世界には愛なんて何処にもなかった




真島眞子が軽音に入ってきた。


もともと歌手志望で高校生の頃からずっとそのチャンスをうかがってたらしい。



「でも、うちはそんなんじゃないから。あんたが思うほどチャラチャラしてないよ、うちの部は」



「いいのよ、それで、一歩踏み出して見たかっただけ。何もやってないのに偉そうなこといえないもん」



「ならいいけどぉ」



眞子はいつも笑ってる。悲しい時でも笑いながら泣いてる。いつもそんな風だから大人達は眞子をしばしば誤解する。

でもへらへらニヤニヤ、浮かれポンチのその仮面の下にはしっかりとした二十歳の女性の顔を持っていることはあまり知られていない。



「けどこれで、私もワンステップ上がれたでしょ」



「まっ、その狸顔じゃあ、ワンステップがせいぜいかもしんないけどねぇ」



「奈々ーっ!」



秋の風は私達の頬には優しく感じた。穏やかな日の光は夕方になってもまだ暖かく周りを覆っていた。

夏休みが終わると学内は慌ただしくなる。文科系も体育会系もみんなそわそわし出す。

イベントも大会も目白押し。

春が出会いの季節というのなら、秋は実りの季節。部活も勉強も、そして春に芽生えてしまったやるせない恋もその収穫の時を今や遅しと待つ。

ただ、今年は様子がちょっと違う。

学内の熱気というかエネルギーがひとところに集まっていた



「え~っ、完売したの?一日で」


「そうみたいだよ」


「嘘でしょ?だって800人は楽に入るのよ、うちのホール」



この大学に入学してまず誰もが驚くのがこのホール。都心の主要大学でもお目にかかれないような立派な専用劇場。生徒数2000人足らずの小規模の大学にはどう見たって似つかわしくない


新参の大学にしては随分と気合いの入ったレンガ作りの重厚な正門をくぐるとまず目に飛び込んで来るのが大きな楡の木。


大学のパンフレットの表紙にもうなっているその楡の木は地域の観光名所になるほど人気が高い。私達は仲間内でこの木を故あって、璃子の木と読んでいる。


そんな楡の木を横目に見ながら進むと自然と目に入ってくるのが奥多摩の山並み、その視界を遮るようにとんがり帽子の屋根を持つ通称アルベロベッロ。

正式な名称は奥多摩ホール70-5号館というんだそうだけど、そう呼ぶ子はほとんどいない。


「800どころじゃないよ。だって席なんか計算しないで売れるだけ売ったらしいから」


「じゃあ、結局どれぐらい売ったの?」


「2000はいったって莉音は言ってたけど」


「え~っ、どうすんのよ、そんな売って~」


なんといっても今世間も注目する白咲遥の新人公演、

まだまだ売れた、そう演劇部のマネージャー嶋谷晴香は嘯いたらしい。


「一日三公演にすれば客は3000でもはける、そうほざいたらしいのよ、大学側に、あの子」


「それで?」


「認めるわけないじゃない、朝昼晩でしょ。そんな大勢の人を、それも、夜まで捌けるはずがない。事故でも起こったら大変でしょ」


「けど、2000でも大変だよ、うちの生徒数とおんなじじゃん。溢れるよ。外まで」


「あっ、そうか!」


思わず声を上げる眞子。その声の大きさに手に持ったコーラの瓶を落としそうになる。


「何よっ、急に」


「それで梨音が言ってたのよ、歌うって」


「なにが?」


「楡の木の下で歌うんだって皆でビラ撒いてたよ、昨日も今日の朝も」



室町梨音。元々は映画研究部に所属。学内で16ミリカメラを片手に動き回る姿はその小柄でまだ中学生のようなあどけなさが残るキュートなルックスも手伝って、みんなの間では時々話題にのぼることがある。


