仇討ち感謝、涙が止まらない




「じゃあ、借用書あったら見せてよ」


ピンストライプの濃紺のスーツがやけに良く似合っていた。爽やかな笑顔とは裏腹に言葉の語尾がやたらと強いのが鼻につく。


「いい男だね」


鞘師璃子が私の耳もとにそっと口を寄せる。




ふかふかのソファーに大理石の床、寒い程のクーラーの冷気に満たされた丸の内八重洲ビルのロビーは7月とは思えないほどの快適さに包まれていた。


「こんなところが日本にもあるんだね」


璃子の少女のような目の輝きに少しいらつきを覚える。


「ブルジョアジーはみんな、あんたらの敵やろが」


「そうでもないのよ、さやか。

要は考え方ひとつ。誰も資本主義を駆逐できるなんて本気で思ってやしない。

こんなやつらの世界で私らがどう共存できるか、どうその隙間に入り込んでいけるのか、

そんなことを毎日考えてる。

まぁ、周りには真剣に国家転覆まで考えてる奴もいるにはいるけどね。

人が人らしく生きれる世の中、それだったら、何でもいいのよ、鞘師は。

ねぇ、あんたもそう思うでしょ、ピンストライプのお兄さん」


そんな璃子の言葉をもてあましたように鼻で笑う男。

よれよれのプリントシャツにはき古されたジーンズ、その今の彼女の在りようは紛れもないプロレタリアの代弁者。資本主義を絵に描いたようなこんな男に鞘師璃子のそんな言葉が説得力があろうはずはない。




「あのー、もういいんだったら、俺帰るけど、いいかな?」


「帰ろうと何しようとあんたの勝手やけど、お金だけは置いていって貰うで。

あゆさんからむしり取ったお金、ビタ一文まけられへんから」


「だから、それだったら借用書出せって言ってるじゃん」


「あほか、あんた。男と女の間の金のやりとりにそんなもんある訳ないやろ」


「男と女のやりとり?それを認めてるんなら尚更だろ、 貰ったもんなんで返さなきゃいけないんだよ。まゆはくれたんだよ、それもにっこり笑ってな」



「まぁ、ええ、そんなこともあったんかわからへん。けどあゆさんが部屋に置いてた現金35万、それを黙って持って行ったん、それもあんたやな」



「そんなわけないだろ。だいいち、あんな新潟の百姓娘が、なんでそんな大金持ってんだよ、おかしいだろ」



「なんやて?」



「あ~~あ~あ~!めんどくさい男だねぇ、あんた!」


メガホンがなしでも数百メートルは届くと言われている鞘師璃子の声が大理石の壁面を揺らす程に響き渡る。もう時間は終業時間の午後5時、帰宅を急ぐビジネスマンたちの足がひととき止まる。出口のところで警備員のおじさんがこちら睨みながら首を横に振っていた。もうそれ以上はゆるさない、そういう意味だろう。



「だったらくれてやるよ、その金は。あの子にもそれなりの責任がある。こんなどうしようもないあんたを見抜けなかった責任がね」



スイッチが入ってしまった鞘師璃子。気が付けば男の数センチにまで鼻面を近づけていた。



「だから私たちは慰謝料をもらう。真っ当なあの子に対する慰謝料をね。

100万、と言いたいとこだけど、あんたみたいなチンケな男に出せるわけはないだろうし。

まぁいいわ、50万にまけといたげる。

どう?優しいでしょ、私たち」


「慰謝料?何の慰謝料だよ、別れたのは合意の上だろ、そんなもん発生するわけないだろうが」



にじり寄る人の数が増えていた。明らかに異端者扱いの目が注がれる。大声一つで周りの状況は一変するだろう。それを踏まえたうえでの璃子の押し殺した声がロビーに低く静かに響く。


