり、さりげなくジュラルミンケースと一緒に持っていた紙袋を彼女に見せる。

「実はいい日本酒が手に入りまして」

 小首を傾げた彼女の可愛らしさに心の奥底で悶えながら、吾妻は言うのであった。

 一世一代、このとき吾妻が言った言葉は、とてもではないが気心知れた友人にも、アパート住人にも、ましてや家族にも聞かれたくない気恥ずかしいものであると吾妻は思った。こればかりは、彼女だけに向けた言葉であり、故に、この先の言葉は、目を閉じ、耳を閉じることを吾妻は世界中に勧めた。

 もちろん、それは個人の自由である。




「――後ほどよかったら二人きりで、縁側で飲みませんか」

 彼女は少し間を空けて、小さくこくんと頷く。

「是非に」

 彼女は満面の笑みを浮かべてそう言った。




『愛、屋烏に及ぶ』  了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愛、屋烏に及ぶ 黛惣介 @mayuzumi__sousuke

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