少女


 金欠状態の続く吾妻の財布には小銭が数十枚と詰められている。これは小学生の頃からこつこつと貯めてきたお小遣いの一部である。札の入った長財布は自宅アパートの台所下に投げ入れ、極力使わないよう「なかったこと」にしている。かれこれ二十三になる吾妻が、まさか小さい頃の自分に救われるとは思いもせず、そんな自分へのご褒美も兼ねて少々贅沢、目に留まったコンビニのスイーツを二つほど選抜し購入、のちに自分の阿呆さに当然後悔した。

 自分に厳しくしてきたつもりではあったが、ひとたび気を緩めれば何をしでかすかわからない。そんな自分への疑心を抱きながら帰宅していると、ここ最近になって頻度が上がっている、大家である藤堂るりとの遭遇に顔をしかめそうになった。

「あらちょうどいいわ」

「荷物持ちでしょう。わかっていますよ、いいですよ、わかりましたよ」

「嫌な言い方。モテないわよ、そんなんじゃ」

「こんな僕を好いてくれる人とお付き合いしますよ」

 そんな都合のいい女性と出会える可能性が限りなくゼロであることはさておき、彼女に手渡された荷物は、今回は酒ではなく卵や魚や肉や野菜といった食材であった。飲み会も数日前に終えたばかりであるからごく普通の買い物だ。

「よく会いますけれど、普段何をされているんですか?」

 さりげなく情報を聞き出そうとする吾妻であったが、彼女はそれを読んでいるようで軽く笑って誤魔化した。その笑顔にときめきそうになったが、すぐさま自制し早足で歩いて彼女を追い抜く。

 腹黒く悪女でなければ惚れていたであろう美女と一緒に歩いて帰るという複雑でもどかしい思いを腹の奥に溜め込みながら、ようやくアパートに着いた吾妻は荷物を返してさっさと部屋に戻る。別れ際に「ありがとね」と囁かれたが、脳裏に借用書と彼女の悪に染まった笑顔が過り、無愛想に「では」とだけ言って階段を上がる。二階に上がって踊り場で彼女が自宅に入る様子を眺めてから大きくため息を吐いた。

「神はやはり残酷だ」

 好きな食べ物に嫌いな食べ物を混ぜ込んでしまったかのような不快さに腹を立てながら、鍵を取り出してふと気付く。吾妻の部屋の前にしゃがみ込んで腕に顔を埋める少女がいたのだ。その姿は制服で、仕事先に向かう最中によく見かける制服と一緒であった。駅の傍にある女子高の制服だ。

 その女子高の生徒が何故ボロアパートの一室、それも吾妻の部屋の前にしゃがみ込んでいるのか、謎であった。いかがわしい店に電話をした覚えもなく、そもそもチキン肌でもある吾妻にそんな電話ができるわけもなく、かといって思い当たる節のない吾妻は、自分の部屋に帰るかどうかを躊躇った。

 寒さも落ち着き、肌寒さだけが残る五月の中旬、夜の七時。どうするべきか悩み、吾妻はとりあえず声をかけることにした。

「おい」と声をかけた吾妻に対して、女子高生は顔を上げた。涙で袖を濡らしていた少女の目は、薄暗い外灯であってもわかるほど真っ赤になっていた。

「どうした? 何かあったのか?」

 こういうときの対処法を知らない吾妻は急いで大家か畦倉に助けを求めようとした。ところが、先手必勝――ではないだろうが、彼女は突然吾妻に抱き付いてきた。

「ふへぇっ!?」

 吾妻が変な声を上げて硬直する中、少女は声を押し殺して泣き始めた。これはどうしようもない事態だ。突然の出来事に混乱した吾妻だったが、こんな現場を誰かに見られでもしたら、変な噂を立てられて五十年間、ネタにされていじられ続けること間違いない。咄嗟に、しかし反射的に、吾妻は鍵を開けて自分の部屋に逃げ込んだ。当然、抱き着いて来た女子高生も一緒である。

「悪化した!」

 自分の首を絞めるかのような無意識に近い暴走行為に慌てふためく。とにかく離れてもらおうと説得を試みると、少女は意外と素直に吾妻の言うことを聞き、畳の部屋に自ら座って落ち着きを取り戻そうとしているようだった。

 ひとまず自分も落ち着こうと深呼吸。これから何をすべきか考え、とりあえずお茶でも出して話を聞こうと思い付き、すぐさま少女の傍らに箱ティッシュを置いてやり、それから窓を開けて空気を入れ替える。かび臭い部屋で申し訳ないと思いつつ、茶を入れるべくペットボトルのお茶を取り出した。そのときだった。

「吾妻さーん!」

 野太い声に吾妻は全身に電気が走ったかのような衝撃に小さく「ひっ」と声を漏らした。この声は千枚瓦哲。そしてこの時間帯の来訪は、即ちおすそ分けである。

「吾妻さーん!」

 がちゃり、と音が鳴り、ドアノブが回る。その刹那、吾妻の身体能力はほんの一瞬だけ世界最高峰の域に達した。畳の部屋に一足飛びした吾妻は少女を軽々と抱えて押し入れへと投げ込んだ。もちろんその押し入れには布団があり、少女はおそらく無事である。襖を閉め、歯噛みする。少女の鞄を忘れていたのだ。扉が開き、外灯の明かりと一緒に蛾の揺らめく影が部屋に入ってくる。

「ぬえい!」

 謎の掛け声を上げて瞬時に押し入れに鞄も投げ入れる。襖を閉めた直後に「むぎゃ」と変な声が聞こえたが、おそらく少女は無事ではないであろう。

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