不可

「もしや、新しい大家はあなたですか?」

「ええ。譲り受けて、今は私が大家になります」束ねていた髪を解き、正座をする。「藤堂藤一郎の孫娘、藤堂るりです。今後は私が大家としてアパートを切り盛りしていきますので、よろしくね、吾妻さん」

 ニコッと笑った彼女は書類を数枚取り出してテーブルに置いた。その笑顔に見惚れそうになった吾妻だが、自制して背筋を伸ばす。

「私の名義になりましたので祖父の藤一郎が作成した契約書を更新する必要があるんです。とくに大きな変更はありませんので、こちらにサインと印鑑、もしくは捺印をお願いします。すみません、お祖父ちゃんが亡くなってからずっとバタバタしていて、今日もこれから予定があって……急かすようで悪いけれど」

「いえ、すぐに」

 想像していた船出とは違ったものの、初老の大家、藤堂藤一郎殿が亡くなられたことは残念極まりないことではあるものの、しかしながら、これだけの美人大家と毎日のように顔を合わせられるノーマルライフが待っているのかと思えば、今まで受けてきた屈辱や劣等感、辛酸を嘗めてきた人生も、許せなくもなかった。

 ささっと下手くそな字でサインを書き、持って来ていた印鑑を押す。すぐにそれを新しい大家、藤堂るりに手渡した。彼女はくりっとした大きな瞳を動かしてサインと印を確認し終えると「はい、ありがとうございます。これが控えになります」と微笑んだ彼女から受け取った鍵と控えを手に立ち上がろうとした、そのときだった。

「これから、よろしくね」

 彼女の声色に少々違和感を吾妻は覚えた。

 今まで表だったコインが、裏にコロッと変わったかのような、怪しげな笑みのようにも感じられたのだ。そんな彼女に連れられてアパートへと向かう。ぎしぎしと軋み、今にも崩れ落ちそうな階段を上がり、二階一番奥の204号室へ足を踏み入れる。照明は今にも落ちてきそうなほど朽ちていて、チャイムは押せば元に戻りそうにないほど古く、ドアノブを回して引けば扉ごと外れそうなほど多くの箇所が錆びついていた。

 天井付近の蜘蛛の巣は後でとるとして、防犯対策を練らなければならんと吾妻は後ろポケットに入れていた財布を何気な取り出し中身を確認し、握り締めた。とはいえ、中に入れば、人が暮らすだけであれば十分な部屋が待っていた。六畳ほどの畳の和室に収納に困らない押し入れ、廊下脇にトイレ、キッチンが向かい合っている。どれも使い勝手が良さそうで住み心地は悪くなさそうだった。外観とのギャップに、安堵からか表情も緩んでだらしなくなる。そして油断だ。

「おうっ」

 小さな段差に躓き、転ぶ。持っていた財布から貴重な金がばらばらと和室に転がっていく。

「造りが古いから、バリアフリーじゃないわよ?」

「そのようで」

 先に上がって、吾妻は小銭を拾う。

「この部屋だけ構造上お風呂が作れなかったのよね。トイレは入って右、キッチンは掃除してあるからすぐに使えます。ガスも通してありますが、コンロは自分で用意してください」

 藤堂るりからの設備説明を受けながら、ここが今日から自分が住まう部屋なのだな、と財布をポケットに入れて、感慨深く吾妻は思っていた。何せ今まで一人部屋など持ったことがなく、いつも兄と一緒、気分のいいものではなかったのだ。ようやく自分だけの空間を手に入れた喜びに吾妻はどこに何を置こうかと妄想していた。

「荷物はいつ頃届く予定ですか?」

「あ、とくに大きな荷物はないです。こっちで調達しようと考えているので」

 そう言いながらベランダの扉を開いた。絶景、ではないが、隣を流れるのはさっきの小川だ。その小川を見下ろすことのできる二階のベランダは想像以上に眺めが良かった。よく見れば対岸には桜の木が列を帯びていた。今年の桜は、そのほとんどが季節外れの台風で早々と散ってしまったとニュースで流れていた。それが吾妻の父と母の夫婦喧嘩のせいであることは門外不出の秘め事である。

「来年が楽しみだ」

 一年契約の更新制、来年もここにいたら、ここから満開の桜を眺めながら酒とつまみでほろ酔いに浸ろう、そう妄想に耽っていた吾妻は、ふと、何気なく、隣を見た。

「ふん! ふん!」

 隣を見て、吾妻は目を点にして見開いた。変な声を出しながら、ベランダを軋ませる大柄の男がいたのだ。ベランダの物干し竿を撤去して設置された懸垂マシーン、それを使って筋肉ムキムキの大柄の男が汗を流しては笑顔を浮かべて筋トレに励んでいる。

 もしその光景を知らずに部屋にいれば、アパート全体を軋ませるこの男の所業を地震と勘違いして騒ぎ立てていたところである。

「ふん! ふふん!」

 鼻息荒く、しかし彼は恍惚の笑みを浮かべながら自分を苛め抜いていた。しかしながら、ずっと眺めていられるほど耐性があるわけでもなく、とりあえず部屋に入ってベランダの鍵を閉めた。

(一年、持つかな?)

