男には利子まできっちり返してもらう、それが女としての真っ当な道だよ・・
それは越後妻有から、あゆさんの手紙が届く一か月ほど前のことだった。以前から誘われていた芸能プロダクションの社長さんからの呼び出しを受け、私は大学近くの喫茶店へと向かっていた。
まだ創立して数年しか経たない北多摩総合大学の周りにはこれと言って若者達が集えるような場所はそれほど多くはない。
学内には今の平成の世の大学に見られるようなファーストフードの店やおしゃれなカフェなどは勿論なく、私達が集まって駄弁ると言えば大学内にただ一つしかない、ただただ、だだっ広いだけが取り柄の学食か、それとも正門前の大きな楡の木の下の芝生広場。そしてその正門前の学園坂を少し下ったところにある純喫茶「楡の木」と決まっていた。
窓から覗くとカウンターとテーブル席を含めて20人ほどが入れる店内は平日の昼下がりだというのに学生たちでほぼ埋まっていた。
ドアを開けるとチリリンという心地好いベルの音とともに「あっ、さやか」の声がここそこで飛ぶ。
どしたの、今日ひとり?
うん、ちょっと
ライブ、今度行くね
ありがと
そんな声に少しはにかんだ笑顔で応えながら店の奥へと進む。
「やぁ」
少し入り組んだ窓際の席でいままで燻らしていた煙草を灰皿に押し付け
その人は軽く左手を上げた。
「人気者なんだ、七海さんは」
「まさか」
小木重光、小木プロダクションの社長。まだ所属するタレントもわずかだけど、それは少数精鋭を目指している為。まだ駆け出しの事務所だけど業界では一応、名が通っている・・・でもそれは本人が言っているだけ。
「東京は騙し合いの街、信じた奴から堕ちていく」
大阪のストリートで歌っている時、仲間の口からよくそんな事を聞いた。
「今日呼び出したのは他でもない。七海さやかのデビューへの青写真が決まったので。」
「・・・・」
「まずは武道館、君にはそこを目指してもらう」
「日本武道館?」
「そう。おそらく、そこが君の夢のスタートになる、そしてそれが歌手七海さやかの最終オーディションにもなるはず」
彼はまるで目の前に描かれた私の未来予想図を指し示すようにそう言った。
「君に選択肢はないはずだ」そう言っているようにも聞こえた。
いつも思い描く一万人を超える大観衆。
そんなイメージは私の中にはいつもあった。渋谷の駅前広場で歌っている時も、原宿のホコ天でみんなと一緒に歌っいても、私の気持ちだけはいつも武道館にあった。あゆさんの書き残してくれた歌と、私の作った曲、それを仲間とともに歌える。それも武道館で。そこへこの人は連れて行ってくれると言っている。私たちの夢を叶えてくれると言っていた。
「まずはつま恋で開かれるポピュラーソングコンテスト、そこに出てもらう。これはあくまでも、秋に武道館で行われる世界歌謡祭へのステップ、そう思ってほしい。結果は良いにこしたことはないが、悪くても、それはこっちが何とか手を回す。だけど誤解しないでほしい。それは君たちの才能とタレント性を見込んでの話だ.売るほうも売られる側もお互いを認め合っていないとこの商売は前へは進まない。
認めたらこちらは何としても君らを売る。どんな手を使ってでも。だから、それを信じて君たちはついてきてくれたらいい。
難しいかな、こんな話は君たちには。」
「いえ・・」
正論でしょ、心の中でそう囁いた。私たちの人生をあなた達に預けるんだからそれは当然の話。けどまだ預けると決まったわけじゃない。わたしはまだあなた達を見切ってはいない。
「でも、絶対譲れないことが一つあります」
「何でしょう?」
「言って良いですか?」
「どうぞ」 手を差し出すようにして、彼はそう言った。
「曲は私達のオリジナルでお願いします。曲のアレンジ、編集等、一切お断りします。歌詞も一字一句変えてほしくない。それとつま恋と武道館は私達軽音メンバー全員をステージに挙げてほしい。それだけです、私の願いは」
一瞬彼の唇がゆがむのを私は見逃さなかった。二度三度、自分に言い聞かせるように頷くと、ゆっくりと口を開いた。
「確約はできないけど、一応、その方向に持っていくように努力は・・」
「だめなんです・・だめなんですよ・・それでは!」
ざわついていた周りの会話がひととき止まる。
自分でも驚くほどの大きな声だった。大きな期待と小さな不安それがいつも私達にはついて回っていた。
「善処するとか、約束はできないけどとか それでは私達はだめなんです。」
