非道


 門司が書類作成に追われるのを眺めながらの退勤、申し訳ない気持ちよりも誰よりも早く帰ることのできる優越感が僅かに上回った。電車に揺られながら「もうすぐ学校に着きます」なるシンプルなメールを鴻巣語に送る。アドレス帳に家族や会社の人間以外で初めて加わった女性がまさか女子高生だとは、果たして不毛な青春を送ってきた吾妻の知人らはどう思うであろうか、いささか吾妻は不安でもあった。しかしながら、少女と付き合っているわけではなく、ただの護衛役で、親密度も何もつい最近知り合った子供だ。むしろ兄のような感覚で、まさしく鴻巣から「お兄さん」と呼ばれることに快感を覚えるのは弟妹を持たない末っ子であるが故である。

 駅から徒歩数分、女子高前に到着するとほとんどの生徒が帰宅した後なのであろう、人の気配はあまり感じられない校舎がどんと腰を据えていた。今朝は気付かなかったが、正門には監視カメラが数台取り付けられており、警備員が常駐しているらしく小さな事務所のようなものが併設されていた。怪しまれないようにと吾妻は少し離れた交差点に立ち、鴻巣を待つ。

「お兄さーん」

 手を振りながら正門から駆けてきた鴻巣はどこか嬉しそうであった。吾妻はあえて訊かず、おそらくは誰かと一緒に帰宅することに安心感を抱いているからであろうと吾妻は感じ取った。

 それもそうであろう、ストーキングされる日常に突然身を置くことになれば、誰であろうと憤慨し、それ以上に恐怖するはずなのだ。門司に体験談を聞いてからは別の不安も抱いてしまった吾妻も、厄介事にならないことを祈るばかりである。

「さてさて、帰りましょう」

「悪いな、五時半と迎えが遅くなってしまった」

「いえいえ、お兄さんが悪いわけじゃないですし、悪いのはストーカーのほうです」

「まさしくそのとおりだ。我らは悪いことをしているわけではない、だからこそ胸を張って帰途に着こうではないか」

 向かうはおんぼろアパート。鉄壁の要塞でないところが惜しいところではあるが、何かがあればすぐに誰かが駆けつけてくれる最高の環境とも言える。しかしながら一抹の不安があった。

 あの千枚瓦が設置した自作セキュリティーを掻い潜り、見事筋骨隆々のアーノルドを盗んだ輩がいる時代である。動きも俊敏、忍者のようなあの窃盗団レベルの技術があれば、もしかしたら音もなく鴻巣にストーカーの魔の手が及ぶ可能性も考え得る。

「今夜から大家さんの家に泊まってみてはどうだろう? 僕が言えば、僕は貶されても君のためであれば首を縦に振ってくれると思うぞ」

「迷惑じゃないかな……」

「あの人は拒否しないよ。うん……うん?」

 根拠に乏しいことを言って、吾妻は大家に対して不思議なぐらいに信頼を持っているかのような自分に驚いた。どうして今まで吾妻に酷い目を遭わしてきた彼女のことを信頼の置ける立場に昇格させ、あたかも今までお世話になってきたかのような捏造とも言える発言に至ったのか。

 謎であった。確かに千枚瓦の規則違反に怒りはしたものの、強い姿勢から徐々に物腰柔らかく、彼のためにと吾妻を動かした。畦倉もまた同様であり、吾妻以外の住人に対してはとても心が広い女性なのである。嘆かわしいことこの上ない差別のような扱いを自身は受けているわけではあるが、それでも鴻巣語のことを藤堂るりが見捨てるとはまったく考えられなかったのだ。

 奇妙さに吾妻が黙り込んでいると、肩を鴻巣が叩いてきた。何かあったのだろうかと振り向くと、そこには鴻巣語ではなく、見知らぬ男の姿があった。状況を察するに、少女の悪戯的変装である

「いきなり変装するな! 心臓がキュッとなったぞ!」

「びっくりした?」

「するよ! 隣を歩いていた華の女子高生が、牢屋にぶち込まれていてもおかしくない面をした男に変わっていれば、誰だって驚くぞ!」

 彼女は男の姿でからころと笑って顔を剥いだ。一度見たことがあるとはいえ、人の顔が剥がれた下にまた顔があるというのは不気味そのものである。

「それにしても、本当に変装が天才的だな。芸術と言っても過言ではあるまい。かの有名なアルセーヌ・ルパンも真っ青の芸当だよ」

「嬉しいなぁ、もっと褒めて」

「褒め過ぎれば味気がなくなってつまらなくなるぞ。だが……そんな変装技術を持っていれば面白そうだな……」

 何かと便利そうである。何が便利なのか、頭の回転の悪い吾妻にはすぐに具体的なものを挙げられなかったものの、これ一本で食っていけるほどの価値があるだろうと吾妻はうんうんと唸った。

