少年


 大家宅の一室、十畳の和室は賑やかな声で埋め尽くされていた。テーブルの上には空になった酒のカップやら瓶やらが散乱し、つまみやお菓子やジャンクフードが次から次へと彼ら彼女らの胃袋へと消えては藤堂るりの手によって補充されていく。その光景はどこか野性味を感じざるを得ない。

「吾妻さぁン、飲んでますくわぁ?」と吾妻が酒を注いでいるとすっかりできあがっている畦倉が絡んで来て、封筒を一つ吾妻に見せてきた。

「何だ? 恋文か?」

「は?」

 女性に半ギレ顔で「は?」と言われると心が痛むのは何故だろう。吾妻は自身の失言に涙した。

「ほらぁ、拝観料とか言って吾妻さんから巻き上げたお金ですよ」

「返金してくれるのか?」

「あのとき、すごく動揺していたし、恥ずかしかったから、つい請求しちゃったんです。でも、これはさすがに返さなきゃなあってずっと思っていたんですよ」

 拝観料。前髪を上げてしまったことで発覚したのは畦倉あやせが隠れ美女であることだ。彼女はそんな自分の顔を見られることを恥ずかしがっている。見られて恥ずかしいという心理は吾妻には理解できなかったが、拝観料にしてはお高めの一万円がこうして返却されるとは考えてもいなかった。ある意味、臨時収入のように思えて妙に嬉しくなる。

「それにしても、どうして隠す必要があるのかわからんな」吾妻がそう言って、差し出された封筒に手伸ばす。「それだけ美人であれば、待ち人ぐらいできそうなものなのに」

「…………」

「おい」

 差し出された封筒を指先で掴んだが、いくら引っ張っても畦倉は一万円の入った封筒を離そうとしない。何故離さないのか疑問に思っていると、畦倉はぼそりと呟いた。

「ちょっと……いいですか」と言われて、吾妻はそっと手を離す。そして彼女はおもむろに額に寄せて念じるように言った。それは呪いをかけるかのようにおどろおどろしい声色であった。

「この一万円に、呪いをかけました」

「かけるな!」

 急いで吾妻は封筒を畦倉から奪取、懐にしまいこむ。どうやら彼女の地雷に足を踏み入れてしまったようだった。金輪際、彼女の前髪の下について触れることはよそうと吾妻は舌打ちをして宴会の輪に転がり込んでいった畦倉を見送った。彼女の占いが本物であることは経験済み、さすれば、呪いだって本物の可能性があるのだ。

「恐ろしや」

 呟き、ビールを軽く飲んでナッツを口に放り込む。見るからに変人揃いのアパートの住人らが騒ぐ光景を眺めていると、孤立感に吾妻は襲われた。まだ新入りでもある吾妻は、最初の飲み会ではそれなりに絡まれたものの、二回目にもなると積極的に声をかけてきてくれる人はいなかった。これでは一人酒同然ではないかと吾妻は緊急的打開策として畦倉の姿を探した。

 しかし彼女はビール瓶をラッパ飲みしながら、憎き大家に細く不健康な生足と腕を絡ませ、頬を赤らめ、愛おしそうに妙に色っぽい顔をしながら、艶めかしい動きをさせる指先で困り顔の大家の鎖骨をなぞっていた。何とも破廉恥な光景に千枚瓦ら男性陣も見て見ぬふり、酒をあおっては紛らわせようと話に花を咲かせて大笑いを繰り返していた。

 ひとり、そう、吾妻は独りだった。

 これだけ人数がいてもなお、誰一人とも絡まない酒の席があってたまるかと吾妻は勇気を出して男性陣の輪に入ろうとした。しかし、彼らの話題が猥談であることに気付き、そっとワインを注いだグラスを持って部屋の端へと移動した。

「いいさ、酒を飲んで忘れらぁ」

 舌が回らなくなりそうなぐらいに酒をすでにたらふく飲んでいた吾妻だが、ワインを一気に飲み干し、ぼんやりと虚空を見つめて、ふと、同じ部屋の端に人の気配を感じ取って振り向いた。そこにはジュースをちびちびと飲みながら、足元に置いた皿からゲソと唐揚げを、これまたちびちびと食べながらつまらなさそうに前方の騒ぎ散らかす阿呆共を眺める美少年がいた。

