閑話


 葉巻の香りが付いてしまったスーツを気にしながら、見送りに来た大仰と刺青の男に、吾妻は背中越しに手を振ってさっさとその場から離れた。もう二度と関わりたくないと思いながら、立ち止まったのは駅構内のカフェである。時間はすでに夕方の五時、いつもは混雑しているカフェではあるが、しかし今日は珍しく人が入っていなかった。

 人の少ない店内の一番奥、そこを陣取り、吾妻は向かい側に座った桐谷弁護士にひとまず頭を下げた。

「助かった。桐谷さんが手を貸してくれなければ間に合わなかったかもしれん。まさか三億円を現金化するのに二週間ほどかかるとは」

「億ですからね、それぐらいかかりますよ。でもその間に書類作成ができましたから、わたしとしては大助かりでしたけれど」

 珈琲を二つ頼み、吾妻は桐谷弁護士に今回の一件の支払いを始める。ジュラルミンケースから店員らに見えないようにそっと現金を取り出し、袋に入れ、テーブル下で手渡す。

「さすがに仕事である以上、料金は受け取らないといけませんからね」

「受け取ってもらわなければ困るよ」

 吾妻の言葉に、彼は嬉しそうに笑った。

 彼は門司から紹介をしてもらった弁護士である。凄腕の弁護士であることは門司から聞いていた話ではあったが、想像以上の手際の良さに吾妻は脱帽していた。三億円の現金化、そして借金完済の証明書、藤堂るりと彼ら闇金の連中との手切れに関する書類、その他諸々を三億円が現金化される二週間ほどの期間で終えて、こうして今日、実行日であった今日、すべてに決着を付けるべくして共に闘い、こうしてのんびりと珈琲を飲んでいるのだ。

 爽やかに笑って桐谷は運ばれてきた珈琲を上品に飲む。真似をしてみるが上手くいかず、いつものようにすする。そこで吾妻は訊ねる。

「マスカレードをしていなくても紳士とは、恐れ入った」

 その言葉に桐谷は苦笑いした。彼は以前吾妻と鴻巣語を藤堂るりの命で救いに来てくれた――偽善的秘密結社、紳士の男だった。

 彼と連絡をして落ち合った日、吾妻は桐谷と会ったのと同時に、互いに指差し合いながら「あのときの」と、驚き合った。彼は弁護士として働きながら偽善的秘密結社に身を置き、できる限りのことをして、人々を救いたいという思いで生きてきた。しかし、そんなある日、彼は大きな悩みを持つ。それが藤堂藤一郎の死だった。

「彼ほど偽善に満ちた男はいない」

 と彼は作戦会議中に呟いた。その言葉が彼の胸中に込められた彼への尊敬で満ち溢れていると吾妻は感じ取っていた。やはり、吾妻が直感したとおり、藤堂藤一郎には相当の人望があったようだった。

 しかし、その彼が亡くなり、借金を孫娘の藤堂るりが背負うことになったとき、どうするべきかを今まで悩み続けていたらしかった。藤一郎は偽善的秘密結社として動いて多額の借金を負ったものの、自身に責任があるとして借金返済のすべてを請け負ったという。それが完済に至らず、突然の死。孫娘にその借金を背負わせることになるとは、彼も思ってもいなかったであろう。

「るりお嬢の手助けをしようといくつか解決策を練ってみたんです。しかし、どれも駄目でした。どうしても、あれほどまでに膨らんだ借金を返せる算段がつかなかった」

 彼は悔しそうだった。無償で渡せる二億五千万など普通に考えてあるはずがない。そして、もし仮に用意できたとしても、それが正規ルートでの金かどうか、それは言うまでもない。負の無限ループを繰り返せば、藤堂るりと同じような目に合う人間が生まれてしまう。偽善とはいえ、身を粉にして動くとはいえ、破滅の道に身を置こうとする人間がそう簡単に名乗りを上げるはずもなかった。そして、今日までその苦しみが彼の中で続いていたのだ。それも、今日までである。

 珈琲を飲み終えた桐谷はあくまでクールに、しかしながら、どこか涙ぐみそうな表情に吾妻は彼がどういう行動を起こそうとしているのか、すぐさま察した。

「どうにもならないと思っていました。しかし、こうしてあなたが神の如く現れ、一瞬の内に解決してくれた。吾妻さん、本当にあ」

「ちょい待て」

 桐谷が下げようとした頭を人差し指を額に押し付けて制止させる。キョトンとしたイケメンは、キョトンとしていてもイケメンであった。

「僕が藤堂るりのために動いた、そう思っているのであれば、それは大きな勘違いだ。僕はたまたま手に入った金が自分都合でなかったことにしたいと思っていたんだ。捨てるのもなんだからとこういう使い方をしたまでで、藤堂るりがこれで救われたというのであれば、それは僕の気まぐれがそうさせた結果であって、意図して救ったわけではない。だから、礼を言われても困る」

「……なるほど。つまり」

 吾妻は二カッと笑って指先をイケメンから離した。

「僕はたんなる偽善者に過ぎない。礼なら余所の誰かに適当に言ってやれ」

「では、そうするとしましょう」

 彼がそう言って、しばらく無言で珈琲を楽しみ、一時間ほど時間を潰したのち、吾妻達は別れることにした。

「ではまた何かありましたら、ご連絡ください」

「もちろんだ」

「吾妻さん」改まった桐谷は少し離れた場所で立ち止まって言う。「るりお嬢のこと、よろしくお願いします」

 彼の言葉に吾妻は鼻で笑って「期待するなよ」と背を向けた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る