「興味ある?」

「あるね。用途に見当が付かないけれど、持っているだけで何だか自信になりそうだ」

 何の取り柄もないだけに、吾妻は彼女の技術は心底羨ましいものである。

 千枚瓦や畦倉、あの藤堂るりにだって個性的な取り柄のようなものがあるというのに、自分には何もないのだ。僅かに浮けるだけのしょぼい能力を取り柄など言えるわけもない。自身のコンプレックスは家族によって形成されたようなものだ。

 取り柄も特化した何かがあるわけでもない、優秀な兄姉たちに比べられる日常に劣等感は腐るほど湧いて出てきては吾妻の中に蓄積されてきた。ノーマルライフという名の平凡な日常生活を送ろうと飛び出してきても、その先でも自分は何も持たないことが沈むことなく浮いては周囲の目にさらされる毎日。しかし、このボディーガードが終われば平凡な毎日が、ノーマルライフが待っているように吾妻は思えていた。根拠も何もない。これは願望である。ただの願望で、鴻巣のような努力という努力はしていない。これこそ自身の阿呆さを示しているであろうと吾妻は自嘲した。

「だったら、ちょっと体験してみる?」

 唐突に鴻巣はそう言った。住宅街のど真ん中――突風のような風を巻き起こして吾妻の周囲を走った鴻巣は、満足げに、しかしどこか微妙な顔をして吾妻の前で立ち止まった。

「何を……何を!?」

 見て驚くなかれ――ではなく、見て吐くなかれ。下はスカート、上はブラウス、おしゃれに首元にまかれたスカーフは桃色である。顔が少し痒く、近くに止めてあった車のサイドミラーを使って自分の顔を確認する。吐き気は一瞬にして喉元まで上がってきた。濃い目のチークにルージュの口紅がたっぷり塗られたがさがさ唇、まつげが異様に長く、アイラインはロックバンドを思わせるほど黒く厚い。気色の悪い自分の顔に吐き気を催す貴重な体験に、吾妻はその場で項垂れた。これは変装ではなく、女装である。

「うーん……化けるのは簡単でも化けさせるのは苦手みたい」

「充分化け物じみているからな!」

 うぎゃあ、と女装させた張本人も逃げ出す。逃げ出したいのは吾妻のほうである。というよりも、着ていた服はどこにいったのだろうかと吾妻は困り果てて彼女に訊ねようとした。こんな道端でこんな姿を誰かに見られでもしたら、もしそれが吾妻であることを知っている人物で「吾妻は特殊な女装癖があるぞ」と周囲に広められでもしたら、肩身の狭い思いをしながら人生を歩まなければならなくなるのだ。

「くそう、とにかく先にメイクを落として――」

 不意に――身体が前方に引っ張られる。

「え?」

 突然止めてあった車の扉が開いて、吾妻はその中へと引きずり込まれたのだ。それを理解するのは早かった。しかし、早いだけで何もすることなどできず、口に布のようなものをあてられた直後、吾妻の意識は少しずつ遠退いていった。


 ――そしてこの場面に繋がるのである。息苦しさに目をぱちくりとさせ、その原因が口を塞ぐガムテープだと気が付いた時にはあとの祭りであった。両手両足を結束バンドで縛られ、身動きも何もできない状態、妙に下半身が寒いのは着慣れないスカートのせいで、顔じゅうが痒いのはメイクのせいである。窓から見える道路沿いの街灯だろうか、眩しい灯りが暗がりの外を弾丸のように通り過ぎて行く。夕方の五時半をゆうに過ぎ、どうやら気を失ってからかなりの時間が経ったように思われた。無理矢理身体を起こして現状の把握を試みようとして、後部座席のシートに鴻巣語が縛られて寝転がされているのを見つけた。

「身体を起こすなよぉ」

 訛ったような言い方をして、吾妻の頭を座席下にねじ込もうとしてきた助手席の男は煙草の煙を吐き出して、それから咽た。

「大事な商品ごほっ! だからぁげほっ、うっ、んん! ……怪我でもされた大損だぜ」

「んんんん、んんんんんん、んん!」

「日本語でお願いしまぁす」

 ならばこのガムテープを取れと叫ぶも通じることは当然なく、縛られた両手両足をばたつかせて訴えかける。大事な商品と言った以上、自分たちに危害を加える可能性はないと吾妻は判断した。ならば足掻いて、せめて状況を把握すべく情報を入手しようと考えた。

「うるせえな、殴って気絶させとけ」と、運転手が言った直後、吾妻は助手席の男に殴られ気絶した。非道である。


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