「なんの慰謝料?言っていいの?そんなことを私に言わせる気?」


「・・・」


「ひとりで行ったんだよ、あの子は。ほんとはみんなで祝福されていくはずのところへたった一人で行ったんだよ」


「・・・」


「まだわかんないの?ひとつの命が消えたんだよ、あんたのせいで」


「璃子・・なんでそんなことを」


「知ってるのって?ゆきりんから聞いた、ずっと聞いてた、あんたたちの事は」


「じゃあ部室に来たのもそのことで・・・」


「聞いてしまったのよ。あゆという越後の山奥から出てきた子がいて、赤ちゃんが出来て、

産むに産めず、迷ってたらもうお腹の子は死んじゃってて・・・」


「・・・」


「お金もなくて、血を売ったんだよね、自分の血を。自分の子をおろすために」


「璃子・・」


そう、鞘師璃子は知っていた。彼女が男に騙され、大切なお金を取られ、初めて授かった命までも、奪われたことを。

そして周りのみんながもう一度彼女が東京に戻って来ることを願って止まないことも。



「往生際が悪いね、カッコだけなの、あんた。なんのためのぴかぴかのスーツだよ、それ。

女を騙すためだけにスーツ選んでんじゃねえよ、このバカ!」


 「・・・」


「いいんだよ、私はここで叫んでも。見ての通り、失うもんなんてなーんもないから」



 「・・・」


「どうなのよっ!」



「璃子・・」



「じゃあ、ここで叫んでやろうか!あんたのしたことを!」




その言葉が終わるか終わらないうちに私たち二人は警備員達に取り押さえられていた。

5~6人はいただろうか。 おびえて後ずさりする男の顔もはっきりと見てとれた。


私はといえば大理石の上に顔を押さえつけられながらも泣いていた、けれど璃子によるとそれはうれし泣き、その顔はへらへら笑っていたらしい。


もうお金なんてどうでもよかったのかもしれない。仲間がいる。あゆさんのことをこんなに思ってくれる仲間が私にはいる。それをあゆさんに伝えるだけでよかった。。


そのあとのことといえば、大理石の床の冷たさが変に気持ちが良かったことと、

「逃げんじゃないよ、このばか!」

そんな璃子の声が頭に残っているだけ。それ以外はなにも覚えていない。 

ただ、外にほうり出された後、プロレタリアの勝利だの何がブルジョアジーだこの野郎だの、二人で大声で雄叫びを上げていたことを後に彼女から聞いた。









「それで結局、あゆさんにお金入ったんでしょ?」


「昨日、あゆさんの口座に振り込まれたらしい、満額やないみたいやけど」


「で、あゆさんはなんて?」


「今朝、電報届いて、まだ見てないんや。こんなもんはみんなで見やんと」


「いいじゃない、初めて見たことにしたら。ねえ、さやかさん」


「も~お、奈々!」


奈々の引ったくらんばかりの勢いに思わず声が出る

まゆの第一の信奉者、沢良木奈々。あゆさんは必ず私の為に帰ってきてくれる、そう今でも信じ切っている。


電報読むなんて初めて、そう小さな声で囁きながら封筒の中を覗き込む。手垢がつかないように親指と人差し指だけでそっと中の電報を抜き取る。目をつぶって胸に手を当て二度ほど大きく深呼吸した後、祈るようにその目をゆっくりと開けた。


思わず奈々は口に手を当てる。みるみるうちにその大きな瞳が潤み、淡雪のような真っ白な肌が薄紅色に染まる。


「あゆさん・・・」

顔を涙でくしゃくしゃにしながら、電報を私の前に差し出す奈々。



────アダウチカンシャ ナミダガトマラナイ モウワタシハワタシダ



「仇討ち感謝、涙が止まらない、もう私は私だ 」


すべての言葉の響きが彼女だった。媚びないめげないそして怯まない。

あゆさんが帰ってきた、奈々の涙はそんな意味を持つ涙なのだろう。




───きれいな涙を流すのよ、あの子は。見ているこちらの心まで真っ白になるような涙。わかる、さやか?


あゆさんがそう言っていた奈々の涙、これもひとつの私たちの大切な宝もの。



「ようわかる、まゆさん、あんたの言う通りや」


「なに?さやかさん」


「なんでもない。私達のまゆさんが戻ってきた、それでええねんやろ、、奈々」


「うん、うん」



彼女の失われたものはお金以外、私たちにはもうどうすることもできない。あとは彼女が自分のなかでどう決着をつけるかだけ。砕け散ったものを拾い集めて探し求めて、長い長い自分探しを続けていくのか、それともすべてを忘れすべてを捨て、全く別の如月あゆを自分のなかに形作っていくのか。


「どっちでもええんや、あゆさん。うちらはずっと待ってる、あんたの笑い声が聞こえるところで、あんたの微笑む顔が見えるところで」


1971年の夏ももう終わる、如月あゆの新たな闘いを横目で見守りながら私達の手探りの戦いも再び始まる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る