子供じみてる?それを笑うなら笑え、大人達。 あなた達に潰された夢を私達は決して忘れない。私達はあなたが微笑む顔など見やしない、いつも私達は仮面の下に潜むあなた達の真実を疑う。
「いいでしょう」 七海さやかのそんな反応を予測していたかのように、小木はにこやかな表情はそのままに、低く静かにそう言った。
「ただし・・」
「ただし?」
「ただし、それはあなた自身の夢が遠ざかる事になるかもしれない。それでも良ければ・・はっきりとここで約束しましょう、神に誓って。」
それでも、まだ私は信用していなかった、突然、私達の前に現れたこの人の事を。
どういう人かもまだわからない。どんな事務所かもわからない。知りようにも、調べる術さえ私達学生にはない。
────信じて飛び込むしか無いのよ、さやか
そう言っていたのは如月あゆ。でもその本人も、もう東京にはいない。東京を信じて飛び込んだ彼女は東京にだまされて帰って行った。故郷、まだ雪が残る越後新潟、妻有へ・・・
※※※
(あゆさんがおったら、どう言うてくれるんやろ)
部室の窓際のソファの上に置かれたスヌーピーのセーターから香る微かな香水の匂い。それは東京で彼女が確かに生きた証。
何もないところ、誇れるのは越後の山と信濃川だけ、自分の故郷をあゆさんはそう言った。
そんな彼女を、シャネルの50番を漂わせ、ピンクのルージュを塗って、夜の街に向かわせたのは何だったのか。
───誰のためって? あの人の為じゃない、自分が自分らしく生きるため。越後の女はね、強くなくちゃあ生きれないのよ
彼女の精一杯のやせ我慢、それを聞き流していたのが私たちの罪なのか。
けれど私達が歌うためには、その一歩を踏み出す為には、彼女の笑顔がいる、そんなことはみんなが知っている。 彼女が描いた夢と希望の詩(うた)、そのなかにあゆさんの悲しみなんてどこにもない。
だから、私はあゆさんの誇りを、プライドを取り戻す、女としてのプライドを。すべての話は・・それからだ。
「ちょっと、あんた、聞こえてんの?なに一人で黄昏てんのよ!」
ひときわ大きな、空気を切り裂くようなその声に我に返った。
沢良木奈々が目くばせをしながら、しきりにその口元だけがせわしなく動く。
「勝手に入ってきた」そう言いたいらしい。
その叫び声の主は鞘師璃子。
「あゆっていう子いる?」
誰に聞いているのかもわからない、彼女は天井を見上げながらそう言っていた。そして思わず身を乗り出そうとする奈々を手で制しながら、璃子はそのぎらつく黒い瞳を私に向けた。
「あなたね、七海さやかって」
「そうです」
できるだけ平静を装いながらそう答えた。胸のどきどきと手の震えを悟られないように。これが、あの鞘師璃子か。心の中で三度はそう呟いた。
毎日毎朝、私たちは彼女に会っていた、大学の正門前で。時には拡声器で大きな声を響かせ、時には大量のビラを両手に抱え、時には大学関係者と禅問答のような押し合いを繰り返していた。その横をギターもって足早にすり抜ける私達に、決まって彼女は鋭い視線を投げかけた、「何やってんだよお前らは」とでも言いたげに。
「なにか用ですか?」
大丈夫、大丈夫、言っても同じ大学生、別に取って食おうとはしないはず、そう自分に言い聞かせた。
「勝手に入らないでくださいね!」
おい、おい、奈々の声に思わず目で合図を送る。
構わず続ける、沢良木奈々。
「ノックもせずにいきなり入ってきて!」
いつもより1オクターブ高い奈々の声が室内に響く。
どうも彼女は鞘師璃子という人間をもうこの短い間に見切ってしまったらしい。いつも思うことだけど、彼女の人を見る感性には目を見張るものがある。
「詩集かえしに来ただけだから」
奈々の叫びを気にするでもなく、璃子はそう言った。
ヘルメットの下にのぞく黒い瞳は少し笑っているようにも見えた。
────嫌いじゃない、この人は
その時私はそう思った。何故だかわからない、けれど奈々を子供のようにあしらう璃子のなかに微かな母性と、もしかしたら怪しげな異性までをも、その時、私は感じ始めていたのかもしれない。
「じゃあ、これ」璃子はそう言うと胸をまさぐりながら、お腹とジーンズの間に挟んでいた如月あゆの黄色い表紙の詩集を取り出した。
「ありがとうは言わないんですね、鞘師さんという人は」
そんな奈々の止まらない言葉に、じゃれる子犬をあやすように璃子は彼女の頭をそっと撫でた。
「ありがとうなんて言葉はここ三年ほど、鞘師はつかったことがないのよ。悪いけど。そんなものは使わなくても生きていける、そんな世の中が私の理想なのよ。わかる、奈々ちゃん。」
