現実
これが今朝見た夢の概要である。実に阿呆が見そうな頭の悪そうな夢であった。
目を覚ませばボロボロで今にも崩れそうな天井が視界を覆っていた。かび臭い壁はなぞればボロボロと崩れてきそうである。
このアパートに引っ越してきて早一か月、ゴールデンウィークは実家にも帰らず自堕落に貪り尽くした。それからも起きて、仕事へ行き、帰って晩飯を食って寝るの繰り返しという「規則」正しい生活を送ってきた。そのおかげで交友関係も広がらず、悶々と過ごす日々である。
そんな吾妻の部屋に時々訪れてくるのは犬探しの一件で知り合った隣人の千枚瓦哲である。おすそわけと言って彼が持ってくる料理は実に美味で、自身の料理が残飯のように思えてならないほどに舌を癒してやまない。故に、吾妻の体重がここのところ増え続けているのは詰まる所彼のせいである。
そこでダイエットに買って出たのは彼の愛犬であり家族である筋骨隆々のチワワ、アーノルドの散歩だ。早朝の散歩でアーノルドを連れて歩けば、もしかしたら素敵な出会いがあるかもしれないなどと妄想に拍車をかけていたものの、親心か、それとも一度誘拐された経緯があるための心配性なのか、散歩中の後方5メートルに千枚瓦が付きまとっているせいで出会いもくそもなく、結局健康的な身体になったこと以外に得られるものは何もなかった。
この物悲しさを癒すために、吾妻はここのところよく酒を飲むようになっていた。元から酒好きということもあっていいストレス解消だと吾妻は思っていたのだが、積み重なる人恋しさが重くのしかかってくる。おかげで一人酒の時は泣き上戸となり、気色の悪い嗚咽を漏らしながら畳を濡らしていた。
その気色の悪い嗚咽に対して苦情を言ってきたのは階下に住む占い師の畦倉あやせである。
苦情をきっかけに、吾妻は彼女と酒飲み仲間となっていた。引きこもりがちな彼女もまた人肌恋しいようで、普段は陰湿で陰険そうな雰囲気で前髪を垂らして不気味さを垂れ流しているが、酒が入れば意気揚々、吾妻と一緒に肩を組みながら下手くそな歌を歌い、愚痴を言い合いながら、そして決まって最後はくだらないことで喧嘩をして終わるのである。
それでも朝になって顔を合わせても「あ、おはようございます」と普通に挨拶を交わすのだ。
二人きりで酒を飲んで良いムードにならないのは、これといって彼女に吾妻が女性としての魅力を感じないせいである。そもそも、前髪を上げたら美女であろうとも、彼女は吾妻の好みではまったくないのだ。
このアパートの住人とは大家主催の飲み会で一度だけ顔を合わせていた。しかし、その中に吾妻の心を射抜くような女性は一人もいなかった。何故なら全員が大酒飲みの酒乱なのだ。吾妻が思うに、自分のことはまず置いといて、酒を飲んで人格が変わる女性は完全にNGなのだ。
清楚可憐に、おしとやかに、お猪口一杯の酒をゆっくりと味わい飲む姿にこそ吾妻はそそられるのだ。その原因はおそらく吾妻の母にあった。普段大人しい母は、酒が入ると天変地異を起こすことができる恐れ多い龍神の父をも手が付けられないほどの獰猛な獣と化すのだ。そんな母を見て以降、吾妻の中には母とは真逆の女性を好みの女性として位置付けてきた。しかしながら、そんな女性はこのアパートにはいなかった。いなかった。ところが、アパートの住人以外に一人だけ、吾妻の心を射抜く女性がいた。
嫋やかな振る舞い、容姿も抜群で完璧なプロポーションはグラビアアイドルも息を飲むほど美しい。飲み会の席では瀟洒な仕草で酒を注いで回り、時折見せる楚々とした微笑みは安い酒を美酒へと変貌させるほどである。グラスに触れる唇はいっそ殴られてもいいから触れてみたい衝動に駆られ、白く傷一つない、汚れを知らない美妙な肌は誰であろうと見惚れること違いない。長い黒髪を揺らして彼女が振り返れば、何とも表現しがたい香りが鼻こうをくすぐり、天にも昇るような思いになる――と、散々褒め千切ろうと、吾妻は舌打ちをしたくなるほど腹の底から怒り心頭である。何を隠そう、彼女こそ、このアパートの大家であり、吾妻の憎き敵である藤堂るりなのだ。
ぼさぼさの黒髪を適当に束ね、女っ気のないジャージ姿が似合う詐欺師で悪女。この女性が、電話越しでもわかるほどの明朗快活とした類まれな人望満ち溢れる人柄であった前大家である藤堂藤一郎の孫娘だとは証拠を並べ立てられようとも納得の一つもできないのだ。
神は残酷である。どうして彼女にこれほどまでに恵まれた付加を与えたのであろうか。まさに不平等、世界中の女性に分け与えて枯渇させてしまえと願わんばかりである。違法的とも言える契約によって五十年間もここに住まわなければならなくなった吾妻にとって、変人だらけのアパートに住み続け、待ち望んだノーマルライフを得られない日常は苦痛と屈辱の塊だった。
一度失ったチャンスも、いつまた訪れるかもわからないままだ。
きつけに一杯、缶ビールを開ける。今夜は恒例の飲み会。せいぜい大家の懐にダメージをと、酒をたらふく飲んでやろうとやけくそになった。
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