内側
人間の身体は不思議なもので、三日も経てば体中の筋肉が衰え始め、一週間が経った頃には以前と変わらない軟弱そうな身体に戻っていた。何とも情けない身体に戻った吾妻はしばらく脱力感に見舞われて、仕事以外にほとんど部屋から出ることがなくなった。そしてそんな生活を五日ほど過ごしたのち、吾妻は何気なくアパートの敷地内を眺めて、ホームセンターで軍手を購入、雑草を抜き始めた。
梅雨に入ればまた伸び始めるであろう雑草をこれでもかと抜いて、抜いて、抜きまくる。それでも心が晴れるわけではない。草むしりは大家が帰ってくる前に終了し、その後銭湯に向かい汗を流す。帰り道に酒を一本購入し、ベランダでちびちびと飲む。小腹が空いてカップ麺を食べ、寝転がり、本を読み、飽きたら新聞を読み、それも飽きたら寝る。
無味乾燥と言える日々が過ぎていく。こんな日々を過ごすためにあの問題だらけの騒々しい家を吾妻は出たわけではない。もっとノーマルライフに相応しい、静かで、大人しい世界がこの世には広がっていると吾妻は思っていたのだ。しかし、行く先々に、生きる先々に、進む道の先々に、吾妻が望むものは転がってすらいない。もはや存在してすらいないのではないかと疑わしいレベルに達しようとしていた。
この数か月は一切が無意味なものになった。あっという間に、一瞬にして粉となり風に攫われ、消えていった。残ったのは無味乾燥地帯である。何もない、それどころか意味もない。そうとさえ思ってしまうほどに、吾妻の心には大きな穴がぽっかりと空いていた。
会社に行けば仕事はこなすものの、門司も心配するほどの抜け殻状態で、休暇を取ったほうがいいのではないかと課長から勧められもした。とはいえ、身体はいたって健康なのだ。嫌というほど健康なのだ。故に吾妻はいつもどおり仕事を終え、電車に乗り、帰宅する。その帰り道に立ち寄ったスーパーの見切り品に少々お高めの栄養ドリンクを見つけ、半額弁当と一緒に購入した。酒は、買わなかった。
「はいはーい」
帰宅後、吾妻はいったん着替えて藤堂るりの家を訪れた。彼女はジャージにエプロンとなかなか面白い格好をしていた。家の中からは美味しそうなカレーの香りが漂ってきた。
「どうしたの?」
「ああ、いや……この前のリンゴのお礼にと、賞味期限が近いんですが、栄養ドリンクがあったので、良かったらと思いまして」
「? 栄養ドリンク?」
少し不審がられたが、吾妻はあくまで普通に接する。
「夜分遅くにすみませんでした。ではこれで」
「あ、ちょっと待って」
彼女が呼び止め、吾妻は立ち止まる。エプロンを脱ぎ、彼女はにこりと笑った。
「カレー作ったんだけど、ちょっと多く作り過ぎちゃったのよ。良かったら食べて行かない?」
「…………」
彼女の声がとても優しく聞こえたのは、気のせいではないと吾妻は思った。
自分をはめた悪女であっても、例え他の住人比べて当たり方がきつくても、彼女は誰よりも心寂しい思いをして生きてきて、誰よりも寂しがり屋で、誰よりも人を思う気持ちがあるのだ。
でなければ、誘拐の一件で、ついでであろうとも吾妻を救出するように指示を出したりはしなかったはずで、こうやってカレーを作り過ぎたからといって夕飯に誘ってくれたりなどしない。
一刻の感情で腹を立て、契約書の奪還などと暴走的行動にまで発展させてしまった。それは彼女の内側を、心を知ろうとしなかった吾妻の失態――過ちである。
「……せっかくなんで、いただきます」
「そ。良かったわ」
こうして吾妻は彼女の家でカレーをごちそうになり、少しばかり縁側で酒を二人で飲み交わした。畦倉と違い、彼女の酒を飲む姿は艶やかで、今宵の月明かりは彼女を舞台上のヒロインのように照らしていた。差し詰め吾妻は端役であろう。
藤堂るりとの間にこれといった会話はなかったが、いつの間にか深夜零時を迎え、彼女がうつらうつらし始めたのを見て布団まで連れて行き、洗い物を済ませておく。それから机の上にあった鍵を見つけた吾妻は「大家さんが酔い潰れてしまったので鍵を借りて閉めておきます」とメモを残して施錠後、大家宅を後にした。
自分の部屋に戻り、しんと静まり返った我が家を見て隙間風のようなものを吾妻は感じた。それがぽっかりと空いた穴を通り抜け、沁みる。藤堂るりと一緒に飲んだ酒だけでは飲み足りず、酒を買っておけば良かったと――吾妻は、台所下に投げ入れていた長財布を手に、部屋を出た。
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