茶番
「あれ? 何しているんですか、吾妻さん」
「ストレッチさ。こうしてアキレス腱を伸ばしているんだ」
押し入れの襖に手を押し付けながらアキレス腱を伸ばすポージングで吾妻は平然と嘘を吐いた。
「ストレッチはお風呂上りがいいですよ。よく伸びます」
「ほほう、ならば今度からそうしよう。して、何か用かい?」
「シチューを作ったんです。良かったらどうぞ」
「それはありがたい。この香りから察するに、シーフードシチューだね」
「犬と似て鼻が良いですね吾妻さん。じゃあ、コンロに置いておきます。温めて食べてください」
その巨躯で床板を軋ませて用を済ませた千枚瓦は、礼儀正しくお辞儀をして出て行った。気の利く隣人ではあるが、せめて空気を読んでくれと吾妻はひとまず危機回避できたと押し入れを開けた。
「無事だな」
「額に思い切り鞄の角が……」
「それはすまない」
謝って吾妻は押し入れから出てきた少女に頭を下げた。
台所へ向かって紙コップを取り出し、お茶を注ぎ入れる。それからおぼんで部屋に運ぼうとした矢先、
「回覧板でぇーす」
気の抜けた、というよりもやる気を感じさせない気怠そうな声に吾妻は思わず走り出した。
鍵の掛け忘れである。
二人目の訪問者はおそらくこの声からして畦倉あやせである。玄関に走り寄るよりも、さっき同様に押し入れに少女を入れたほうが早いと踏んで、吾妻は少女に駆け寄ってお茶の入った紙コップごと少女を押し入れに投げ込んだ。
「何をしているんですか……?」と畦倉は不審者を見るような目を、押し入れに背を向けて息を荒げている吾妻に向けて部屋に入ってきた。勝手に上がるなと叫びたい思いではあったが、如何せん、アパートの住人に常識やモラルと問いただしたところで暖簾に腕押しなのだ。
「これは、だな」
「押し入れに……何か隠しているんですか?」
にやっと笑ったように見えた陰険で陰湿そうな顔で、畦倉は冷や汗を流し始めた吾妻に迫ってきた。これはまずいと吾妻は咄嗟に指先で襖を引っ掻いた。がさごそと音を立てたのち、吾妻は真剣な面持ちを偽造して畦倉に鬼気迫る演技をして見せた。実際鬼気迫っているだけに演技に拍車がかかる。
「たった今、死闘の末に体長十センチメートル強のゴキブリをここに封じたところだ」
「十センチメートル強!?」
さすがに誇張し過ぎたかと思った吾妻だったが、思いのほか畦倉は阿呆であった。すかさず再び指先で襖を引っ掻くと、中で水が飛び散る音が響いた。おそらくコップのお茶が今になって押し入れの中でこぼれ落ちたのだろう。
「今の音、は?」
「威嚇攻撃で液体を吐き出しているのかもしれん」
「それ本当にゴキブリですか!?」
えんがちょ! と叫びながら回覧板を部屋の端へ投げ捨てたら畦倉はへっぴり腰で部屋を出て行こうとする。
「明日までに勝負をつける! それまで部屋で待機していなさい!」
「言われるまでもないです!」
そう叫んで畦倉は扉を壊さんばかりに閉じ、階段を転がり落ちる音が響いた。
「空気も読めない、間も悪い……そういう連中しかいないのか、このアパートには」
呆れて押し入れを開けると、そこには頭の上に紙コップを乗せてお茶を滴らせる少女が吾妻を睨み付けていた。
「すまん」
「……もういいよ」
怒る気にもならないらしく、少女は押し入れに腰掛けた。不機嫌そうな少女に気まずくなった吾妻はタオルを用意するべく洗面所に向かった。
「新品のバスタオルは、と」
必要だろうと買っておいて使うこともなくしまい込んでいたバスタオルを段ボールから取り出し、ビニール包装を剥がす。お茶のシミは簡単には取れないだろうが、どうせ使うことなく腐らせてしまうかもしれない品だ、使うのであれば人の役に立てたほうがよかろう、と自分に余裕を持たせて部屋に戻った。そして硬直した。
「さっきは荷物運んでくれてありがと」
押し入れに座る子高生の隣で、にまぁ、と怪しげに笑った大家がいたのだ。心臓がきゅっと締め付けられ、しゃっくりにも似た声が自然と喉の奥から飛び出す。
「お礼にお団子持ってきたんだけど、まさか女子高生を連れ込んでいるとは思わなかったわ」
「いや、あのです、ね?」
吾妻はよろよろと、今にも腰が砕けて倒れてしまいそうな気持ちで少女に歩み寄った。
「この女子高生がですね、何やら僕の部屋の前で泣いていまして、それでいろいろとあって部屋に上げることになってしまってですね……いや、やましい気持ちも下心もありませんよ!? ただ、どうして僕の部屋の前で泣いていたのか事情を訊こうかとしていたら来訪者の連続であれこれありまして……って、本当にどうして僕の部屋の前で泣いていたの?」
もはや説明も何も、自分で自分の首を締め上げそうな自分の混乱ぶりに、仕方なく少女に矛先を向けることにした。しかし、少女はムスッとしてこう言った。
「だって、自分が言ったんじゃん」
「僕が何を言った?」
「自分を頼れって」
言われて思い当たる過去をライブラリーで検索するも、女子高生に自分を頼れなどと言えるほど自分に自信など持っていない上に、女子高生に話しかける強靭な心を持っているような人間でないことぐらい、悲しいことに自覚済みである。だが、どういうわけか、少女をただの他人のように思えない自分がいることに吾妻は戸惑い、少女が次に放った一言に、記憶が鮮明に蘇り、唖然とした。
「力になってやるからって、お兄さんが言ったんじゃん!」
「お兄さん……もしやきみは」
震える指先を少女に向け、藤堂るりは呆れたように自己紹介を代弁した。
「この子は
少年は、少女だった。
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