あゆからの手紙 私は東京に負けたんだ 都落人如月あゆ




────あゆさんへ。


来る人来る人がみんな、あゆさんは今日はいないのって尋ねます。

だから部室の壁に新潟県の地図を張っちゃいました。

いちいち説明するのはめんどくさいので、

ここにあゆさんは今いるよって言う為です。

あゆさん、越後妻有ってどんなところですか? 

そして、貴女はいつまでそこにいるつもりですか?


                     奈々







※※※








越後妻有、一言で言うとな~んにもないところ。さやかたち都会っ子には想像がつかないくらい、何にもないところ。


山があって、大きな川が流れてる。山は越後三山と言って、八ヶ岳、中岳、駒ケ岳から成ってる。そんな山並みを、私たちは、それぞれの頭文字をとって、は・な・こ、さんって呼んでる。敬意と親しみをこめてね。川は信濃川。広くてきれいだけど、私には特にこれと言って思い出は何もない。信濃川には悪いけどね。




信号は押しボタン式のが一つあるけど、私の子供のころからずっと青のまま。恐らくこの信号は赤を知らずに一生を終えるだろうねって、


みんなそう言ってる。町にはスーパーなんか勿論ない。毎日の買い物はみんな佐藤さんちへいくの。


日の出屋さんて、ちゃんとした偉そうな名前があるんだけど、なぜかみんなそうは呼ばない。食料品、衣料品、たいていのものは佐藤さんちで間に合う。その気になればガソリンだって変えちゃう。取り寄せだけどね。ただセーターとかブラウスとか買うのは勇気がいるよ。私は買うけどね、ここで。


ほら、さやかにあげたレインボーカラーのスヌーピーのセーター、あれはここで買ったやつ。風の噂では、何故か今、部室のクッションカバーになってるらしけいけど。まぁ、それは許すとして、とにかく自慢じゃないけど、なんもない、わが故郷、越後妻有は。




 こんな、なんもないところに生まれ育った私だから東京のネオンがすこしばかり眩しすぎたのは仕方がなかったのかもしれない。


やられたらやり返す、騙されたら騙して返す、そんな人の営みが普通なのよね、東京というところは。やり返すことのできない新潟越後の農耕民族の悲しいサガ。


あやつはそんなところを私に見ていたのかもね。今にして思えばだけど。




 彩たちは東京に負けたわけじゃないと言ってくれたけど、やっぱり負けたのよ、東京に、如月あゆは。それを今思い知らされてる。




彩も知っている通り私の父は去年天国に逝った。


父は母よりも誰よりも私に優しかった。母は地元越後の人で父は東京から来た人。いわばよそ者。それこそ農耕民族への遠慮が彼をそうさせたのかも知れない。母が叱って父が見守る、そんな他の家庭とは少し様子の違う構図が私の家にはあった。


母の厳しさと父のやさしさ、その中に私の幸せがあった。


そんな母が今、私ににこやかな笑顔を向けている。東京で男に貢いでお金まで騙されて帰ってきた、この愚かで、どうしようもない私に。




「何もしてやれんかったね、母ちゃんは。」


私の顔を見るなり温めていた言葉を吐き出すように彼女はそう言った。


怒られると思っていた?そうじゃない。


怒って欲しかったのよ。




「何で帰ってくるんじゃ、あゆ!こんうつけもんが!」


そう言って、2年間、都会に染まった私の薄皮を剥ぐように怒って欲しかった。


土下座してでもいいから、あなたの胸に飛び込みたかった、私の覚悟はどうすればいいん、母ちゃん。




さやか・・ 今、私の家にはそんな、いつもの母ちゃんはいないよ。


上州から越後三山を越えてくる空っ風をものともせず、凍えた大地に一人立ち、大根を引き抜いてたあの母ちゃんはいない。


私の顔色を伺いながら、私の心を気遣いながら、笑い顔をたやさない、母ちゃん。


あゆはわかってるよ、私の見えないところで泣いてるのは。だっていつも目が真っ赤だもん。

見たくなかった母の姿。けれどそうさせたのは、都落人、如月あゆ。


それを今、私は思い知らされてる。


私は東京にすべてを持っていかれた。お金も、夢も、誇りも、友達や母に向ける笑顔まで失った。


あの時は自分にはもう何もないように思えた。でも、私はここに戻ってきて、自分に残っているものに気が付きはじめている。


それは今は言えないけど確かに私のなかにある。そう思うのよ、さやか。

だから、私はここ妻有でもう一度自分と向き合ってみる、母と向き合ってみる。


すべての話は・・・それからだ。








如月あゆの手紙はそれで終わっていた。薄紅色の便せんにきれいな毛筆でしたためられたその手紙からは微かなお香の匂いがした。



「なんて書いてあったの、さやかさん?」


沢良木奈々のそんな声はもう七海さやかには聞こえていなかった。


越後の山々を見上げながら東京を思うあゆが頭に浮かんだ。



「あゆさん・・」


奈々に手紙を渡すと、さやかは朝の柔らかな日差しがまだ残る窓のほうへと視線を移した。窓辺にはほころびかけた桜の花が春の訪れを告げるように少し遠慮がちに顔をのぞかせていた。



