悪女


 変人たちとの歓迎会と称した交流会のような、結局は飲み会という催しを終えてから十日余り、吾妻はとりあえず家を空ける日を多くしていた。節約だの言っておきながら夜は外食で済ませ、皆が寝静まる頃を見計らっての帰宅を続けることで隣人及び大家との接触をできる限り避けてきた。

 おかげで隣人及び大家との接触はなく、面倒ではあるものの、ノーマルライフに近いモノを満喫していた。とはいえ、毎日が電車通勤。土日の休みも訳あってその電車に乗ると、さすがに苦である。人混みのせいでホームに吐き逃げしそうになった回数は今日で五回目になる。それでもどうにか毎度会社に辿り着くことはできた。

 四月に入ってから入社式は終わり、先輩に教わりながら仕事を進める内に、一人の同期と吾妻は仲良くなっていった。昔はやんちゃだったという彼、目元の黒子が印象的なぼさぼさ頭の門司は腕時計の下に刺青をしていることを隠しているらしい。そんなどうでも良さそうなことを話す彼だったが、昼休みに彼が吾妻に放った一言は、自覚していなかったものを気付かせてくれた。

「吾妻、お前、目が据わっているのに笑顔って、先輩怖がっていたぞ」

 そう言われた吾妻は便所で自分の顔を確認した。確かに目が据わっていて生気を感じられない。しかし口元は笑っていて気持ちが悪い。しかし、そうなっている原因に吾妻は覚えがあった。

「実はな、住み始めたアパートの大家がなかなかの悪党でね、いろいろと騙されてしまった。そのお礼に、弱みを握ろうかと思っている」

 腹の底に隠してきた企み。その上澄みを舐めながら吾妻はニヤリと笑って見せる。

「ほう? つまりその気色悪い笑顔は、その弱みを握ったという証か?」

「まさか、まだ手に入れていないんだ、握りようがない」

 あの晩、歓迎会という名の飲み会から幾度となく彼女の情報を得るべく行動に出てみたものの、彼女の行動を読むことはできず、さらに連日不在という不運に恵まれてしまったのだ。

 平日は仕事、活動できるのは土日の休みだけ。それか仕事帰りの夜ぐらいしか時間は取れない。貴重な休みを使って追跡を試みたものの、電車に乗るといつも彼女を見失ってしまうのだ。

 試行錯誤もままならないまま四月に入ってしまったことを吾妻は嘆いていたが、これしきのことで挫けるような男ではないと吾妻は自身のことを高く評価している。自己評価と事実にどれだけの落差があるかは置いといて、諦めるようなことでもあれば、それは敗北であり、辛酸を嘗める思いとなるわけだ。

 吾妻にも、辛うじてプライドもある。途中で投げ出すつもりは毛頭なかった。

「大家ってどんなおっさんだよ」

「えらく美人の姉ちゃんだよ」

 目薬を取り出した彼は「へえ」と笑って目薬を両目に差す。

「まさかお前、復讐ついでに脅して強制的なお付き合いしようなんて目論んじゃいねえだろうな?」

「僕がそんな鬼畜に見えるか?」

「会って日もないお前を俺がどう見抜けるよ」

「確かに」

 そう言って笑い合ってから二人は仕事に戻った。

 藤堂るりは確かに美人ではあったが、吾妻には理想とする女性像というものがしっかり出来上がっているのだ。これは思春期に突入した中学生初期からコツコツと築き上げてきた理想像になるのだが、まず初めに自分よりも身長は低く、頭をぽんぽんと叩ける小柄な女性であることが重要で、小動物的な雰囲気を持っていれば尚良し。拗ねれば口を尖らせ、あざとさではなくあどけなさ、気品や上品さではなく無邪気と好奇心を兼ね揃えた真夏がよく似合うところが重要視すべき点だ。さらに甘いものが好きで、設定ではドーナツ好き、紅茶はアールグレイを好んで飲んでいる。アールグレイがいかような味なのか不明ではあったが、きっとその名称の美しさから理想の女性にはぴったりの飲み物だろうと吾妻は確信していた。

 それに比べて大家の藤堂るりはどうだろうか。気品や上品さという面をして、素顔は腹黒く卑劣で卑怯であくどい詐欺師。可愛げもなく、金の亡者のよう。美人であることを逆手に相手を翻弄するその術は、まさに悪名を轟かせていても驚きもしない。

 つまり、自分の理想の女性像から遠くかけ離れている藤堂るりに対して鬼畜同然の強制的交際を申し込むような荒事も無謀事も起こす気はなく、弱みを掴むことであの契約書の破棄を狙っているのだ。

