祝杯
――遡ること二週間前、吾妻は貧相極まりないアパートの一室で固まっていた。硬直状態であるが、死んでいるわけではない。しかしながら、今にも死にそうなことには変わりなかった。天井に向かって伸ばした両手には一枚の紙きれ。表情は瞬きひとつしない驚嘆そのもの。
かれこれ三時間である。
三時間前、吾妻は藤堂るり宅から帰宅後、深夜のコンビニに酒を買いに行っていた。いつもの酒とつまみを買い物かごに入れてレジに向かう。そのとき、ふと吾妻は自分の財布のあまり使わない収納スペースに紙きれが入っていることに気付いた。買い物を終えて外に出た吾妻は、その紙きれを街灯の明かりで確認した。それはいつぞや、アーノルド探しの後、金を下しに行った際に口走った「宝くじでも当たらないかなぁ」という呟きの下、無意識に買っていた一枚の宝くじであった。
「そういえば買ったような……酔っていてあまり覚えていないな」
財布に戻し、あとで確認しておこうと吾妻は帰途に着く。今まで一度も当たったこともなく、スクラッチですら当てたことがない。数百円程度ではあるが、積み上げていけば、おそらく家賃半年分にはなるであろう。買わなきゃ当たらないなどと言われているが、買ったところで当たるはずもないのだ。故に、吾妻は抽選日をすっかり忘れて放置、今更になって気付いたのだ。
畳の部屋に座り、酒を飲み始める。そのついでに携帯で宝くじのサイトにアクセスする。
「えっと、一等は四十五組、180……あれ?」
持っていた缶ビールを置いて、携帯も置く。部屋の中をぐるぐると回り、ぴしゃりと両の頬を叩く。そしてもう一度携帯画面に目を向ける。
「酔っているな」
ふはははは、と自分を笑って再開。一等の欄、組と数字を読み上げ、自分のくじを見る。ブワッと首筋から汗が噴き出す。額からも汗が流れ落ちてきて、必死に拭ってから洗面所に駆け込む。顔を洗い、ついでに頭から水をかぶる。タオルで拭きながら畳の部屋に戻った吾妻は、いったん立ち止まり、少し考えた後、玄関とベランダの鍵をかけ、普段は閉めることのないカーテンも閉める。それから酒やおつまみを部屋の隅へと追いやり、中央へ鎮座する。目の前には宝くじと携帯電話。
「……よし」
息を吞み、携帯の画面をじっくりと見て、焼き付けた組と数字を、手に取った宝くじに照らし合わせる。一つずつ、一つずつ、ゆっくりと、そして何度も確認し、照らし合わせ、繰り返すこと三十回、吾妻は受け入れることができなかった現実に、ようやく向き合うことにした。というよりも精神の限界であった。
「さ、さん、ささささあ、あんおく?」
両手に宝くじを持ち、ゆっくりと汚い天井に向けて腕を上げ――三時間である。
「はっ!」
長い夢を見ていたかのような目覚め方をした吾妻は、まさか本当に夢であったのではないかと疑い、すぐさま携帯で再度確認する。頬をつねったり、太ももをつねったり、目を凝らして、何度も目を擦って、目が乾燥して真っ赤に充血するまで確認行為を繰り返した吾妻は、思わず部屋の隅に置いてある布団に顔を埋め、叫んだ。
一等、当選である。
「三億円当たったぞ!」
実際にはそこまで叫んではいない。ここはおんぼろアパート、壁も薄ければ床も薄い。僅かに声が漏れようものなら、おごってくれだの貸してくれだの、知られたら鬱陶しいこと間違いない。今ならアパート横の川の水面を走って下り、太平洋に出たのち横断してハワイ島まで走って行けるような気がした吾妻だったが、爆発しそうな感情を押し殺し、どうにかこうにかポーカーフェイスを気取り、とりあえず酒を飲んで誤魔化そうとした。無理であった。
「どうする? どうする?」
飲もうとしても手が震え、ばたばたと酒が服にこぼれてしまう。ここまで動揺したことのなかった吾妻は、動揺している自分に動揺し、もう一度現実視すれば泡を吹いて倒れそうであったために携帯をすぐさま閉じた。
宝くじも裏にして、とりあえず落ち着きを取り戻そうとその場でスクワットをするも腰を痛めて断念。そこで寝転んでみると、一番落ち着くことがわかり、とりあえず億万長者になったことを少しずつ受け入れていくことにした。
「三億……三億あれば、いろんなことがたくさんできるぞ」
世界を見て回るのもいい、ありとあらゆる酒を飲み、小さい頃にできなかったゲームを買い集めたり、見るからに美味そうなものを片っ端からから食べ尽くしたり、無駄に広い土地を買ってキャンプをしてみたり、ここからここまでのもの全部ちょうだいと服屋の店員に言ってみたり、無駄に健康を気遣って健康食品や健康器具で無駄に健康になってみたり、金箔を朝ごはんの定番にしてみたり、カウンターの寿司屋で数も値段も気にせず食べてみたり、持っていないパソコンを高性能機種でその他周辺機器と一緒にまとめ買いしてみたり、無意味に全額五百円玉に変えてみたり、毎日の出勤をタクシーにしてみたり、腕時計は三百六十五日違うものを付け替えていみたり――くだらないことが混じっているが、この三億円があれば、このアパートともおさらばできるのだ。
たかが一千八百万程度、痛くも痒くもない。
自由を手に入れることができるのだ。
いっそ会社を辞めてしまおうかと吾妻は考えたが、今辞めれば怪しまれるであろう。期を見て動くことにして、現実視による混乱が落ち着いた吾妻は、ようやく手の震えが治まった。
「そうだ、祝杯の酒を!」
小声で言った吾妻は台所の下から取り出した、巷で最高に美味なる酒として評判であったウィスキーを持って畳の部屋に戻る。
「特別なことがあったときに飲もうと密かに買っていたのだが、今がそのときだと僕は見た。いざ開封、祝杯の美酒として呷ってやろうじゃないか!」
紙コップに注ぎ、宝くじを目の前に置いて、グイッとウィスキーを飲み干す。
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