雪と莉音、それぞれの性
ウグイスが奏でる春の歌声を聞いていた。耳を澄ませば近くを流れる渡良瀬川の水音まで聞こえるような気がした。時折、校舎の間を駆け抜ける風の音が耳障りに感じる程、辺りは静まりかえっていた。
「うちらの大学ってこんなに静かだったんだよね」
莉音の声に私は小さく頷く。
「でも私たちの大学じゃないって気もする」
大学のなかにはいろんな音があって良いと思う。軽音サークルの歌声、吹奏楽の笛の音、時折ひびく体育会系の男の子達の嬌声。そして私のなかでは、あの途切れることのない拡声器の叫び声も入っていた。私たちの大学がこれで正常というのなら、私は逆に大学の非日常を今、痛切に感じていた。
大学から姿を消したあの人たちと私たちがどう違うのか、以前彼女はこう言っていた。
「一緒だよ、鞘師もあなた達も。全然違わない。入る時に同じ考えで、出ていく時もまた同じところを目指して出ていく。4年間やってる事が違うだけ。どう、一緒でしょ、私達って」
「なんて言ったかな、あの人?」
「璃子のこと?」
「うん、そう」
彼女とはしばらく会っていなかった。あの浅間山荘の事件以来、学内でのシュプレヒコールはピタリと止んだ。我がもの顔に通りを占拠していた立て看は撤去され、見違えるようになった学び舎の間には、璃子たちを嘲笑うかのように桜の花が咲き始めていた。
「鞘師璃子・・・」
「そう、鞘師さん。見ないですよね、この頃」
「・・・」
「警察に捕まっちゃったとか」
「んな訳ないでしょ、何にも悪いことしてないもん、璃子は」
「ですよね。命の恩人ですもんね、ゆきりんにとって、彼女は」
「・・・」
「ゆきりんさん・・・?」
「・・・・」
「大丈夫ですか?ほんとに」
「・・・」
別に璃子を思って黄昏てたわけじゃない。彼女は私たちが心配するほど軟じゃない。わたしたちが忘れたころに、ヘルメットとマスクの間から、あのやたら黒い大きな瞳をぎらつかせながらやって来るに決まってる。「鞘師がいないとダメなんだよ、うちの大学は」 なんてことを言いながら。
私の心をざわつかせているのは、今横にいるこの人。
「なんですか? なんかついてます、私の顔に」
「莉音・・」
「も~、なんなんですか、いったい?」
「ほんとに昨日の晩のこと覚えてないの?」
「だから、さっきも言ったじゃないですか、バイトで徹夜明けだったから熟睡してたって。」
「ほんとに?」
「逆にこっちから聞きたいぐらいですよ、地震でもあったんですか?」
莉音はそう言って唇を尖らせると、残り少なくなった三角パックのコーヒー牛乳をチュルチュルとわざと音をたてて吸って見せた。
「なら、いいわよ」
そんなはずはない、確かにあの時私は聞いたんだ、莉音の声を。
暗闇の中、かすかに寝息をたてる莉音。風呂上りの石鹸の香りに少しためらいながらも、私はそっと彼女の背中に体を寄せた。窓から差し込む月明りだけを頼りに莉音の唇を探し当てる。布団の擦れる音さえもどかしいなか、彼女の微かな吐息の乱れを感じる。すべてはこの闇の中だけの出来事、それでいいのよ、莉音。そう、彼女の耳元で囁いた。頬を重ね合わせようとしたその時、小さな呻くような声を私は確かに聞いた。
「ゆきりん・・さん?」
二人の間を長い沈黙が包む。遠くで猫の鳴き声が聞こえた。目覚まし時計の秒針の音だけが響く深夜の静寂。気が付けば、目に染みるほどの月明りが彼女の横顔を照らしていた。そして何事もなかったように、莉音は微かな寝息を再びたて始めた。それが昨日の夜の出来事。
「次のゼミ出るの?」
「うん、ちょっとここのところ出れてないから、今日は行かないと」
「そう」
「ゆきりんさんは?」
「アパート戻ってちょと寝るわ、昨日寝れてないし・・」
「・・・」
「じゃあね」
心臓がバクバクと音を立てていた。それはさっき、飲み込んだコーヒー牛乳を押し返すほどの勢いで私に迫ってきていた。
そう、私は寝てなんかいなかった。薄明りの中、忍びよる彼女に身をすくめるようにして、ただ時が流れるのを待っていた。彼女と寄り添って寝るのは昨日が初めてじゃない。寂しがりやのゆきりん、同じアパートの同じ階に住んでるのに、度々、布団を持って私の部屋に現れた、 「今夜いい?」そう言いながら。
「今夜も行くね、また神経衰弱でもやろ」
彼女はそう言って、桜並木の向こうから手を振っていた。
「うん」
彼女の笑顔が、まだ収まろうとしない私の心臓の鼓動に拍車をかける
今夜また、あんなことがあったらどうしよう。
やめてください、なんて言えるわけない。
神経衰弱やりながらずっと起きてる訳にもいかないし。
「だめよ、莉音、ゆきりんに入りこんじゃあ。今、あの人は私たちと見てるものが違うんだから」
あゆさんの残した囁きが今になって分かったような気がしていた。
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