「あゆさんの桜や・・」


あの日、あゆさんは部室の窓際にあるいつものソファに座って桜を見ていた。軽音部員ではないあゆさんだったけど、いつも彼女がそこにいることはとても自然な光景だった。


誰に声をかけるわけでもない、逆に挨拶を返されるわけでもない、ただそこに如月あゆがいるだけで安心していた、時折、思い出したように口を開くあゆさんにみんなが微笑んだ。それは軽音の日常には欠かせないものになりつつあった。


その日は午後の講義が終わって帰って来たときも彼女はまだそこにいた。


けれど何か嫌な予感がした。


暮れなずむ夕日の中で朝方より幾分ほころびかけた桜の蕾をじっと見つめながら、誰に話しかけるでもなくあゆさんはその重い口を開いた。



───ダメなんだよね、あのお金は。ふつうのお金じゃないのよ

別にお金に名前が書いてあるわけじゃないわよ、でもだめなのよ、あのお金だけは。

わかる?ねえ、さやか。

一本3円で売れる大根を2000本、毎日毎日、朝5時に起きて日暮れまで、引っこ抜いて、水で洗って、段ボールに詰める。それを一日中繰り返すの。

休みなんてないわよ、お正月とお盆だけ。

だから、いつ見ても母ちゃんの手はカサカサの真っ黒け。

でもね、父ちゃんはそんな母ちゃんの手が大好きだっていうのよ。

あれは母ちゃんの勲章だっぺって。 そんなお金なのよ、あれは。

母ちゃんと父ちゃんがそうやって私に作ってくれたお金なのよ。

あの人が使えるお金じゃない、あんな人が使うお金じゃないのよ





それから数日後、如月あゆは私たちの視界から消えた。


何日たっても、その窓際のソファの主は現れることはなかった。

今、そこにはあゆさんのセーターが置いてある。私がもらったレインボーカラーのスヌーピー。いつかあゆさんが帰ってくることを願って。





「さやかさん、あゆさんを助けてあげないとダメだよ」


突然、奈々が震える声でそう言った。


「だって、助けてほしいって書いてあるじゃん、あゆさん」


「奈々・・」


彼女の端正な顔がゆがむ、訴えるような眼は少し潤んでいるようにも見えた。

いつも、輪の中では口数の少ない沢良木奈々。でもみんなをいつも優しく見守るその顔は仄かな母性さえ感じさせた。

発言は少ない分、口を開いた時は必ずと言っていいほど的確な答えを返してくる、そんな子だった。



「ちょっと貸して」


奈々からひったくるようにして、薄紅色の便せんを取り上げた。

分からなかった。

あれほど理解していると思っていたあゆさんの心が読めていなかったのか。


何度も何度も読み返す、便せんに残った小さなシミまでも食い入るように見つめた。読み返すうちに越後のまだ雪深い春の湿った空気さえ目の前に漂うのを感じた。そこに見えたのは彼女のわずかに残った心の絆、そして私達への想い。


あゆさんがこの手紙で私に伝えたかった事、言おうとしても言えない事、それがおぼろげながらも分かったような気がした。



「やっぱり、取り戻してくる」そう誰ともなく呟いた時、

奈々が驚くような声を上げた。



「あっ、鞘師璃子だ」


振り返ると窓の外に璃子が見えた。いつものようにヘルメットを目深にかぶり顔をタオルで覆うようにしてこちらに歩いて来ていた。


やたら大きい黒い瞳とぎらつく目の輝きが彼女が彼女であることを主張する。



「ここに来るみたいですよ、さやかさん」


こんな形で璃子と出会うとは思ってもみなかった。一生交わることがないような相手、私には無縁の存在、そう思っていた鞘師璃子。


あゆ、雪、莉音、そして璃子とわたし七海さやか、五人の飛べない翼が、今、重なり合う。

思えば、私達の青春最終章ともいうべき蒼い時が、この時から始まっていたのかもしれない。















                      




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