毛玉

「えっと……千枚何とか」

「千枚瓦さんよ。何かあったのかしら?」

 そう言って彼女は歩み寄っていく。続いて吾妻も歩み寄り、暗がりの中聞こえてきたのは、千枚瓦のすすり泣く声だった。不気味な雰囲気に、さすがの藤堂るりも息を呑むように口を動かした。

「千枚瓦さん、どうしました?」

 蹲っていた千枚瓦はゆっくりとその巨体を起き上がらせた。鼻水を垂らしながら、口はへの字に曲がり、筋トレに励んで楽しそうにしていた彼の表情はそこにはなく、今にも号泣しそうな様子だった。

「大家さん……」

 身長はおよそ二メートル。筋骨隆々、いかつい顔には無数の傷跡。真夜中のおんぼろアパートの下でこんな人間と出くわせば、本能的に逃げ出すこと間違いないだろう。知り合いでなければ、吾妻だって逃げ出していたに違いなかった――加えて。

「大家さん……大家さーん!」

 と、そんな大男が泣き叫びながら抱き着こうとしてくるようであれば、絶叫必至だ。

「おっと」

 軽くステップを踏んで藤堂るりは華麗な動きで躱した。どうやら千枚瓦は藤堂るりだろうが誰だろうが関係ないようで、殺人タックルとも言える速度で吾妻に突っ込んできた。もちろん吾妻も躱そうと試みる。しかし、吾妻の持つ酒が邪魔をして素早さは皆無、浮遊能力はまったくの無意味――そもそも、刹那とも呼べる瞬間的出来事を反射的に躱せるほど、吾妻の身体能力は天才的ではない。つまり。

「ごふっ」

 白目を剥くほどの衝撃が腹を突き抜け、さらに強烈な抱擁が吾妻の身体を圧し折らんとしていた。

「折れる! あばらと背骨が!」

 叫ぶ吾妻の声が届かないのか、千枚瓦は号泣し続けて吾妻の身体を締め上げていく。意識が遠のき、全身の力が抜けていくのを感じ始めた吾妻は「あ、死ぬ」と弱り切った声を上げた。

 すると、まさかの展開に吾妻は驚いた。

「ちょっと千枚瓦さん! そのままじゃ大変なことになるから!」

 あの悪女――ではなく、あの大家が、あの藤堂るりが、吾妻を救わんと駆け寄ってきたのだ。

 これにはさすがにストーキングまがいの情報収集をしてきた吾妻も罪悪感に歯噛みした――のも束の間、当然ながら、人間、そう簡単には変われない。

「全部で一万円以上したのよ! 瓶も入っているんだから!」

「そっちかよ!」

 いっそ手放して粉々にしてやろうと吾妻は思ったが、思ったより早く千枚瓦は我に返って吾妻を解放した。

「骨が……骨が未だに軋んでいる……」

 アパートの階段を踏みしめているときと同じような音が全身から聞こえてくる。悶える吾妻を余所に、藤堂るりは吾妻から酒の入ったビニール袋を回収、中を確認してからホッと胸を撫で下ろしたかのような、安堵に満ちた笑みを浮かべた。残酷非道な悪女を前に、吾妻は軽く睨みながら歯噛みした。一瞬でも罪悪感を抱いた自分が馬鹿だったと。

「それで、何があったの?」

 吾妻など眼中にない藤堂るりの問い掛けに、千枚瓦は口を固く閉じる。悶えながら、この原因となった男をひと睨みした吾妻は、超怪力である次男に比べたら大したことはない、と痛みを堪えて強がりながら胸を張って千枚瓦の前に立った。

「言わないのなら、来月からの家賃を引き上げるわよ?」

「……それは」

「それとも、真夜中に、女性の私に抱き付こうとした変態として通報してやってもいいのよ?」

「それは駄目!」

 降参した千枚瓦は頭を掻きむしって観念したように項垂れた。

「怒らないで聞いてくれ、大家さん」と千枚瓦。

「それは保証しないわ」と藤堂るり。

「そりゃあそうだ」と吾妻は珍しく藤堂るりに同意した。

 千枚瓦が自分の部屋に移動し始め、吾妻は藤堂るりと一緒に彼の部屋に向かった。

 吾妻の隣の部屋、千枚瓦の部屋は異様とも言える部屋だった。筋肉トレーニングに使う道具があちらこちらに置いてあり、吾妻が見た懸垂マシーンも見える。千枚瓦曰く、総額一千万はくだらないという。しかし、そこではなく、トレーニング機材の中にひときわ目立つスペースがあったのだ。

「……ここは?」

 藤堂るりが眉をひそめた。それもそのはずだ。部屋の一角、押し入れを改造して作られていたのはどこからどう見ても動物用のケージで、餌も、トイレも、餌と水飲み用の容器もあり、いかにも、ではなく、明らかに、だった。

「どういうこと?」

 藤堂るりは犬用のペットフードが入っている袋を拾い上げ、まるで白を切る旦那に浮気現場が写った写真を見せつけるかのように、ビシッと千枚瓦の眼前に突き付けた。手帳を取り出した吾妻は、挿んでいた契約書のコピーに目を通して、一部を読み上げた。

「ペット、犬や猫といった動物の飼育等禁止……なるほど」

 いつの間にか正座をしていた千枚瓦は、ゆっくりと頭を下げた。吾妻は藤堂るりの後ろにいたのだが、彼女が阿修羅のような顔をしていることは、張り詰めた空気で察することができた。腕を組み、脚を肩幅に開き、軽く顎をしゃくるようにして千枚瓦を見下し――訂正、見下ろしていた。震えながら土下座する千枚瓦は小さな声で答えた。

「すみません……二年前に、川の近くで捨てられていて……」

「二年間もよく隠してきたなあ」

「吾妻くんは黙って」

「……はい、すみません」

 彼女が怒っていることには変わりはないが、しかし、張り詰めていた空気が若干和らいだことに吾妻は気が付いた。

「一月ほど吠えないように友達の家でしっかり躾をして、それから二年……夜中に散歩させたり、早朝に散歩させたり、試行錯誤しながら育ててきました……」

「吠えないからとか躾をしっかりしているからって動物禁止の規則がある以上、守らなければならなかったのではないですか? 試行錯誤? それは努力のように見えて、隠し事をするための偽装工作のようなものでしょう?」

 正論に立ち向かう邪論などなかった。千枚瓦は顔を上げられないまま、しかし藤堂るりはこめかみに指先を押し当てて「でもまあ、この規則はお祖父ちゃんが作ったものだから、私があまり強く言えないのよね……」と困った風に言った。

「でも、隠してきたことを反省する意味を込めて、規則違反ということで、契約どおり、家賃増額はさせてもらいます。それに対して、何か反論はありますか?」

「ありません! すみませんでした!」

 と、千枚瓦と藤堂るりがやり取りをしている間、吾妻は部屋の中を見渡していた。間取りは吾妻と同じではあるが、狭く感じるのはトレーニング機材が部屋を占領しているからだ。無造作に転がっている腹筋ローラー、壁際に置かれた複数のダンベル、大量の消臭剤、買い置きのミネラルウオーター、不釣り合いな観葉植物に、部屋の隅に転がった毛玉――

「ん? あれ?」

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