品種
「うるさいわよ、吾妻くん。今、私、大事なことを話して」
「ちょっと待ってください」
不愉快そうな藤堂るりに、吾妻は構わず訊ねる。
「いや、それで、肝心の問題についてなんですが、そもそもの原因である……その犬はどこにいるんですかね?」
部屋を見渡した藤堂るりは、最後に土下座している千枚瓦に訊ねた。
「犬は?」
「それが……ぐふう……」
漢の泣き顔など可愛いものではない。泣きじゃくりそうになりながら、千枚瓦は悔し気に言った。
「いなくなっちゃったんです……」
「いなくなった?」と吾妻は首を傾げる。しかし藤堂るりだけは首を傾げるまではいかず、ため息交じりに左右に顔を振った。
「外出時の施錠確認は最低でも三回、鍵は二重に、セキュリティーも個人で設置して、防犯対策はばっちり、今日のお昼に外出する際も同じように間違いなく施錠して、行ってきますって腹を撫でてあげて……でも、帰ってきたらいなくなっていて……それで、俺……」
「それで泣いていたの? そりゃあペットが逃げ出したら悲しいでしょうけれど、そもそもあなたが規則を破ったことが」
「ちょっと待ってください」と吾妻が口を挿む。
「だから……」と藤堂るりは舌打ちをした。その迫力たるや吾妻の姉、長女の威圧感に通じるものがあった。下手に言葉を選べば雷という一撃必殺の槍を落とさんとしてくる短気な長女に比べれば命が脅かされる心配がないこともあって怖くはないものの、歯向かわれることに対してとてつもない苛立ちを隠せないあたりがそっくりである。
身震いしたのち、吾妻は冷静を装って説明を加えた。
「施錠の確認をそれだけやっていて、それでいてセキュリティーの自作に鍵の増設という防犯対策をしてきたわけじゃないですか」
「だから何?」
「だから、そこまでやっていて、それが習慣付いている千枚瓦は今日も同じように対策をしたのちに愛犬に挨拶までして外出したってことでしょう? だとしたら、それが本当のことだとしたら」
「…………泥棒?」
「そっちの可能性のほうが大きいでしょうね」
と、冷静になった藤堂るりが腕を組み直して、思考するように瞼を下ろした。
「だとしたら忌々しき事態だわ。警察沙汰にしてもいいくらいね」
「でも、警察が動いてくれるとは限りませんよ。犬は所有物として扱われますけれど、本格的に動いた事例なんてほとんどないかと」
「詳しいのね」
「一番上の兄が警官なので」
「だったらお兄さんに頼んでくれるかしら? 窃盗事件なんて、アパート経営にも大きな影響が出るわ」
「無理ですね。出世に出世を重ねることを生きがいにしている変態的な兄が動くわけがありません」
ましてや、出来の悪い末っ子の話など耳に入れようともしないのだ。それに、そんな兄に土下座を決め込むほどの事件ではない。せいぜい鼻で笑われて追い返されるのがオチである。
「とにかく被害届を出しても、期待はまったくできないってことね? どうしたものかしらねえ……」
困った、というふうにはまったく見えないが、藤堂るりは考え込むようにしてしゃがみ込んだ。一点を見つめる彼女が黙り込んだことで、千枚瓦のすすり泣く声だけが部屋の中に響く。
真夜中の一時を過ぎ、さすがに眠くなってきた吾妻が欠伸を漏らしそうになったとき、膝を叩いて「よし」と藤堂るりは立ち上がった。そして吾妻に指を向け、ニマリと笑った。その笑顔はまったく以て可愛げのない笑顔だった。
「吾妻くん、あなたが千枚瓦さんの犬を探し出してあげなさい」
「はあ?」と吾妻は間の抜けた声を上げて藤堂るりの指先に視線を集めた。中央に目を寄せて、怪訝な目付きをして見せる。そんな面倒臭いことを何故無関係な自分がしなければならないのか、明白なまでに無益そのもの、時間の無駄であると吾妻は目線を逸らして、その先にあったペットケージを見た。生き物のいないケージの中は、寒さとはまた違うひんやりとした空気を放ち、寂寥感が気化したドライアイスのように足元まで漂ってくる。
「僕、そういう探偵業みたいなこと、していませんけれど」
「何事も経験よ。それに、条件を出さずにあなたを動かそうとするような計画性のない人間に、私が見えるかしら?」
「さあ、僕は大家さんのことほとんど知らないですし」
「だから嗅ぎまわっていたんでしょう?」
「むぐ」
