寝顔


 深夜一時、この時間帯になるとすべての住人が寝静まる。ニット帽、両手は指紋対策でグローブをはめている。全身真っ黒の服装で固め、忍び足で外へ出る。大家の家も明かりが消えていることを確認。静かな夜、月はなく星空のみが広がる。吾妻は軋む階段前でほくそ笑む。悪魔の笑顔である。

 鍛えられた肉体は吾妻のイメージ通りに動いてくれた。手すりを軽やかに乗り越え、真下に飛び降りた吾妻は、全ての衝撃を身体全体で吸収、分散させ、しなやかに着地した。そして俊敏な動きで大家宅に忍び寄り、いったん木陰に隠れて、素早く大家宅の裏手に回る。大家宅の裏口は鍵が壊れていて、ドアノブを左に五回、右に四回回すと鍵が開くということは把握済みである。素早く裏口を開け、暗がりの台所、身を屈めて進み廊下へ出る。右へ行けば風呂場、洗面所、トイレ、二階へ上がる階段がある。左へ行けば玄関、仏壇のある和室と藤堂るりの部屋がある。迷わず和室のある左へ進み、取り出すは暗視スコープである。高くついたが、性能は抜群であった。

 和室に侵入し、すぐさま仏壇のほうへと向かう。その横にある桐でできた引き出しを見つけて上から三段目の引き出しを開ける。そこには予定どおり、吾妻がサインした契約書が置いてあった。

 あの日、ここでサインをし、印鑑を押した。そして五十年契約という馬鹿げた契約が成立してしまったのだ。あのとききちんと契約書の内容を確認していれば、と吾妻は悔やまれて仕方なかった。

「さて、ミッションコンプリート……退散退散と」

 余裕綽々、吾妻は来た道を戻ろうとして――停止、息を殺した。

「…………」

 息を飲み、吾妻は藤堂るりの部屋から聞こえた声に冷や汗を垂らす。心を落ち着かせて、忍び足。再び歩き出そうとして、ふと覗き込んだその部屋には、藤堂るりが小さな明かりが灯る中、吾妻のいる廊下側を向いたまま眠っていた。彼女の寝顔を見た吾妻は、持っていた契約書を落としそうになった。

 彼女は、泣いていたのだ。


 傍らには水の入ったコップと薬のようなもの、額にはタオルが置かれている。熱でも出したのだろうかと、吾妻はここ最近の彼女を思い出し、その場に立ち尽くした。彼女はずっと元気そうであった。リンゴをくれたあの日もいつもどおりで――あれは、虚勢だったのだ。

 吾妻は寝苦しそうにしている彼女の顔を見て、自分の行いの愚かさに唇を噛む。しかし、ここで引き下がれば五十年もここに住む羽目になってしまうのだ。

(悪いな)

 心の中でひたすら謝り、台所へ移動した吾妻は、台所のテーブルに広げられた書類や写真を見つけて立ち止まった。侵入したときは身を屈めていたせいで気付かなかったのだろう。ちょっとした好奇心が働き、覗き込む。

「借用書?」

 0が多く書かれた古い借用書と真新しい借用書、その他には新聞の切り抜きも散らばっていた。その切り抜きと写真を持って星明かりのある窓の近くへ移動する。そして吾妻はそれらをすべて見たあと――契約書を元の場所に戻し、帰宅した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る