決意


 車が動き始めて、吾妻はひとまず一息つくことにした。痒くて仕方ない顔を掻きむしりながら、隣ですんすん泣いている鴻巣に話しかける。

「どうした? 緊張の糸が解れてしまったか?」

「名前、訊くの忘れてた……」

「そっちか……」

 呆れそうになるが、気持ちはわからなくもない。しかし、吾妻はわかっていた。

「訊いても教えてはくれなかっただろう。何故なら彼は偽善で動いている人間だ。お礼を拒否するという点から考えて、救い出した対象に名前を教えるような真似はしまい」

「そうだよねぇ……あーあ、勿体ないことしちゃったなあ……」

 売られる身であったことすら忘れている様子に、少しだけ吾妻は安堵した。

「もうすぐ着きますよ、お二人さん」

 運転手に言われて吾妻は礼を言おうとした口を押えた。ルームミラー越しに彼がニッと笑ったのが見えた。

 車はアパート近くに止まり、運転手は「じゃあな」とニヒルに言って車を走らせ、闇夜に消えて行った。まるで映画のスクリーン内にいたような感覚で、今はさながら映画館から出てきた直後、余韻に浸る客である。ぼうっとした頭を揺らしながら鴻巣と一緒にアパートへ戻る。すると、アパート下のひらけた場所で、大家と共に住人のほとんどが神妙な顔つきをして集まっていた。

 吾妻と鴻巣に気付いた大家が二人に駆け寄って来て、住人たちが安堵の声を漏らす。どうやら誘拐されたことを知らされていたのだろうと吾妻は考え、駆け寄ってきた大家に助けを寄越してくれたことに関して礼を言おうと――その口を閉じる。偽善的秘密結社のボスと知ってのことではない。彼女の行動に、言葉を失ったのである。

「良かった! 鴻巣ちゃんが無事で!」

 そう言って鴻巣に抱き付いた彼女は何度も頬ずりをして鴻巣はそれをむず痒そうに受けていた。しかしその顔は幸せそうだった。家族と離れて暮らす、まだまだ子供。可愛がってくれる人がいるというのは幸せなはずである。住人も近付いてきて鴻巣に声をかける。鴻巣に、声をかける。

「…………」

 吾妻には誰も声をかけなかった。その理由は少しずつあからさまになっていった。

「うわっ!」「ひっ」「う」「おえ」「あ!?」「ぎゃっ」と次々に小さく声を上げる住人たち。彼ら彼女の目の前には化粧崩れをした女装した化け物がいた。吾妻である。彼ら彼女らは吾妻の姿を見るや否や悲鳴を上げて遠ざかり、挙句塩を持って来て蒔く者もいた。千枚瓦は顔を青ざめさせ、アーノルドは威嚇するように唸り、畦倉にいたっては逃げ出していた。

「…………」

 オークションが始まる前から変なテンションになっていたせいだろうか、冷静になってみると女装した化け物から距離を取るのは当然のことであり、しかしボディーガードを受けてきちんと送り迎えを行った上に、最後は助けられたものの、逃げずに傍にいてあげることはできたわけである。

 何も褒められたいわけではなかったのだが、吾妻はこの理不尽極まりない光景に言葉を完全に失っていた。もはや、蚊帳の外。牢からせっかく脱出しても、蚊帳の外。枠外の人間。

「あなたも無事だったのね」

 藤堂るりはどこかぼうっとした目で吾妻を見て、素っ気なく言った。

「私のことは仲間から聞いているんでしょ? だから話は省かせてもらうわ。仲間に見張ってもらう予定だったのだけれど、手配が遅くなってしまったのよ。行方がわからないってわかってすぐに動いて、もしかしたらあなたも誘拐された可能性もあるから、いたら一緒に助けてあげてって伝えておいたの。伝えておいて良かったわ」

「……どうも」

 ムスッとしながら吾妻は自分の部屋に向かう。洗面所でメイクを落とし、着ていた女ものの服を洗濯籠に投げ入れる。牢の中と何ら変わらない殺風景な部屋に寝転がり、目を閉じる。身体は疲れている。とても疲れていた。いろいろあって精神的疲労はマックスと言っていい。疲労困憊という言葉がしっくりとくる状態。

 そんな状態で二時間ほどごろごろとしていた吾妻は、深夜二時になり、しんと静まり返った真っ暗な部屋で勢いよく立ち上がった。

 沸々と、時間をかけて沸騰させた何かが、ぐつぐつと煮え滾り始めた。

「ボディーガードを引き受けて、女装させられ、力になろうと誓った矢先誘拐され、女装を笑われ、気持ち悪がれ、三億という侮辱的高額で落札され、助け出されても鴻巣のついでで、おまけで、挙句アパートの住人共には怖がられ、気持ち悪がれて……何だ? 何の罰だ!?」

 何か物を投げてしまいたい衝動に駆られるが、身近にあったのはタオルだけ。そのタオルを壁に向かって投げつける。何とも情けない衝突音にがくっと項垂れた吾妻は、膝を衝いて身体を震わす。

「……理不尽だ。もう嫌だ、こんなドタバタして普通じゃないアパート……やってやる」

 目を眇め、謎のやる気に満ちた身体を震わせた。

「あの契約書を盗み出し、破棄する……もう限界だ。五十年もこんな場所にいられやしない」

 すべてはノーマルライフのために。

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