ばれていた。短期間ではあるものの、できる限り遠目に、そして慎重に、さらに忍びの如く情報収集をしてきたつもりであったのにもかかわらず、彼女は吾妻の企みに気付いていたのだ。
これには吾妻も絶句した。
「どうせ契約内容に不服があって、私の弱みを握って契約書の破棄を狙ったのでしょうけれど、丸わかりなのよ、あなたは」
「ぐう」
何も言えず、吾妻はその場に座り込む。千枚瓦同様に土下座を決め込もうとしたが、その前に藤堂るりの発言が吾妻の土下座にストッパーをかけた。
「千枚瓦さんの犬を見つけ出したら、契約内容について検討してあげてもいいわよ?」
「本当ですか!?」
まさかの展開である。よくやった犬! と犬を褒め千切りたくなった吾妻は急いで千枚瓦に駆け寄った。
「千枚瓦! 犬の特徴を言うんだ! ほら早く言え!」
呼び捨てにしておいて今更ではあるが、千枚瓦は吾妻よりも三個上の先輩である。それはともかく、これではカツアゲをしているようにしか見えないが、吾妻にとって重要案件に化けたこの事件は、人生の一部をかけてでも解決しなければならない事柄である。変人集いしこのアパートから脱出できる可能性があるのであれば、早急に解決し、解放されたいと吾妻の瞳孔は不気味に開いていた。それに対して顔を引き攣らせる千枚瓦ではあったが、すぐさま吾妻が捜索における協力者であることを理解し、協力する姿勢を見せた。
「特徴は?」と吾妻。
「筋肉質です!」と千枚瓦。
メモを取りながら、しかし変な方向へ向かっていき、吾妻の表情は曇り始めた。
「大きさは?」
「このくらいです! 体高四十センチメートル強です!」
「……その他特徴は?」
「跳べば高さ五メートル、走れば世界新です!」
「……品種は?」
彼は自慢げに言った。
「チワワです!」
「それ絶対チワワじゃないよね!?」
メモ帳を投げ捨てた吾妻は頭を抱えた。情報があまりにもおかしく、しかし彼があまりにも真剣に言うせいで、何が正しい情報なのか、吾妻にはまったく理解できていなかった。筋肉質で体高四十を超え、跳んで五メートル、走れば世界新の記録を叩き出せるチワワ――世界最小の犬種、チワワ。それが大型犬と何ら変わらぬ大きさであるはずがない。ないはず。ないのだ。
しかし、彼は真剣に言う。
「チワワですよ。純血種です。ただ」
「ただ……?」
バレーボールでも入っているのではないかと見間違えるほどの大きい上腕二頭筋を自慢するように見せ、千枚瓦は「筋トレを一緒にしたせいでしょう、いつの間にか大きく成長してしまっていました!」と泣きながら言った。
そんな馬鹿な、と唾を吐きたくなりそうになった吾妻だが、現に龍神という現実離れした父を持つ吾妻が「そんなチワワが存在するわけがない」と否定するにはあまりにもおかしな話である。しかし、それでも、いやいや、と思考に思考を重ねた結果、仮にそういう珍品とも言えるチワワが存在するというのであれば、逆に見つけやすいのではないだろうかという推測に行き当たった。
吾妻は腕まくりをして、首を鳴らす。契約を破棄とまではいかずとも、改正させることはできるかもしれない。その僅かな可能性を取り逃すわけにはいなかいのだ。
「名前は?」
「アーノルドです!」
「よし! さあ、探しに行こう! 千枚瓦、ついて来い!」
「はい!」
一見すれば青春ドラマのワンシーンにも見えなくもないが、心の中も腹の中もは真っ黒である。
藤堂るりの怪しげな笑みを流し見して、部屋を飛び出した吾妻と千枚瓦はがむしゃらに街中を走り回った。千枚瓦は携帯もカメラも持っていないせいで写真もなく、吾妻は途中のコンビニで買ったノートとボールペンを駆使し、絵にして聞き込みを続けた。もちろん絵心皆無の吾妻が描いた絵はケルベロスも卒倒するような化け物犬であった。すぐさま千枚瓦に描き直させた絵で捜索活動を続行した。
真夜中に街中を駆け回る様は、奇しくも今まで生きてきた中で一番輝いていた。善行をしているとなれば、尚更である。ところが――ではなく、当然のことではあるが、その捜索活動によって得られた情報は数えるまでもない、ゼロであった。特徴のあるチワワだけに、泥棒側が慎重になるのは当然の話である。まさかリードを繋いで堂々と散歩をしているわけがないのだ。
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