「なんで私の名前を・・?」
「知ってるのって?」
璃子は黙って傍らに置いてあるギターケースを指さした。そこに書かれている、
SAWARAGI NANA.。
「自分の持ち物には名前きちんと書くんだ、奈々ちゃんは。赤ちゃんみたいだね、あんた」
そう言って、ビー玉をのどの奥で転がすような小さな笑い声を上げると、奈々の恨めしそうな視線をかわしながら、辺りを警戒する様子で出口のドアをゆっくりと開けた。
そして一歩踏み出したところで何かを思い出したようにその足が止まる。
「あのさ、ゆきりん知ってるよね」
「樫脇雪さん?」
「そう、そのゆきりん。あゆって子のお金どうなったのか、気にしてたんだけど?」
「・・・」
「言えないか?言えないよね」
「・・・」
「だよね、けど、どうでもいいことだろうけど、お礼の代わりに一応言っとくわ。
男にはね、利子まできっちり返してもらう、それが女として生きるための真っ当な道だよ。
人は知んないけどさ、そうしてきたわけよ、鞘師は。 」
それだけ言うと彼女は何故か満足そうな笑みを浮かべると、「楽しかったよ」、奈々にそう一言囁いて、再び出口のドアに手をかけた。
「鞘師さん!」
奈々の震える声にふたたび璃子の脚が止まる。
「お金、取り戻してもらえませんか、鞘師璃子さん!」
「・・・」
「お願いします!あゆさんのお金、取り戻してください!」
「奈々!」
たまらず、咎めるように、私は声を上げた。
何を言ってるんだろうこの子は。相手は大学側だけではなく公安の大人たちにまで目をつけられている筋金入りの学生闘争家。
うわさに寄れば全学連とか全共闘とか、目的の為には手段を選ばない、そんな中央の組織にも彼女はかなり名前が通っているらしい。そんな人間にこの子はまるで真冬の寒空に放り出された子猫のような目を向けている。
「鞘師さん、何でもないから、気にしないで」
「だって、さやかさん、ひとりで行けるの?あんなところに」
「・・・」
「表向きは不動産会社だけど、もともとはやくざ屋さんでしょ」
「誰から聞いたんや、そんな話」
「部長のみほさん」
「みほさんか」
彼女には釘を刺されていた。
───もうあの子にかかわるのはやめな、さやか。
だいたい、なんでみんなあゆ、あゆって言うのよ。うちの部員じゃないんでしょ、あの子。もうほっときな。いいわね、さやか。
宮脇みほ、入部当初は、そのバランスの取れた容姿と18歳にしては大人びた歌声から先輩たちにもてはやされ、一時はうちの部のエースボーカルまで任されたらしい。
けど、私達の時代になって曲想も変わり、彼女の声に耳を傾ける者は次第にいなくなった
外部で受けたオーデイションもことごとくはじかれ、元々あったやさぐれた性格が顔を出し始める。3年で押し出されるように部長になったけど、月一出てきて私らに文句を言うだけ。今でも、その私生活の一端も私たちは知らない。
「何も知らんねや、あの人は」
「ちょっと、座っていい?」
「鞘師さん・・・?」
鞘師璃子は顔を覆っていたタオルを外すと、目線を少し窓際に向けながら、部室のくたびれた年代物のソファに深々と腰を下ろした。
そこには予想外のあどけない表情が浮かぶ。決してきれいとは言えないけど、すこし下がり気味の大きな瞳と時折みせるこぼれるような笑顔は十分魅力的で、なにより、話し始めた時の存在感はとても私達と同年代とは思えなかった。それだけでも私たちが彼女に心を許してしまうのには十分に思えた。
「じゃあ、話聞こうか、奈々ちゃん。今日、わたし、割りと暇なんだよね」
「ハイ!鞘師さん!」
「璃子でいいわ、奈々ちゃん」
奈々の触覚と嗅覚の鋭さに改めて驚かされる。もし霊感というものがこの世に存在するのなら彼女の能力は極めてそれに近い。
───美紀も眞子もいい子よ。どちらも頭がいいし。でも奈々はなんか違うのよ。直感で生きてるというか。それでいて生き急ぎはしていないし、後ろでどんと構えているところがある。なんだろうね、あの子は。」
そう言ったのはあゆさん。
あんたの言う通りやあゆさん。いまこの子は直感で生きてる。私たちが進むために夢をかなえるために必要なのは、あんたや言うことを、そのもって生まれた感性で感じはじめてる。。
あゆさん、もしかしたら・・・
越後の桜の花が散るころには貴女に届けれるかもしれへん。
あなたの大切なお金と・・そして結び忘れた私たちの絆を・・
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます