布団のなかでお母さんを想って泣くことはありますか?




いったいこの子はさっきからずっと何を見ているんだろう。投げかける視線の向こうには暮れゆく夏の夕暮れと行き違うように昇ってくる仄かに光る十六夜の月しか見えないはずなのに。




「聞いてみたら?」




奈々の声に誘われるように私の足が自然に動く。お盆休みの大学は人影もまばらで学生の姿はなく、近所の子供たちやお年寄りの憩いの場になっていた。


大学に入って3回目の終戦記念日、いつもは大阪の実家に帰っていたけど、今年は訳あって帰れていない。

きっと、あの子も、空の向こうの故郷に想いを馳せている、

そんな想いが私にあったのかも知れない。




「白咲遥よ、その子」




後ろから、奈々が小さく叫ぶ。


聞こえたのだろうか、空を見上げていた、彼女の視線がわずかに私のほうに振れる。

ドキッとした。吸い込まれそうな大きな黒い瞳が私の足を止める。

もうそれ以上は来ないで 無言のオーラに息をのむ。


小さな水玉模様がプリントされた真っ白なノースリーブのワンピースに真っ白なスニーカー。肩まで伸びた黒髪が夕陽を浴びて栗色に輝いていた。  

まるで映画のワンシーンを見るように。



「この子が・・・」


白咲遥。。



―― なんかすごい子が演劇部に入ったみたいだから行ってみない?


そう奈々から言われたのはつい先ほどの事。



大学ではその手の話は良く聞く。たいていが身内の自作自演。話題集めの為にわたし達も一年生の頃によくやらされた思い出がある。誰かをスターに仕立てて噂を煽り部を盛り上げる、子供だましのようだけど、それもまたサークルの生き残りを賭けた私達の戦い。



「でも、今回は違うみたいよ。だってその子のお姉さん、女優らしいから」


「女優、白咲?」


「うん、まぁ、どうせ聞いても知らない名前なんでしょうけどね」


「ちょっと待って奈々。白咲って、それって、もしかして白咲百合?」


「誰、それ?」


白咲百合、今、彼女の顔や名前をテレビをはじめとするマスメディアで見ない日はないだろう。 歳の離れた妹が、どうも彼女の娘らしい、憶測が憶測を呼び、各社各局のスクープ合戦が連日続いていた。どちらにしても、おそらくこの昭和の日本人なら彼女を知らないものはいない、国民的女優。


「奈々、あんた、ほんまに日本人なんか?」


「どういう意味よ、さやかさん」


気が付けば、先ほどまで青空が残っていた西の空は、もう、綺麗な薄紅色を帯びて、奥多摩の山々を覆い始めていた。暮れなずむキャンパス、夕日に染まる楡の木の下で一人たたずむ白咲遥。


私にひと時投げかけられていた視線も、もう前を向いていた。

黄昏ている風でもない、焦点が定まらない様子もない、彼女は明らかに何かをしっかりと見ていた。



「階段がね、見える時があるの」



誰に話すともなく、風に囁くように、遥はそう言った。

彼女が見上げる空を再び見つめる。

折り重なるように続く黒い稜線に縁どられた夕焼け空は先ほどと何も変わらない。


「ふふっ、大丈夫ですよ、あぶない子じゃないから」


距離を詰めないでいる私の心を見透かすように言葉が飛ぶ。


なんだろう、このすべてを持っていかれるような不思議な吸引力は。

少しかすれたような声は意外だったけれど、逆にそれが彼女の魅力を特別なものにしているように思えた。




「さやかさん?ですか?」


「・・・?」


「なんで知ってるのって、思ってます? 

