涙と夢の方程式








「なんでこの人、こんな無防備に寝れるんだろうね」



窓から差し込む秋の日差しで、ぽっかりとできたその陽だまりのなかで樫脇雪は眠っていた。背中まで伸びた黒髪が放射状に畳の上に拡がる。顔は少し斜めに傾いているものの、その体はほぼ大の字。



すやすやとした子供のような寝息を立てるその姿からはとてもいつものフェミニンなゆきりんは感じられない。真っ赤なフレアスカート、真っ白な脚、わずかに内側に向けられた膝小僧だけが、かろうじてゆきりんらしさ漂わせていた。



「男には見せらんないね、このかっこは」



窓辺に置いたベゴニアの花を指先で遊ばせながら璃子が笑う



「いてんるんやろ、彼氏が」



璃子は私の言葉に小さく首を振ると、その真っ赤な花びらを一つだけついばみ、ゆきりんの黒髪の上にのせた。



「いてるんだか、いてないんだか分かんないんだよ、この人は」



璃子はゆきりんの話題になると顔が曇る。目の力が弱くなり、唇から紅の色がすっと消える。



「梨音にもふられたらしいし」



璃子の指がゆきりんの黒髪に触れる。絡まったその毛先を右手の三本の指だけで器用に解いていく。   親指、人差し指、中指、まるでピアニストがノクターンを奏でるような、その指先の動きに、ふと、高校の卒業式の日の放課後、後ろ髪を触られた淡い思い出が頭をかすめる。


ビクンとした背筋を貫くような感覚を覚え、振り向けば軽音の女子の後輩がいた。



その後輩は何とも言えないような薄笑いを浮かべながら「やっぱり、そうだったんですね、彩香先輩」 それだけ言って夕日で染まる校庭を後ろ手に手を振りながら去っていった。


「そうだったんですね」 私は未だに何がそうだったのか判然としない。ただその時から私のなかの守るべきものがまたひとつ増えたような気がしてならない。



「もう秋ね、どこもかしこも」



下宿の窓の枠の上にお尻の片方を乗せて向き合いながら二人で座る。


「痛くない?お尻」



「こう見えても、結構きたえてるから」



「どうやって鍛えるんや、お尻なんか」



「ふふっ」



璃子の笑い声が暮れなずむ夕日に溶け込むように聞こえた


彼女の笑顔にいつもの様に反応しない自分に気づく。そんな自分のこわばる笑顔を見せたくなくて、私は夕日に背を向けた。






✳✳✳






それはまだ夏の日差しが色濃く残る9月のはじめのことだった。


様々な思いが重なり合ってひとつになろうとしていた私たちの夢の形


それは確かに私の手元にあった。昨日までは・・・



「だから言ったでしょ、自分でぜんぶ背負うなって、 あんたのやってることはみんなの事を考えてるようで全然考えてない、自分に酔ってるだけなのよ、さやか!」



部長の宮垣美穂は吐き捨てるようにそう言った。返す言葉もなく私はただ唇を噛んだ。誰かが部室の壁にかかった音楽祭のポスターをビリビリと音を立てて切り裂く。 体中の血液がその音に反応して一斉に騒ぎ出す。



「初めからそのつもりだったんじゃないの!」



「どうせ、最後には自分が残るんでしょ!」



次々と仲間から浴びせらる声が信じられなかった。みんなの叫び声が怒号が涙声に変わっていく。



「私は・・」



込み上げる言葉を無理から胸に押し込む。出せば、きっと私も涙声になる、そしてそれは自分の正体を変える。

口をついて出るのは恨みつらみの種類でしかない。そうなればもう私は私でなくなる。



─────── 私は所詮、ここまでなんや 


小さくそう囁いて、拳を握りしめながら何も言わずに出口に手をかける。

背中に部員たちの罵声を受けたとたん、涙があふれた。



「さやかさんだけが、悪いの!ねえ、あんたたち!」


奈々の声に脚が止まる。


彼女の声はいつも弱い者の声を推す。

ためらわずに推しきっていくその姿にはある種の母性さえ感じてしまう。



「さやかさんが自分の夢を削ってまで、私たちのことを考えてくれてたこと知ってるんでしょ、あんたたちは!」


「やめや、奈々」 


勢いがついてしまった奈々の耳にはもう私の声は聞こえない。

彼女のまっすぐな瞳は自分の中にある正義を疑いもしない。






その日の朝、私は小木プロ社長の小木茂光に呼び出された。

───いつもの喫茶店まで来てくれないか。

いい知らせではない、それはもうわかっていた。

話があってから六か月、会うたびに彼の表情は険しくなっていった。

私の夢が削られていく、ひとつひとつ、まるでジェンガの積み木を抜き取るように私の心の中に風穴を開けていった。



歌詞は若干の変更をお願いしたい。曲のリズムはもう少しアップテンポで。

ギターは格好だけでいい、どうせ音は拾わないから。

言われるままに私は直した。


最初の強気なんてもうどこにもない。なぜなら私はみんなの夢を背負ってしまったから。

武道館のステージにみんなで立つ、いつのまにかそのことが私の心のなかで最優先順位に変わってしまっていた。


「やっぱり全員は上げれないんだよ、申し訳ないんだけど」


「全員って・・こないだ、7人を5人に減らす話をしたばっかりやないですか」


「・・・」


「まさか、はじめからそのつもりで・・」


「そんな訳はない。やっぱり無理があるんだよ。それは君もわかっているはずだろ?」


そう私はわかっていたんや。わかってたはずなのに、敢えて前へ進んだ。


「どこまで、君は自分の夢を削る気なんだ」 


彼の言葉がまるでささくれだった竹のように、私の心の中に入り込む。


「昇っていく者は下を見ちゃだめだ。なぜなら、つい手を差し伸べてしまうから、後に続くものに」



おそらくこの人は子飼いの新人たちには何度となく同じことを言っているのは想像がつく。

でもそれは私の今の心を揺さぶるには十分な言葉やった。


「実のところスポンサーサイドは君以外は認めてはいない、もう限界なんだ、私の力では。だから分かってほしい、もう君はアマチュアではない、彼女たちも時が来れば分かる・・」



止まることのない大人の理屈。頭ではいやというほど理解できていた。 そやけど・・・





✳✳✳





「なに?なんなのよ、だから、何だって言うのよ! 」


突然、空気を切り裂くような鞘師璃子の声が私の言葉を遮る。


「まだ話は終わって・・・」


「ないって? もういいのよ、聞いてらんないのよ、そんなの。見てらんないのよ、そんなさやかは 」



窓の外はもうすっかり夜の戸張は落ちはじめていた。手を伸ばせば届きそうな楓の木。さわさわと揺れるたびに辺りに枯葉をまき散らしていく。湿った枯れ葉の匂いをたっぷり含んだ風が秋の深まりを感じさせる。


そんな一日の終わりに、璃子はもういつもの璃子に戻っていた。


「じゃあ、あんた、楡の木のことはどうすんのよ!みんなをさんざん振り回して、いいように大人にも振り回されちゃって。

そんなんじゃ、振り向けばなんもなくなるよ。気が付いたら一人よ、わかってんの!」


「・・・」


「まずは自分だよ。力のあるものが前に出る。そうじゃないと周りがつぶされる。あんたがてっぺん取って仲間を引き上げる。

それからでいいのよ、外に続くものは。」


「ふっ、分かったようなことを・・・」


そう口では吐くようにいったものの、疲れ切った私の心には璃子の言葉は思った以上に応えていたわけで。



「けど、心のどっかには響いてるんかも分からへん、璃子の言葉は」


「ふん、響いてなんかないね。あんたは何も分かってない」



彼女の怒りはまだ収まっていないようだった。

大學の正門の前で初めて見た、あの時の彼女の目、ヘルメットとタオルの間から私たちを射抜くように毎朝投げかけていた、あの目がそこにはあった。



「ベトナム戦争でたくさんの人間が殺されていく、自分たちとは肌の色も違う、話す言葉も違う、薄く見えてしまう命の数々。銃をむければそこにいるのは同じ人間ではないんだ、そう思え・・・・それが今のアメリカ人よ。


毎日コーラを片手に銃を放ち、ハンバーガーの一欠けらとべトコンの命を秤にかける、そんなアメリカンをあなたは知ってる?

