諭吉
そして時は現在に戻る。
吾妻の横に立っていた男は――門司から紹介を受けた吾妻から依頼を受けた弁護士は、ジュラルミンケースの鍵を吾妻に手渡した。
「ありがとう、
「いえ、少し遅くなってしまったので、申し訳ない」
何とも紳士的でクールな口ぶりに、吾妻はニッと笑って鍵をケースの鍵穴に差し込んだ。唖然とする大仰を前に、開いた三つのケース、そこから顔を覗かせたのは、ぎっしりと詰め込まれた福沢諭吉である。その数――三億枚である。
一束百万円。それを一つずつ、一つずつ、大仰の前に並べていく。空になったジュラルミンケースを桐谷に渡し、次のケースへ、次のケースへ。そして最後の束を置き、二億五千万円分、山積みにされた札束は圧巻であった。適当に積み上げたせいで背の小さな大仰の姿は立ち上がらないと見えない。しかし、表情を見ずとも手に取るようにわかる、震えるような声で彼は言った。
「何故…いや、どこからこんな金を!」
吾妻は余裕綽々といったふうに立ち上がった。
「なに、親戚に大黒天という神様がいてね、ちょっくら小遣いをせがんだらくれたんだ。実に懐の大きい男だ。しかし、そんなことどうでもいいだろう。信ずる者は救われると言うではないか。とりあえず信じておけ。さすればいつか恩恵を受ける日もくるやもしれん」
吾妻が言ってすぐ、大仰は立ち上がった。生首が札束の上に乗っかっているように見えて、少々気味が悪い。そんな彼に桐谷が書類を手渡す。大仰は悔しそうな顔をして、座った。
「それが借金の完済における書類になります。サインと捺印を」
「……ちっ」
舌打ちをしたのち、大仰はサインと捺印を終えると書類を桐谷に投げて寄越す。明らかに不機嫌そうではあるものの、目の前の大金がすべてを黙らせている。この部屋において最も恐るべきは、金の力なのだ。
「さて、返済を終えたことで一つあなたに頼みごとがある」
「言ってみろ」
「今後一切、藤堂るりに関係するすべてのことに対して、関わらないことだ。当然、アパートの立ち退きも諦めてもらう」
鼻で笑った大仰は「それは約束できんな」と落として駄目にした葉巻を拾い上げ、壁に投げつけた。それを無視して、桐谷は念書を取り出し、テーブルに置く。
「吾妻さんの頼みごとを念書として作成しております。こちらにサインと捺印を」
「しねえよ」と大仰。
「では積むとしよう」と吾妻は札束を山に、札束をさらに積み上げた。その光景に大仰の目の色が変わった。完全に堕ちた目である。
「一千万追加でどうだい、大仰」
金持ちとはこういう気分なのだろうかと吾妻は呆れながら大仰を見た。爽快感はなく、何とも言えない不快感に吾妻はため息を吐きそうになる。
一千万を積んで心が揺らいだように見え、しかし頑なに拒んでいる。このまま延長戦に持っていったところで、ずるずると引きずることは目に見えている。だからこそ、金を積んだのだ。
ならば、と吾妻は奥の手を使うことにした。
揺らいだ心を揺さぶりぐらつかせるための必殺技である。
「大仰よ、先ほどの話を忘れたか? 僕には大黒天という親戚がいるということを」
「だから何だっていうんだ?」
「わからないか? 食物と財福を司る神と親戚である僕が、まさか、ただの人間だと思っているのかい?」
と、吾妻の言葉に大仰が呆れたような顔をした直後――その顔に驚きが広がった。それもそのはずである。今まさに、彼は神と見紛う存在と対面しているからだ。
宙を浮き、何かを悟ったような表情――吾妻は、少しだけ浮ける力を限界まで振り絞り、搾り取られるエネルギーがあまりにも膨大で、何かを悟ったような顔になってしまっていた。その代わり、吾妻は限界を超えたことで完全に床から浮いた状態、まさに舞い降りた神のようであった。降り立った場所がこんな汚らしい場所で無ければさぞ絵になったであろう。
今にも貧血を起こして倒れそうな吾妻だったが、目の前で口をあんぐりと開けて呆けている大仰に、一言声をかけることにした。
「充分稼いだであろう?」
弱弱しいか細い声のおかげで、逆にリアリティが生まれていた。大仰は悔しそうにして、しかし闇金界で悪名高い男、簡単には折れないふうに、それでいて渋るように、最後には「……し、仕方ないな」と譲歩してやったと言わんばかりの強がりを見せ、髪を掻き上げ、サインと捺印を終えた。それを見て、吾妻は力を抜き、ようやく地に足を付けた。
やはり地面に足が接しているというのは安心感が尋常ではない。将来的に宇宙旅行が実現しようとも、おそらく吾妻は地球上から出ることはないであろうと確信した。
余った金の入ったジュラルミンケースを閉め、金に魅せられた阿呆を見下ろし、握手を求める。金の力の前に、そして神の力の前に彼は、ようやく吾妻を客人として迎え入れるかのように吾妻の握手に応えた。この強がりは筋金入りなのかもしれない。
種も仕掛けもない、まさに神の力の、ほんの一部。
神ではない、ただの人間ができる限界。
ふらつく身体をどうにか保たせ、退散する。
「これにて終わりだ。ちなみに僕が返済に関わったことは他言無用、これは念書の一文に記されている故、守るように。突然の来訪、失礼した。これはその詫びだ」
財布を取り出して、一万円札を彼の胸ポケットにねじ込んだ。これが最後の、彼らとの会話であった。
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