新居

 三月の中旬、こたつをしまうにもまだ早いとも思える寒さに身を震わせながら、時々コンビニに立ち寄っては暖を取り、あんまんを頬張りながら観光気分で街を練り歩く。都心に近いということもあって人も多い。派手な格好をした年端のいかない子供たちが平然と地面に座り込んでいる。腰の曲がったご老人が楽しそうに同じ会話を繰り返している横でアパートの場所を再度確認する。それにしても、と吾妻は平凡な街並み、人通り、空気、その他諸々を眺めながら肩に入っていた力は自然と少しずつ抜けていった。

 雷が突如空を走ることもない、突風が吹き荒れ雨風に曝されることもない、家を爆発させたり道に亀裂が入れさせたりする夫婦喧嘩をする者もいない。実に平和で、平凡で、普通だ。

 まるで別世界、爆音の中から解放されたかのような清々しい気分に自然と足取りも軽くなる。軽やかなステップを踏みながら進むと、引っ越し業者だろう、急いでいるのか梱包されていない荷物を家から運び出している男たちがいた。こんないい街を出るなんて勿体ないと思いながら、吾妻は今日から自分の城となるアパートが頭に浮かび、少しばかり足早になった。

 コンクリートに両サイドを固められた小さい小川を横目に、十字路を右手に曲がる。次第に人の気配が減り、徐々に街並みも姿を変えていった。どうやらこの辺りは昔からあまり変わっていないようで、古い建物だけが軒を連ねていた。その一角、真っ直ぐ歩いた先の右手に、心霊スポット――ではなく、一軒家と併設されたアパートを見つけた。

 電信柱に貼られた住所プレートを見て、看板も見る。どうやらこのアパートで間違いないようで、見上げて、見渡して、吾妻は息を呑んだ。錆びついた階段、外れかけの街灯、転がったドラム缶、壁を這う謎の植物、今にも折れそうなアンテナ、広場の片隅にはカットマネキンが数体並べられ、数羽の烏が手すりに座ってジッと吾妻を見つめている――就職先の近場で見つけたこの格安賃貸アパートは最寄りの駅まで十五分、洗面所はあって風呂無し。しかし銭湯が近くにあり不便もなく、一番重要なトイレ付きという、中々の好条件。家賃も三万とかなりの安さである。

 この物件はネットで見つけ、電話越しで初老の大家と一度連絡を取った。彼の明朗快活とした類まれな人望満ち溢れる人柄に、吾妻は現地確認をせずに契約をしてしまったのは今更な話ではあるが、実際に見てみるとこれはまた見事に歴史を感じさせる――というよりも雨風にさらされたただのボロアパートであった。下手すれば翌日には白骨化してしまいそうな時空の歪みすら感じられるが、吾妻は思った。

(いや、なに、住めば都。風呂なしでも安月給の身、贅沢などすれば身を亡ぼしかねない。節約すべきは住処だ)

 近くには銭湯もあり、激安スーパーもある。生活に何ら困ることはない。働いて、食って、寝て、それだけのためなのだから文句も出ない。それに、アパートからも周辺からも、騒音も耳障りな音も聞こえず、静寂に包まれている――いや、そもそも人の気配を感じられない。これを心霊スポットとして紹介されたら、確かに頷けなくもない。とはいえ、歴史を感じられるものだと考えれば、何も悪い物件ではない。人の気配を感じられないほど、落ち着いた環境だと思えば問題など何もないのだ。

 烏の視線が気になるところだが、とにもかくにも大家に挨拶をしに隣の一軒家に向かう。せかせかと動き、凸凹の地面にキャリーケースを転がしながら玄関口へ。アパートに比べたらまだ綺麗で住み心地は良さそうではあるが、やはり年季の入った家、立て付けが悪いのは見て取れる。

 咳払いをして、衣服を整える。第一印象は大事、髪も軽く整えていざいかんとチャイムを押した。電話越しとはいえ、父とはまるで違う威厳さは、おそらく目の当たりにすれば腰が引けてしまいそうなものであった。気合を入れておかねば、みっともない姿をお披露目してしまう。両の頬を引っ叩いて気合を入れようと両手を構えたところ、ちょうど家の奥のほうから足音が聞こえてきた。びしっと背筋を伸ばし、額に浮かぶ緊張の汗を拭う。作り笑いを浮かべて、準備万端――のはずだった。

「はいはーい? どちら様?」

 長い黒髪を適当に束ね、ジャージ姿で女っ気はまるでないが、化粧っ気のない素肌はありとあらゆる斬撃・打撃を軽くいなし、逸らしてしまいそうなほど滑らかで艶やかだった。顔を見上げてみれば、整った顔立ちがテレビで見るような芸能人のソレよりも圧倒的に美人であり(個人的感想ではあるが)、瞳は大きく、快活さを感じさせるこの声色は、どこか電話越しで聞いた初老の大家に似てなくもなかった。

 呆然と立ち尽くし、目の前に現れた若い女性に、吾妻は見惚れつつも持って来ていた茶菓子の入った紙袋を差し出して名を名乗った。

「吾妻です。今日からアパートの一室をお借りすることになっています。大家さんは御在宅でしょうか?」

 少しパニックを起こしそうになりながら言って、吾妻は差し出した茶菓子を受け取った女性に作り笑いをして見せる。

「アズマ……あー、はいはい」

 彼女は下駄箱の上から一枚の書類を取り、目を通す。しばらくして、顔に垂れていた髪を色っぽい仕草で耳にかけ、彼女は微笑んだ。

「お祖父ちゃんが言っていた新しい方ね。どうぞ、上がってください。お茶でも淹れますから」

「どうも」

 吾妻は大家宅に上がり、軋む廊下を進む。初老の大家が奥で待っているのだろうと思っていた吾妻だったが、通された和室に初老の大家の姿はなかった。代わりにあったのは、とても大きな仏壇で――遺影に、いかにも人に好かれそうな人望満ち溢れる初老の男性の姿があった。

 まさかと思い、吾妻は彼女を見た。

「少し前に心筋梗塞で亡くなったのよ。あまりにも突然だったから……」

 残念そうに、そして悲し気に彼女が言ったことで吾妻は感情移入して涙腺が緩みかけた。

「そうだったんですか……一度でいいから直接会って話をしてみたかった。電話越しでもそう思えるほどのお方だったのに」

 心底惜しい、と思いながらもう一口お茶をすすり、線香をあげた後、もしやと思って吾妻は訊ねる。

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