楡の木がどうも今年中に撤去されるかもしれない、その情報をいち早くつかんだ梨音は中止を求めて自治会と新聞部と協力して大学側と交渉を始める。


しかし学生運動が逆風のなか運営側は強気を押し通す。そこで聞く耳を持たない大學に対して、彼女は作戦を変えた。

学内の民意に歌で訴える、そんなソフト路線に変更する。



「人がバカほど集まるこの日にぶつけてきたわけだわ」


「ふーん、やるよね、梨音」


みんな何かと戦っている。

それだけはこんな私でも分かる。きっと1972というこの年はそういう年なんだ。

そんな節目の年が何百年単位の割合でおこる、そんなことを誰かが言っていた記憶がある。

何十年後何百年後にこの年を、1972年を振り返ればおそらく驚くほどの年なんだろう。


今、私達の大学に限らず多くの大学では怯える者達と怯えられる者達が存在する。各地で行われる魔女狩りまがいの蛮行。

これも未来から見れば正しいことなのだろうか。


───否。


未来なんて私たちが切り開いて作るもの、私たちの中にある正義は誰にも見ることができないし、ましてや触ることなんてできっこない。

だから私たちはそれを声にする。声に出して歌う高らかに、

私たちのなかの正義なんて誰にも変えられないものだから。



「歌ってみる?私達も」


「うん、眞子も今そう思ってた」


二人の声が弾む。アルベロベッロの天窓から降り注ぐ春の陽射しがつい先ほどとは違って見えた。



「へぇ~」


「なによっ」


「自分のこと眞子って言うんだ、眞子は」


「いいじゃん、別にっ」



璃子さんは言った。

奈々は今は楽しいことだけやっとけばいいって。

さやかさんは言った。

お酒を飲めるようになるまでは子供なんだからって。


楽しいことばっかりなんて、もう言わない。

お酒ももう飲もうと思えば飲めるよ、さやかさん。


だって私はこれから、

あなたたちと一緒に、闘うんだから・・・





─ ※ ─





秋風と共に仲間たちの姿が消えた。校舎の片隅に見覚えのあるヘルメットにタオルマスク、そして彼らが片時も離さなかったゲバ棒がうずたかく積まれていた。



── いつまでそんな恰好やってんだよ



彼らの惜別の言葉だけが璃子の心のなかを吹き抜けていく。


心地よいはずの枯葉が香る風も今の私たちにとっては肌を刺すように痛い。時折、学内を嘗め回すように徘徊する挙動不審の大人たちはおそらく警察か公安の回し者。


「集会禁止」「立て看禁止」「ビラ配り禁止」張り紙の波が私たちを覆う。そんな光景を他の生徒たちは苦々しい思いで見ていた。


お前らがいるからだよ、そんな空気を目ざとく感じた人間からプロレタリアで武装した自らの鎧を脱いでいく



──ヘルメットにタオルを巻いてたら赤軍派も革マル派たちもみんなおんなじ、もう誰も区別なんかしてくれないんだからね


ヘルメットをかぶっているだけで、ヒトの一人や二人殺していそうな気がする、熊本のおばあちゃんにもそう言われた。




「そんな人間がそばにいると分かったら、おばあちゃんショック死するかもね」


人の気も知らないで大きな目をギョロつかせながら璃子は笑った。


「ホントにそうなのよ、璃子」


冗談で言ったつもりはなかったのに。



──もう、熊本に帰ってきんさい、ゆき・・


おばあちゃんに、そうまで言われたことを彼女は知らない。


──違うんだってば、私たちのやってることは考えも思いも方向も,

おんなじとこなんてなんもないのよ


私のその言葉に実家の家族全員の顔色が変わる。


──あんたまさか・・


──違うって言ってるでしょ、ただ一緒にビラ配って、集会に参加してただけなんだから


その場がさらに凍り付く。

溜息をつきながら肩を落とす祖父と祖母。父はうな垂れたまま、もう何も言わなかった。

その空気にいたたまれず母がやっとの思いで声を絞り出す。


──それで十分でしょ、ゆき


私は何を言ってしまったのか、それさえもわからなかった。

熊本から見える東京はもう違っていた。日本の正義はもう私達のどこにもなかったのかもしれない。


