白黒


 夕方の六時前に帰宅しなければ、暗がりを歩くことになるかもしれないと電車の中で鴻巣の連絡先を携帯電話に登録している最中に気付き、会社に着いてすぐに吾妻はすべて正直に社長に話した上でどうにか帰宅時間を早める形をとることとなった。その代り自分の仕事時間が削られる分、忙しくなるのは明白である。

「ストーカーかぁ……確かに警察は重い腰を上げることはないぞ」

「知ったような言い方だな」

「俺はお前と違ってモテるんだよ」

 昼休みの休憩中、煙草を吸う門司の横で吾妻は珈琲を飲んでいた。嫌みを言う門司ではああるが、表情は重く険しい。

「大学時代にさ、同期の女子に告白されたんだが、好みじゃなかったから断ったんだ。でもな、彼女は俺にフラれたってことを認めずにストーカー行為をし始めたんだ。毎日自宅の電話は彼女の留守電メッセージで満タンになって、学校に行こうとしたら何故か同じ電車の同じ車両に、時間を変えてもいるんだよ。挙句家の鍵穴が傷だらけになっていてさ、彼女に違いないと怖くなってさ……」

「ほう……」

 珈琲を飲む手を止める。しかし、別にモテる男を僻んで、モテる男の不幸話に喰い付いたわけではなかった。断じてそうではないと吾妻は否定する。

「警察に行ったんだ。でも、書類を書かされただけで何もしてくれはくれなかったよ。だから自分で解決しようと思って、今度は俺のほうから接触を試みたんだ。もうストーキングするなって、注意しようと思った。でも、それがまずかった。声をかけた途端に彼女が突然叫び出してさ、ついでに泣き始めて、最後に俺は悪役にされて留置所にぶち込まれた」

「内容がかなり端折られていようとも展開がわかる時代だな……」

 つまりは冤罪である。何もしていない門司は逆に彼女のストーカーとして捕まってしまったというのだ。この世は男女平等ではない。むしろ冤罪という恐怖に常日頃から男子諸君は怯えて生きているようなものである。

 話が逸れたが、門司は無実証明の証人が多数存在しており、日頃の行いの良さから身の潔白は次々に晴れ、さらにストーキングをし続けていた彼女の証言に襤褸が出始め、そこに付け込み勝利、いや、完全勝利を収めたという。

「そのとき雇った弁護士がなかなかの手練れでな、高額ではあったけれど確実に無実を証明する証拠とか集めてくれてね、今でも何かあれば相談するようにしているんだ。しかし、もう二度とあんな目に遭うのは嫌だね、懲り懲りだ」

「敏腕弁護士か。何やら物騒な話を聞いてしまった手前、どうにも自分の足下が恐ろしく揺れているように思える……その弁護士を今度僕に紹介してくれ。今朝は警察官に買春と間違えられそうになったんだ、三度も」

「それはご苦労さん。ちゃんと紹介してやるよ。それにしても、お前が人助けとはな。俺が思うに、下心がありきに思えるんだが」

「馬鹿を言うな。僕はそんな醜い心を持ってはいない。今朝は子を心配する親の気持ちを悟ったぐらいだぞ?」

「そうかい、それなら良かった。ではその醜さの欠片もない心を以てして、そろそろ借金返済について」

「さて休憩終わりだ! 働くぞ!」

「逃げるな!」

 彼に追いかけられて吾妻は走って逃げた。追いかけずとも、デスクは隣である。

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