埋まっている地雷の小さな道を先に行く子供たち、手にはアメリカ兵からもらったキャンディやチョコレート、後に笑みを浮かべながら続くアメリカーナ。


そんなアメリカを知ってるの、さやか?

誰も知らない。


スティーブマックィーンの彼女がアリーマッグロウということは知っていても

ハノイがベトナムの首都であることさえ知ろうとしない。

でもね、

私が拡声器を持ってそんなことを叫んだって何も変わらない。


二十歳そこそこのガキが、それも女の私が青臭い正義を振りかざしても大人たちには届きっこない。んな事は分かってる。


ただ、そんなことを超越したところに私たちはいる。

信じた仲間と一緒に自分が正しいと思ったこと、言いたいことしたいことを叫べればいいのよ。行きつく先はその結果が知らせてくれるはず・・・」




「バカだよね、私も璃子も 」


寝ているはずのゆきりんの声が璃子の話を止める

雨漏りで煤けたアパートの天井のシミをひとつひとつ数えるように言葉を繋ぐ。


「みんなはもう霞が関や丸の内の住人になろうとしてるのに。

潰されちゃって、消されちゃって・・ 未だに私らはこんなこと言い合ってる・・・」


死ぬことなんてそんなに難しくない、それが彼女の口癖。

それは別に世間を脅しにかけてるわけじゃなく、

彼女の中の単なる決め事、それでゆきりんは生きていけてるらしい。

そんなゆきりんの心の闇をさしこはいつも気遣う。



「ゆきりんの言う通り、みんなは潰されたのかもしれない、消されたのかも知れない。でもあんたは違うよ、七海さやかは違う。潰れちゃあダメ、消されちゃあだめなんだよ。

あんたが世に出てくれたら私達はそれに続いていける、

今起きていることを歌にして叫んでやる。

そんな気持ちでいるのは、おそらく私や・・このゆきりんだけじゃない。

梨音だって奈々だって、まゆだって叫びたいことが山ほどある。

みんなきっかけを待っているんだよ、誰かがガチンコを響かせてくれるのを、誰かがスタートの笛を鳴らしてくれるのを。

時代を切り開いていく、そんなカッコイイ事を言えるのはほんの一握りの奴らだけ。でもそいつらは格好悪いこともいやというほど経験してる。


あんたがその一握りになれるかどうか

かっこ悪いことをどれだけできるか

そのためにあんたは歌ってる、私たちの為に歌ってる。そう思えばいい 」




気が付けば全身の力が抜けていた。急に鞘師璃子が大人に見えてた。

璃子は自分の信じる道を歩いてる、それも堂々と胸を張って。


強く生きる、それはこの戦後が終わったといわれる昭和の日本においてはもうそんなに必要なことではないのかもしれない。

でも私から見て彼女の生き方は十分に魅力的でかっこよくて。  

自分の中にある志や夢みたいなもんが、ちっぽけでまるで・・・




「頭を下げてきなよ、もう一回、仲間のところへ。

かっこ悪いところみせてきな、だだし、堂々とね。

自分の為に歌うって言ってきな。」



悲しみや涙を夢に変える。

その方程式みたいなものが私たちの前に横たわる。

それは喜びや悲しみ,憎しみや妬み、友情愛情、そんなものを並べ替えるだけで解けるほど生やさしくはない。

涙の数を数えても悲しみの深さはわからない。

夢の数だけ幸せが訪れるものでもない。



「自分だよ、さやか。自分を見つめないと何も始まらない」


最後に璃子はそう言った。


自分だけを信じて前へ進む。

飛んでいこうなんて思わない、大空に広げる翼なんて私はいらない

それでいいのかもしれない。


迷わずしっかりとその一歩を踏み出せる勇気があればいい、

それを見守ってくれる仲間がいればいい


誰かがまた私のうしろ髪を撫でるかもじれない。

けれどもう私は振り返らない。

後ろにいるのは笑顔で微笑む仲間たち・・・そうに決まっているから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る