今是昨非

完璧


 翌日から吾妻は行動に移した。

 大家宅に侵入するために、まずは身体を鍛えることから始める。しかしむやみやたらと筋肉を付ければいいというものではない。千枚瓦のように肉体美を求めているわけではないのだ。

 周囲に肉体の変化を悟られないように、それでいて指先からつま先まで鍛え上げていく。それは壮絶な戦いでもあった。何しろ今まで鍛えてこなかった筋肉や骨が悲鳴を上げていたからである。

 最初の一週間を過ぎた頃には筋肉痛と疲労から二日ほど寝込み、それから徐々に身体が新たな習慣に慣れ始め、継続は力なり、一か月を過ぎた頃には見違えるほどの身体に仕上がっていた。吾妻自身も惚れこむほどのシュッとしていながらしっかりと筋肉の付いたパーフェクトボディ。この肉体美を誰にも見せられないことが悔やまれるほどであった。さらにどこか顔立ちが変わっているように思えて、さっぱりと髪も切ることにした。しかしながら、周囲からの反応はなかった。

 肉体改造が着々と進む中、吾妻は筋トレの合間に大家である藤堂るりについて以前以上の情報を集めることにした。とはいえ、身辺調査ではない。帰る時間帯、食事をする時間帯とかかる時間、風呂に入る時間から歯磨きにかかる時間、起床時間に就寝時間、習慣付いた行動、癖など、日常の中から得られる情報をかき集め、調べ上げたのだ。

 さらに吾妻の快進撃は続いた。定期的に行われる飲み会の最中、トイレに行くと見せかけて家の構造を観察している際に廊下脇の埃の被った本棚で偶然見つけたのは家の見取り図であった。それをしっかりと目に焼き付け、帰宅後にカレンダー裏へ書き写した。これでほぼ侵入経路の計画が立てられるようになり、天気予報を逐一確認し、実行日をじっくりと決め、ただひたすらに自分をいじめ抜いた。

 不法侵入に窃盗、そのために鍛え上げる肉体に罪はない。こういう事態にした大家が悪いと吾妻は川沿いを走りながら咆哮したこともあった。もちろんしばらくの間、不審者として警戒視されたのは言うまでもない。

 そんなある日、いつものように筋トレを終えて帰宅した吾妻は、ちょうど自分の部屋を訪れようとしていた藤堂るりとばったり会った。警戒していることを悟られぬようにと慎重に対応しようと思った吾妻だが、彼女はにこやかに持っていたリンゴを吾妻に手渡してきた。何か裏があるのかもしれないと勘繰っていると、彼女は裏のない口調で話しかけてきた。

「ご近所さんにもらったの。一人じゃ食べきれないから、皆に配っているのよ。良かったら食べてちょうだい」

「はあ……ありがとうございます」

 彼女が自宅に戻ったのを確認し、部屋に入って、受け取ったリンゴを台所で切り、畳に寝転がりながらしゃくしゃくと食べる。

「…………」

 リンゴ。それをわざわざアパートの住人全員に配り歩いて、吾妻にもちゃんと配って――

「くそっ! 心を乱すな! リンゴごときで心を乱すな!」

 がっつくように残りのリンゴを食べ終えて、吾妻は筋トレを開始した。ちょっとした気遣いに心揺らいではいけないと自分に言い聞かせながら、がむしゃらに腕立て伏せをする。まだまだ鬼になりきれていないと、吾妻はこの日を境に倍以上の努力をし続けた。

 間もなくして身体が納得の仕上がりとなり、充分な情報は綿密な計画として完成し――ついに決行日当日である。

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