 あの電話は、間違いなくその弱みに繋がると吾妻は踏んでいた――とはいえ、彼女がそんなに簡単に尻尾を見せるはずもなく、むしろ吾妻の企みを見抜いた上で華麗に躱しているのではないだろうかと疑う気持ちも少なからずあった。それならば、なおさら引き下がるわけにはいかない。敗北など、敗走など、劣等感に苛まれてきた人生だ、何度も味わうつもりはまったくないのだ。

 だが、昨日までの間に彼女に関する情報を得られたかと訊かれたら顔を背けてしまう。彼女の情報は一切手に入ることはなかった。探偵を雇うような狡はしないまでも、ここまでストーキングに近い情報収集を続けていたというのに収穫無しというのは、あまりにも惨めだ。

「しかし、あの電話はいったい何だったのだろう?」

 ぼんやりと肉まんを食べながら、いつものように深夜帰宅していた吾妻は静けさに満ちた狭い路地を歩いていた。

「期限、お返しします……これってやっぱり、借金的なやつなのかねえ」

 今更ではあるが、彼女の秘密を手にしようと企む自分は少々やり過ぎなのではないかと吾妻は立ち止まった。しかし、彼女も彼女でとんでもない契約を結ばせてきたのだ、両成敗と言えようと吾妻は一人納得する。あのアパートをさっさと出て、新しい住処を探すしかない。あそこには吾妻が望むものは何一つとして存在しないのだ。むしろマイナス的要素しか存在していない、無意味な時間を食い潰す魔境である。魔境。つまり、あの大家は魔境の主、大魔王なのかもしれない。

「あら、吾妻さんじゃない?」

 心臓を自ら取り出してナイフを突き立てんばかりの動揺、吾妻は持っていた肉まんを口の中にねじ込んで臨戦態勢に入った。しかし、その構えはあまりにも情けなく、貧弱そうなオーラを放っていた。

「大家さん、何故こんな時間帯にほっつき歩いているんですか」

「何故って言われても、私の行動を制限するルールでもあるのかしら?」

「……いいえ」

「まあちょうどいいわ、荷物持ってくれない? 重くて大変なのよ」

 そう言っていつものジャージ姿をした藤堂るりは、強制的に荷物を持たせてきた。白いビニール袋の中に入っていたのは酒と、酒と、おそらく酒と酒。そして彼女が持っているビニール袋には、どうやらお菓子やおつまみ、ジャンクフードの数々。

「まさかこれから宴会ですか?」

「ストックが切れていたから買い出しに行っていただけ。そういえば、あなたは酔っぱらって聞いていなかったかも」

 暗がりでもわかる笑み、吾妻はこっそり不機嫌そうな顔をして、さっさと歩き進める彼女の後姿を追った。

「うちのアパートは定期的に飲み会を開いているのよ。お祖父ちゃんから受け継いだ伝統的行事の一つでね、春夏秋冬、構わず飲み明かす日が月一必ずあるの。酒が飲める人は強制参加、参加しないのであれば私の気まぐれで家賃の引き上げも検討するから気を付けてね?」

「そんな!」

「これもちゃんと契約書に追加記載してあったのよ?」

 吾妻は思った。「世の人々に声を大にして伝えたい。契約書は隅々まで読んでからサインをせよ!」と。

「でもね、お酒やおつまみは全部私持ちなんだから、あなたたちが損をすることは何もないのよ?」

 言われて吾妻は首を傾げたくなる。そんな行事、大家にとっては何の利益もないはずなのだ。それを続けているというのも、彼女の詐欺師のような性格からして、裏があるとしか思えない。

 しかし、彼女の言い方からして、彼女が面倒でやっているようにも見えず、かといって利益らしいものも見受けられない。目的が見えず、不思議がっている吾妻に彼女は笑って言った。

「楽しければ、それでいいのよ」

 その一瞬だけ、吾妻は彼女を別人のように感じ取った。

 あれだけ悪行を積み重ねてきた彼女が、その一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、天使のような女性に見えてしまった。顔を左右に振って我に返れと自分に言い聞かせる。例え一瞬だけそう思えたとしても、彼女は吾妻をはめた悪女であることに変わりない。心変わりなど以ての外、道端に捨ててしまえとズンズン前に進み続ける。ついには彼女の横を通り過ぎ、前を歩いていた。少しだけ彼女が笑ったように思えて笑いたければ笑えばいい、と吾妻はアパートの敷地内に入って――歩を止めた。藤堂るりも歩を止め、吾妻の隣で立ち止まった。アパートの階段下、蹲るその人物は、どこぞの筋肉馬鹿であった。

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