やっぱりあの日がすべてを変えたんだ。


そう、1972年2月19日、あの日以来私達の居場所はなくなった。


── あんな奴らと同じ空気を吸っている輩


私たちの語りかける言葉は色を失い、投げかけられる視線は憎悪に満ちたものに変わっていた。







「ほとぼり冷めるまで音楽でもやったらどうや、璃子もゆきりんも」


璃子は先ほどから私のベッドの上で両手を枕にしながら仰向けになって、天井に張られた阪神タイガースのペナントにずっと目をやっている。


秋の午後の日差しがあちらこちらに深い影を落としながら、部屋の中にもやわらかい光を届けている。



「あのさ、さやかってさ、なんでそうやって、なにもかも一緒くたにして物を考えることができんの?」


「ん?」


「考えてみてよ、今まで革命戦士なるものをやっていた私がだよ、なんで資本主義の象徴の片棒を直ぐに担げんのよ」


実は璃子はこの時、サブカルチャーという言葉をまだ知らない。

学生運動に挫折した若者達はニューミュージックや反戦ソング、いわゆるサブカルチャーと呼ばれる分野に自分たちの表現のはけ口を求めてぞくぞくとマイクを握りギターをその手に取り始めていた。



「あんたらしないなぁ、言うてることがまともすぎて、あくびが出てくるわ」


「・・・・・」


「ブルジョアジーのお腹のなかに入り込む、そこで何もかも掻っ攫ったうえで、またそのおなかを切り裂いて出てくる。それがあんたのやり方やろが。」



璃子は一度こちらに向けた視線を再び天井に向けた。黒と黄色に彩られた阪神タイガースのペナントが今にも外れそうに風に揺れている。

彼女はやっぱりこたえているようだった。ここ数日の仲間達の大量の離散は彼女の中から全ての余裕を失わせているように見えた。



「梨音がさぁ、言ったのよ」


窓際の隅でその存在を消していたゆきりんが思い出したように突然目を覚ます。


「うん」


「あの楡の木の下で歌いたいって」


「・・・」


「だからさ、私も歌うって言ったのよ。人前で歌ったことなんてないし、勿論、ギターなんか触れたこともないんだけどね。でも言ったのよ。あそこなら歌えそうって。あの楡の木の下なら歌えるかもって。」




「あっ・・」 


じっと黙って部屋の天井を見つめていた璃子が驚きとも呻きともとれない声を上げる。

その彼女の心のなかのさざ波が時間差で私にも届く 。


「あっ・」



楡の木・・・・・



彼女はそこで普通の女の子に戻りたいと言った。

卒業式の日にクラスメートから頬っぺを叩かれた、あの痛みをそこで消したいと願った。

鞘師璃子にとってあの楡の木に全てを託した大学生活のはずではなかったのか。


「誰がこんな絵を書いたんかは知らん。単なる時の悪戯か、

それとも神さんがあんたの為に用意してくれた筋書きなんか。

そやけど、流されるままに乗ってみるのも、

あんたらしいと思うけどな?・・」



璃子は寝転がったまま傍らにある私の真っ赤なギターを無造作に抱き上げる。

意外にもすらりと伸びた形の良い彼女の親指が一弦目にかかる。

つま弾かれた、その無機質なラの音に反応するように彼女の重い口が開く。



「ヘルメットは被るよ」


「どうぞ、どうぞ」


「タオルマスクもするかも」


「お気に召すままに」


「あともうひとつ」


「うん?」


「あのタイガースのペナント・・くれない?」



ゆきりんがこらえきれず、くすくすっと笑い声を漏らす。三人のころころと響く笑い声が私達のなかの澱んで沈んでいたものを融かしていく。


その夜私たちはみんなで歌うことを決めた。梨音を含めてもたった4人の私達だけど楡の木の下で歌うことにした。


想いが繋がる。


神様がどこかでみんなを繋ごうとしている。

なにか得体のしれない力が動き始めている。

ゆっくりと、けれど力強く私達は自分達の道を歩みはじめた。

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