 あんな顔立ちであればさぞかしモテるであろう。見た目年齢は中学生というよりも高校生、少し大人びた雰囲気は耳のピアスによるものだ。

「同志」

 勘違いである。しかし人恋しい吾妻は酔いに任せて、皿に寿司の握りと野菜スティックを乗せて、半分ほど入ったワインボトルを持って少年の隣に座り込んだ。

「やあ」

「うん」

 少年は吾妻を一瞥してぺこりと頭を下げ、再び視線を前に戻した。

「酒が飲めないからつまらないだろう」

「ううん、眺めているとホッとするんだ」

「ホッとするのか。僕には餓えた獣が宴を開いているようにしか見えないがな」

 野菜スティックをかじりながら吾妻も騒々しい阿呆共を眺める。

「一人だと静かな空間が時々寂しく感じるから、ホッとするんだよ。でも、一人暮らしなんだから一人なのは当然だし、静かなのも当然だよね」

「テレビを点けて一人で爆笑していると虚しいだろうな」

「覚えがあるみたいな言い方だね」

「テレビはないが、一人で飲んで騒ぐと物悲しさで押しつぶされそうな思いになるんだよ。大人になればわかるさ」

「お兄さんみたいな大人になれば、の話でしょ?」

 どこかで響いた割り箸を割る音が、吾妻の心が圧し折れた音と共鳴するかのように重なった。

 反面教師、こんな大人にならないようにと吾妻はそれから淡々と自身の人生論を語った。もちろん少年が聞き流しているのはわかっていたが、誰も話しかけてくれず、誰とも会話を弾ませられない飲み会などに吾妻ははしたくなかったのだ。

「いや語った。語り尽くしたな」

「お兄さんはよくしゃべるね」

「普段しゃべらないぶんをしゃべっているだけで、僕はそこまでおしゃべりな人間ではないよ。それにしても、高校生だったか? その歳で一人暮らしとは羨ましい。僕の家は過保護中の過保護だったから、門限も十八時だったぐらいだ」

「うちはそうでもないね。一人暮らしをしたいってい言ったらすぐに許可してくれたし、援助もしてくれているし」

「しかし、一人暮らしをしたいと自分で進言したとなると、何かしたくて一人暮らしを? それとも通う学校が実家からだと遠いからかい?」

「…………」

 淀みなく進んでいた会話が途切れて、吾妻は畦倉同様に地雷を踏んだのかと冷や汗を掻いた。酒を飲んでいるぶん、余計に汗が滲み出る。しかし、少年は軽く笑って小さく頷いた。

「したいことがあったから、家を出たんだ。実家じゃ難しいだろうなって思ったから」

「へえ」

 吾妻はマグロの握りを口に放り込んで言葉を呑み込む。どうにも吾妻自身、踏み込み過ぎるきらいがあるようだった。それを自覚し、自制することにした吾妻は野菜スティックをばりぼりとかみ砕き、少年の肩をポンポンと叩いた。

「何かあれば、僕を頼りなさい。力になってあげるよ」

 借金をしていて苦しい生活を送っている輩が言うような台詞かどうかはさておき、しかしながら少年はいっときぽかんとしていたが、次第に表情を緩めて「わかった」と頷いてマグロの握りを一つ口にした。

(素直でいい子じゃないか)

 久しぶりにまともで好印象な、普通の人間と接したことで、吾妻もどこか救われたような気がしてならなかった。自分の周りにはまともな人間は誰一人としていない、そう思い込み始めていたからだ。

 目の前で阿呆共が騒ぎ散らかす光景が、どこかのB級映画のようである。そんなB級映画を眺めながら、吾妻はしばらく少年と会話を続け、いつの間にか酒を飲む手が止まっていることに飲み会が終わりを告げるまで、すっかり気付かずにいた。


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