自答


「…………」

 肉じゃがで腹を満たし、酒も尽きた。ベランダで胡坐を掻いて前をジッと見据えるように構える。時間は朝の五時になろうとしている。眠気はまったく襲ってこない。何をするでもなく一点を見つめ、不意に縁側で藤堂るりと飲んだ酒の味が蘇ってきた。

 彼女が飲ませてくれたのは日本酒であった。そのときの会話の中で彼女は日本酒が一番好きだと言っていた。いつもは発泡酒・ビール・焼酎である。

 吾妻は、あまり飲まない日本酒の味がわからなかった。しかし、月明かりを浴びながらお猪口に口を付ける彼女を眺めているだけで、不思議と酒の味に深みが加わったように吾妻は感じた。畦倉と飲む時とは違う、あれはおそらく――安心感であろう。

 ほっとするのだ。

 少し前まではそんなことを思うような人間ではなかった。しかし、彼女と戦うことで、彼女に立ち向かうことで、彼女のことを知っていくことで、積み重なる日常の中で、藤堂るりが自分と真逆の人生を歩んでいながら、同じ思いに至っていることに吾妻は少しずつ気付き始めていた。

 このアパートの阿呆共と過ごす時間は。

「……ふん」

 立ち上がり、部屋に戻る。そのときだった。

「痛い!」

 畳と畳の間に足を置いた瞬間、足の裏に何かが突き刺さった。しかし、突き刺さるというには血も出ていない。痛みに悶えながら、吾妻は畳と畳の間を見た。

「何なんだよ……十円玉?」

 畳と畳の間に挟まっていたのは十円玉であった。こんなところにお金を差し込む趣味はない。かといって小銭を落とした記憶はない。しかし、吾妻は思い出した。入居初日、この部屋を藤堂るりに紹介してもらう前に、吾妻は部屋に入ってすぐ転んだ。そのとき、小銭をばら撒いてしまったのだ。

「あのときに拾い損ねたのか……今まで、よくもまあ気付かずに過ごしてきたものだ。灯台下暗し……じゃないな。今のなし」

 と一人で言いながら、その十円玉を指先でつまんで眼前に持っていく。小さい頃はこの十円玉数枚で喜び、駄菓子屋に走って行った。たかが十円、されど十円。その小さな額で、子供だった吾妻は、ほんの僅かな幸せを手に入れていた。そして足元には、三億円に化ける紙きれがある。今にも踏みそうな位置にあり、ベランダから風が吹き込んで来れば間違いなく舞い上がって部屋中を走り、挙句窓から飛んで行くかもしれない。そんなことを想像しても、吾妻は拾い上げることも、対策を講じることもせず、おもむろに拳をつくって人差し指に親指をかけ、その上に十円玉を置いた。コイントスの構えをして、表情は真顔の状態。

「運任せ、実にいい響きだ。そして同時に、逃げるにはうってつけの言い訳だ。僕にはさぞお似合いだ。表が出れば己のために、裏が出れば……何とやら」

 言って、親指で弾き、十円玉が宙を舞う。

 実に美しい光景に見え、見惚れながら行方を追う。落下する十円玉は畳に落ちて跳び、それからころころと転がり、吾妻はその後を追う。

 そして十円玉は――畳と畳の間に挟まった。

「…………ぷはははっははっはははははははは!」

 あまりにも滑稽で吾妻は堪え切れずに笑い出した――表か裏か、それだけのはずだった。しかし、運は三つ目の選択肢を選び抜き、吾妻に与えた。しばらく笑い転げ、疲れてぐったりと畳に寝転がる。ちょうど右手の辺りに宝くじがあり、拾い上げる。

「……任せてしまったのだから仕方あるまい」

 ニッと笑って、吾妻は勢いよく立ち上がり、畳んである布団に片足を上げ、誰も見ていないことを承知で腰に手を当てて格好付ける。あくまで吾妻がカッコイイと思っているだけで、実のところ、世間で言うカッコイイと、かなり大幅に全くと言っていいほどずれていることに吾妻は気付いていない。そんなポージングを決めながら、吾妻は言う。

「僕はノーマルライフを求めてこの地にやって来た。確かにこのアパートの面々は阿呆共ばかりで騒がしいことこの上ない。この三億があればここを脱出し、新天地にてノーマルライフを満喫することができるであろうと少なからず思っている。しかし、しかしだ!」

 ビシッと指差す先には誰もいない。汚い壁である。

 そこで指先を姿見に移す。

「この三億という大金をある日ポンッと手に入るような人生を、果たして普通だと言えようか? いや、言えない! よくある話、宝くじで高額当選をした者は皆、不幸な道へと足を踏み入れるものだ。そして今まで築き上げてきたものは一瞬にして足元から崩壊する! 金目当てで近付いてくるあまりかかわりのない親族! 一緒に買ったわけでもないのに我が物顔で何を買おうか考える会社の同僚たち! どこから嗅ぎ付けてきたのか知らない明らかに怪しい宗教団体! できたことはないが彼女面してよりを戻してこようとする輩!」

 鏡に映った自分を見て笑う。実に不気味である。足元の十円玉は、まだ畳と畳の間に挟まったままだ。

「故に、この金はなかったことにする。異論は認めない。何故なら僕は普通の人生を歩みたいからだ」

 振り返り、朝陽が昇る光景に目を細め、ベランダに歩み寄る。

 見下ろせば川の水面が朝日によって煌めき、宝石がちりばめられているかのように美しい。薄暗い中に真っ赤に燃える太陽が顔を覗かせ、世界の始まりを告げるかのような幻想的光景を吾妻の目に焼き付けさせた。

 畳が抜けるような部屋で、風呂がない不便な部屋で、見た目お化け屋敷のおんぼろアパートからでも、世界は等しく同じ空の下。眩さに、吾妻は目を細める。

「まあ、アパートの修繕費と門司への借金返済等に少しは宛てるがな!」

 呆れるようなことを言いつつ、しかし、三億の使い道に、欲望を満たすような項目はない。

 欲望に駆られて自分を見失う、そういう効力を金は持っている。

 ならば、さっさと無き者にしてしまうのが得策である。

「これは偽善である。故に僕は見返りを求めぬ。僕の偽善で救われる何かが、誰かがあるとすれば、それは運が良かっただけの話。偶然の出来事だ、以上」

 締め括り、吾妻はすぐさまスーツの準備に取り掛かる。着替えながら携帯を操作し、一通のメールを送る。胸ポケットに三億円の紙きれを無造作に入れて、まだまだ静かなアパートを飛び出して行った。


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