紳士
再び戻って牢の中、今度は互いに大きく距離を取り、吾妻は減り込まんばかりに壁にもたれかかり、苛立ちを隠せない鴻巣は立ったまま貧乏ゆすりをして地面に足の裏を叩き続けていた。
あのオークションで天使は羽を黒く染め上げて堕天使となり、阿呆は阿呆に拍車をかけた。思い返せば気持ちの悪い自分を晒しただけの時間であったのだ。二億だろうと三億だろうと、得られる額はゼロである。築きかけていた良好な関係も失い、この先に望んでいたノーマルライフをも失い、未来も将来も失われることになる。得るものもなく、ただただ自分の阿呆さに嘆き続ける。そして誰かに問う。どうしてこうなった、と。
「誰だ!?」
遠くでそう誰かが叫んだ。しかし、耳に入って来ても、打ちひしがれている吾妻は反応するほど興味もなかった。この先どうなるのだろうかという漠然とした不安も含めて、何のやる気も起きないこの身体。いつの間にか女の子座りをしていることに気付いても、今更である。
遠くで呻き声が上がる。しかし耳に入って来ても、脚を投げ出して寝転んだ吾妻は見向きもせずに欠伸を漏らした。「変人に買われた変態」というタイトルで小説の一本でも書けやしないだろうかなどとプロットを頭の中で何となく構成しながら、ごろごろと冷たい床を転がり「お兄さん!」などと、聞き覚えのある懐かしい声が聞こえた。冒頭の一ページが頭の中で出来上がりそうだった吾妻は、創作の邪魔をするなとふて寝するようにそっぽを向いた――次の瞬間、脇腹に誰かのつま先が減り込んで申し訳程度の走馬灯を見た。
「お兄さん! ちょっと!」
「おや……天使が見える……」
「何を馬鹿言ってんの!」
はっとして吾妻は身体を起こす。目の前には天使と見紛う鴻巣語の姿。黒く染まった羽はどうやら抜け落ちてしまったようだった。
「どうした?」
すっかり目を覚ました吾妻が身体を起こすと、牢前に、フォーマル姿の男が立っていた。マスカレードを付けたままの彼はおもむろに牢の鍵を開けると、そのまま二人に近付いてきて、とても紳士的な声色で囁いた。
「るりお嬢の命を受けて、助けに参りました」
「るりお嬢? それは藤堂るりのことか?」
吾妻が質問したとき、オークション会場のほうから騒ぎ声が聞こえ始めた。
「時間があまりありません。仲間が今、オークション会場に混乱を与えています。今の内に脱出します故、付いて来て下さい」
そういって男は鴻巣をお姫様抱っこして駆け出した。慌てて追いかける吾妻は通路に倒れている珍品団を見た。この男の仕業であることは明白であった。
「あなたは何者だ?」
「明かすのは構いませんが、他言しないよう願いたい」
「約束しよう」
「よろしい。我らは偽善的秘密結社、創始者は藤堂藤一郎様であります」
彼は余裕な表情をマスカレードの奥で見せながら、ぽうっと見惚れるようにしている鴻巣の熱い眼差しを華麗に受け流してクールな口ぶりで語った。
彼らはその名のとおり、偽善的にありとあらゆることを行っている秘密結社とのことであった。あるときは誘拐事件に立ち向かい、あるときは立てこもり犯から人質を奪取し、あるときは空を飛ぶ飛行機に飛び移ってハイジャック犯を取り押さえ乗客を救い出しているという。
救出だけに留まらず、彼らは街中のゴミ拾いやボランティア活動にも積極的に参加をしているという。まさに偽善である。見返りを求めないことをモットーにしているという彼らは「ありがとう」の一言すら受け取らないという。
実際に吾妻が言おうとすると「その言葉は、普段お世話になっている方に」と、男ですら惚れてしまいそうな雰囲気で言われ、まさに男の中の男であると吾妻は確信した。その彼の腕の中でホの字とないっている天使は、まさに極楽のゆりかごに乗っているような気分であろうと吾妻は思った。どうせなら自分も抱き抱えられて運ばれたいなどと乙女チックな思考が僅かに生まれたのは、おそらくこの女装のせいである。そしてこの女装すらも笑わないでくれている彼は、やはりとてつもなく紳士的な男であった。
もしも偽善的秘密結社に入ることでそのジェントルマン精神の塊がこの身に宿るのであれば、いくらでも従士したいと――そう思った吾妻だが、彼の口から出た「るりお嬢」という発言を思い出して顔をしかめた。
「創始者である藤一郎殿は亡くなられたと聞いた。もしやと思うが、偽善的秘密結社の現トップは藤堂るりなのか?」
「そのとおりです」
彼が頷いたとほぼ同時、外へ通じているという扉の前で立ち止まる。扉が勝手に開いたかと思うと、外には大型のジープが用意されていた。同じくフォーマル姿の男が運転席に座っており、助け出してくれた男のほうは鴻巣を下し、吾妻と一緒に車の中に乗るように促してきた。
素直に乗り込み、ドアが閉められる。その直前、彼は二人の拘束を素早く解き、一言添えた。
「お気を付けて」
最後の最後まで魅せてくれた彼を、名残惜しそうに鴻巣は見つめていた。
それは吾妻も同じであった。
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