有名ですよ、もう学内では。

あの一件を莉音も学内新聞に載せるって言ってたし」


「言ってた、言ってた。警察沙汰にならない程度にやるって」


いつの間にか後ろに奈々が張り付いていた。私の顔の横からいつもの人なつっこい笑顔を覗かせる。


「中文専攻の奈々です。軽音でさやかさんの舎弟やってます」


「敬礼はいらんやろ、奈々」


「だって・・」


二人のやりとりに思わず笑みがこぼれる白咲遥。


「ふふっ、仏文の二年、遥です」


「同級なんだ、てっきり年上だと思ってた」


「年は上だよ、ひとつだけ」


「えっ、ダブってるの、遥さんは?」


「奈々っ」


「いいんですよ、さやかさん」


彼女の指先が私の肩に優しく触れる。仄かなバラの香りが鼻をかすめる。

シャネルのサムサラの匂い。それは私達にとっては特別な、あゆさんの匂い。


「サムサラ?」


「えっ、ああ、母のがついちゃったのかな」


「えっ、お姉さんのじゃないの」


奈々が言う。



「母なんです」



語尾が少し強く感じた。か弱そうでいて、自分の意思を強調したいときは突然、目力が強くなる。

「姉ではなく、母」 初対面の私たちに彼女は確かにそう言った。

奈々はもうそれ以上は聞かなかった。何も知らないはずなのに、そういうところはいつもこの子はあきれるほどに勘が鋭い。




──── ぱる~~



校舎の中から彼女を呼ぶ声が聞こえた。


「行かなくちゃ」


一瞬、奈々と目が合う。彼女も分かったようだった、白咲遥が何かに身構えるような表情に変わったことを。


「最後にひとつだけ、聞いてもええかな、白咲さん」


ぱる~~、彼女を呼ぶ声が次第に大きくなる。



「さやかさん、もう遥さん、行かないと」

そんな奈々の声を目で制して私は薄暗くなった夕闇の中に白咲遥の瞳を探す。


「初めての私らになんで言うてくれたんや、お姉さんのこと、いやお母さんのこと」


十秒、いや二十秒はあっただろうか、長い沈黙が続く。家路へ急ぐカラスの声だけが月明かりのキャンパスに響く。


「正しいことを正しいって叫べる人達が羨ましくて・・」


「・・・・」


「友達と肩を組んで正義を叫べる人がこの大学にいると思ったら、

なんか急に嬉しくなっちゃって・・」


「遥さん、あんた・・・」


「敵なんでしょ、大人は、さやかさんたちにとって。だから私は・・・」



─── ぱるっ、何やってんのっ、はやく!


一段と高い叫び声に白咲遥の言葉は闇へと流れていく。



「あれが母です」


「お母さん?白咲百合さん?」


もう夜の戸張はすっかり下りていて暗闇の中、声の主はどこにいるのかさえ分からない。ただ言われてみれば、そのよく通る声は私たちが知る女優白咲百合そのものだった。


「理事長さんに挨拶するって。いいって言ったのに」


「いいお母さんじゃない」

奈々が言う。


「これも仕事のひとつだから、あの人にとっては」

わたしのことなんか・・、そのあとは思い直したように言うのをやめた。


「普段はこんなに喋らないんだけど・・」


「けど・・なに?」


「二人のやり取りになんか和んじゃって」


奈々の嗅覚がまだ働いているようだった。彼女の顔を覗き込みながら、しきりに私に目でサインを送って来る。

(泣いてるみたい)奈々の口の動きはそう見てとれた。



軽音の部室、そのうち覗きますね、そんな言葉とサムサラのバラの香りを残しながら白咲遥は真っ暗になったキャンパスを月明かりだけを頼りに闇のなかへと姿を消した。



「なんか不思議な子だね」


「うん」


「ぱるっていうんだ」


「うん」


「もう学内でファンクラブできたらしいって」


「・・・」



「階段って、なんの階段なんだろ」



「・・・」


「ねぇ、さやかさん」


「うん?」


「聞いてんの、私の言うこと?」


思い出していた。私の足を止めたあの鋭い目の輝きを。近寄りがたい、けれど愛おしさを感じずにはいられないあの大きくて黒い瞳を。



「夢への階段にきまってるやろ、ほかにどんな階段があるんや」


「見えるのかな、遥さんには、それが」


「わからんけど、うちらには見えへんもんが、あの子にはいっぱい見えてるように思う。ちょっと話しただけやけど、彼女とうちらが見てるもんは違う、

そんな気がする。」


「一緒だよ、さやかさん」


「・・・」


「あの子は同じなんだよ、私たちと」


「奈々・・」


「だって、自分のお母さんをお母さんと呼べないんでしょ?

それで泣いてたんだよ、遥さんは。

だったら私たちと一緒じゃん、なんも違わない。

私も、お母ちゃんを想って泣くことがあるよ

布団の中で、泣くよ 」



そんな奈々の涙がなぜか今の私には眩しくて顔を上げた。

見上げればもう十六夜の月はほんのりと辺りを月明かりに染めていた。


奈々の感性は時として人と同化してしまう。

他人の苦しみや悲しみをまるで我がことのように想い、涙し、自分の心に重ね合わせてしまう沢良木奈々。


もしかしたら白咲遥は私に話しかけているように見えて、本当は奈々に語りかけていたのかも知れない。


白咲遥。

この先、私達は彼女の為にこんな涙を幾度となく流すことになる。

笑ったことも多かったけれど、やっぱり泣いた記憶の方がはるかに多い。

ぱるがぱるで在る為に、彼女の存在はやはり世の大人達にとってはとても難解なもののように思えた。

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