人生


 それからしばらくの間、吾妻は駅周辺から離れて適当に街中を散策した。行き交う人たちの声で一帯が溢れかえっている中、ぽつんと一人アーケードの中央で立ち止まる。さっきまで闇金の腹の中にいた自分が、こうして平穏に包まれた日常に戻って来たことを実感する。くだらないことで泣く子供、世間話に没頭する主婦、買い食いする部活帰りの学生、疲れ切った表情を浮かべるサラリーマン、とくに悩みもなさそうな若者、人生のほとんどを歩んだお年寄り。

「非日常は、もう懲り懲りだ」

 そう呟き、しかし表情は柔らかい。

 夕飯は久しぶりに食べ放題である。一人で大きなテーブルを占領し、肉という肉を食い荒らし、スイーツというスイーツを食べまくり、腹が満たされた吾妻は、今日のところはアパートに戻ろうとは思わなかった。表情が柔らかくとも、自分の中で、まだ興奮が冷めきれていないことに気付いていたからである。

 漫画喫茶に入って適当に漫画を読み耽り、朝を迎えたところで漫画喫茶を出ると、吾妻は銀行へ向かった。

「入金お願いします」

 当選額三億円の内、二億六千万はなかったこととなり、残りは四千万円。桐谷への支払いは済んだ。まずは友人である門司にアーノルド奪還の際に駄目にしてしまった毛布代を入金する。それから支払い用の口座だ。そこにはアパートの床の修繕費と、一千八百万円の入金を済ませる。五十年分の家賃と同額ではあるものの、これは偶然であると吾妻は断固として自分に主張する。偶然は世界中のどこにでも落ちているものだ。故にこれも偶然であり、たまたまである、と。

 そして最後に、吾妻は新たに口座を作って同じく一千八百万円の入金を済ませた。これは両親に支払ってもらっていた高校と大学の全費用代である。


 あの家を吾妻は早く出ていきたかった。劣等感に苛まれながら、コンプレックスを抱きながら、騒がしく荒々しいあの家が、何の取り柄のない吾妻には窮屈且つ息苦しいものでしかなかった。

 ようやく家を離れて、運悪く――、あの騒々しい変人共が集まるアパートに住むことになってしまい、珍品団やら偽善的秘密結社やら、筋肉馬鹿やら、でかいチワワやら、胡散臭い占い師やら、男装好きの女子高生やら――彼ら彼女らの家族である、一人の女大家やらと出会った。

 その出会いは、吾妻の人生に大きな影響を与えた。

 悪い影響も、良い影響も含めて、吾妻は自分の人生がこういうものなのだと実感した。

 望むものはノーマルライフ。

 しかし、吾妻が進む先に波風立たない平穏な世界はない。それでもいいと吾妻は思った。

(これは妥協だ)

 そう思いつつ笑っている自分に照れる吾妻は、両親に感謝した。何の取り柄もない自分にも、できることがあった。偽善ではあるが、それによって救われた誰かがいるとすれば――それは自分を生み育ててくれた両親があってこその現実である。そして、たった一人で闇金に乗り込む変な度胸が身についていたのは、これは間違いなく、破天荒な人生を歩む兄姉のせいである。

 これにはとくに感謝はしない。

 されど、たまには家族らしく、連絡を取ってみるのもいいであろうと文具屋で吾妻は家族全員分の便箋と封筒を買い揃えることにした。

 らしくもないことをして雨が降らないことを願いながら銀行を出た吾妻は、すっかり軽くなったジュラルミンケースを携えながら、結局手続きやらで時間を食って昼過ぎになった街中を抜け、アパート近くの駅に電車で向かった。

 電車を降りて、吾妻は駅前で募金活動をしている団体と遭遇、持ち合わせていた封筒に札束を入れ、人混みに紛れて募金箱に投入する。残金は数えるほどとなり、その足でスーパーに立ち寄った。酒やつまみ、カップ麺やジャンクフード、ジュースにお菓子を大量にかごに入れ、精算後に吾妻は「レジ袋は要りません」と言った。何故なら、すっからかんになったジュラルミンケースがあるのだ。

 変人を見るかのような目を向けてきた男性店員を無視して作業台でジュラルミンケースに酒やらつまみといった商品を入れていると、周囲から奇異の目が吾妻に向けられていることに吾妻はイラッときた。すべてジュラルミンケースに入れたあと、吾妻はおもむろに作業台に設置されていた募金箱へ有り金のほとんどをこれでもかと言わんばかりに投入、男性店員と客を一瞥した後、吾妻は紳士の桐谷を真似て颯爽とスーパーを出た。そのときの店員の「ありがとうございました」という声は、いつも以上に大きかった。

 しかし、募金は心である。感謝される必要はないのだ。

 偽善主義となった吾妻には、彼の感謝の言葉は不要な物であり、しかしながら、それで彼の人を見る目が変わったというのであれば、それは偶然の産物、吾妻が意図してのことではない。

 そして吾妻は帰り道、普段は立ち寄らない酒屋に立ち寄った。


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