 そんなふうに弱気になった吾妻を襲ったのは線香の香りだった。突然の香りに吾妻は、昔会ったことのある、霊山に住んでいる父の知り合いのイタコを思い出し、何か危なげな空気を感じ取った。薄暗い空、隣の変人、線香の香り――臭い。

 嫌な予感がしてならない吾妻は、念のために藤堂るりに訊ねることにした。

「あのう、他の住人の方は、どういう方がいるんですか?」

 ちょうどガスの説明をしていた彼女は、説明を止めて薄らを浮かべた微笑みと共に、六畳間の押し入れに向かって歩き出し、そっと柱に手を添えた。

「隣の部屋には自称元総合格闘技世界チャンピオンの千枚瓦哲せんまいがわらてつくん。下の階の子は……何をしているかわからないけれど怪しい煙をもくもくと毎日早朝に換気扇から垂れ流しているわ。もう一人去年から住み始めた子がいるけれど、その子は高校生ね。他にも住人はいるけれど、ほとんど顔を出さなかったり、出張やらでいたりいなかったり、いるのかいないのかよくわからない人だったりね」

「いるのかいないのかよくわからない人!?」

 口に何かを含んでいれば、間違いなく大家の顔面に吹きかけていたであろう。口を拭う吾妻に、彼女は微笑みを絶やさず続けた。

「大丈夫大丈夫。変な人でも怪しい人じゃないから。皆、良い人ばかりよ」

 彼女は笑って流したが、しかし、吾妻はすでに退去に関して考え始めていた。一年契約の更新制、その途中で解約すれば違約金が発生するのは知っている。それを払って他を探すとなるとしばらくの間はネットカフェなどに泊まるほかない。しかし、そういう不便さがあったとしても、変人臭しかしないこのアパートに一年もいるよりかはマシなのかもしれない。普通の街の中から、いくつもあるアパートの中から引き当ててしまったこのボロアパート。長居は無用、決めるのであれば早急に。

「すみません、大家さん、契約についてご相談が……」

 契約書の控えを取り出し、何気なく視線を落とす――その瞬間、吾妻は目を丸くさせた。寒気が酷くなり、吾妻はカチカチと歯を鳴らしそうになった。

「大家さん、これ、作成ミスがありますよ」

「どこ?」

 藤堂るりはニコニコと笑顔を浮かべながら書類を覗き込んでくる。

「これ、一年契約が五十年契約になって………………はっ!」

 不意に蘇った藤堂るりの怪しげな笑みに、背筋が凍り付く。溢れ出てきた汗が契約書を湿らせ、顔を上げた吾妻の目に飛び込んできた藤堂るりの表情を見て確信する。

「諮ったな!?」

 軋む畳を踏みしめた吾妻の怒鳴るような声を、彼女は指先を耳に突っ込んで塞いで聞き流していた。契約書を握り締め、猛抗議すべき一瞬を吾妻は逃し、彼女の猛攻撃に俯いた。

「サインをしたのはあなたでしょう?」

 ふふ、と笑った彼女は「契約書にはちゃんと目を通さなきゃ」と玄関へ向かって歩き始めた。その足取り悪魔の如し、静かで不気味だった。

「ちゃんとそこに書いてあるとおり、違約金はこの先払うことになっている家賃全額」

 全額となると単純計算でも一千八百万円。馬鹿馬鹿しいほどの高額に吾妻は卒倒しかけるが、どうにかこうにか持ち堪えてかすれ声で反論に出る。

「こんな契約、藤一郎殿と交わした契約には書かれていなかった」

「今の大家は私よ。それに正式な契約は今日交わす約束をしていたはずよ?」

「そうですけれど!」

「契約書にサインと印を押したのは誰?」

「俺、です……」

「契約書っていうのは、そう簡単に破棄していいようなものかしら?」

「……いいえ」

「ちゃんと目を通さなかったあなたに落ち目があるのは歴然でしょう? 何か、他にあるかしら?」

 と、彼女に言いくるめられた吾妻はその場に座り込んで呆然とした。ノーマルライフを送る間もなく、五十年という縛りを受けた変人居住区という隔離区域に投げ込まれ、変わらず自分が騒々しく荒々しい人生しか送れないと――心を砕かれた吾妻は泣き顔で大家を見上げた。

「今日、六時から皆であなたのための歓迎会を開くから、うちに来てちょうだいね?」

「欠」

「席は許さないから」

 と念を押した彼女が出て行った部屋の中はやけに涼しく、むしろ寒ささえ覚える。はめられて、ぼられて、騙されて――それが自分の不注意であったことを棚に上げて吾妻は咆哮したい思いをため息に変換して吐き続けた。

 祟られているか、それとも呪われているか、彼女が出て行った玄関先に、吾妻は急いで買って来た塩を盛って力尽きた。


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