薩摩おごじょと富士の空
「なにやってんの、樫脇!そんなボールも取れないの、あんた!何年バレーやってんのよ!」
いつものように体育館に響く先輩たちの怒号を私は聞いていた。
(取れんとこばっかりに打って、そぎゃんこつばして何になっとや)
誰にも聞こえることのない故郷、熊本の言葉。心のなかで何度叫んだか分からない。
こんなはずじゃなかったのに。
この二年間、そんな言葉を呟かない日はなかった。
東京は怖いところ、だからしっかりとした仲間を作らないとダメ。
――― いいね、雪。毎日体を動かしちょっ人には悪りい人はいねえ。
じゃっで、芸術とか音楽とかそげなことに現を抜かしちょっ人はろくなもんじゃね。汗を流せばいいとよ、みんなで。そうすりゃあ良かことも悪りかこともみんなで共有出来(でく)っ。喜びや悲しみを分かち合えばあんたの学生生活は上手くいくはずじゃっで
そんな薩摩の母の理想論はこの大学に来て1ヶ月もしないうちに打ち砕かれた。
体育会系=好い人、そんな図式をここ東京では誰も見ていない。
スポーツをやっていること自体、彼女たちの一種のファッション。
服や宝石で身を飾るのと同じように彼女たちはボールに興じ汗を流す。
喜びは自分だけのもの。他人の悲しみは遠くからしか見ない。
鹿児島では道端で泣いている子がいるとその回りに人垣ができる。
けれどここでは雑踏で泣き濡れた子がいるとそこだけぽっかりとした空間が出来上がる。
人と人との距離があまりにも遠いこの街。それが都会で生きること。
それが東京流というのなら、それに染まってしまうのも一つの方法だったのかもしれない。
でも人が好きで、泣いている顔を見れば自分のことのように悲しくなりどんな小さな喜びにも笑顔で返さずにはいられない。そんな私のなかに脈々と流れる薩摩おごじょの血はいかんともしがたく。
素直になれない自分がいた。もっと自然体が良かったのかもしれない。
変な意地の塊が東京への憧れと嫉妬がごちゃ混ぜになっためんどくさい私のプライドが邪魔をしたのかもしれない。
気がつけばもう私の周りには誰もいなかった。
「やめればいいのに」 「なんでいるのあの子」
そんな声とずっと戦った二年間だった。
でも、そんな2年も続いた貴女達との根競べも今日でおしまい。そう、あなたたちから見たら私は逃げ出すのかもしれない。
笑いたければずっと笑ってればいい。でも私はあなたたちのことは絶対認めない。私の少しばかりの夢と希望を毎日毎日、潰していった貴女達のことを。
それは驚くほどあっけないものだった。
「今日でやめます、部長」
メンバーたちは誰も振り返りもしなかった。
「結局、やめるのよね」勝ち誇った声が飛び交う
薄笑いと嘲笑が私の無防備の背中を襲う。
狭い部室に髪の毛をブラシですく音だけが静かに響いた。
「やっぱり気持ちはかわらないの? そう・・残念ね。 まぁ、大学生活まだ先長いし、頑張って」
鏡を見ながら、目も合わせずに彼女はその一言で片づけた、私の2年間を。
思い返せば、コイツが入学式の時に声をかけてきたのがそもそものボタンの掛け違い。
可愛い子を自分の側女みたいに傍らに置く、そんな女子の体育会系ではありがちな光景には反吐がでた。
私達がしたいのはバレーボール、身の回りの世話ならマネージャーがいる。
そう部長に直訴した。しかし、どうも、それは創部以来誰もすることがなかった”快挙”だったらしい
あくる日から、待っていたのは、お約束の追い出し。
来る日も来る日もボールを拾っては磨く日が続く。2年になっても試合に出してもらえない毎日。
それでも負けないつもりだった。あの一言があるまでは・・
「あなた、手首に傷あるよね。 繰り返しちゃうのよね、あれは」
全身の力が抜けていく。
守り続けていた最後の自分が音を立てて崩れたのがその時。
「お世話になりました」
静まり返る室内に向かって頭を下げた。何か嫌な予感がした。胸の息苦しさが増す。はやくこの場を逃れたい、そんな気持ちだけが募る。
部室のドアを閉めたと同時に、後ろで笑い声が弾けた。手をたたく音さえ聞こえる。
心の中で何かが引きちぎられる音を聞いた。なんのためらいもなく閉めたドアを再び開ける私がいた。
それからの記憶ははっきりとしない。けれど、恐らく、私のなかの薩摩おごじょの本性がそこで爆発したことは容易に想像できた。
そのあと何人かが私の前を通り過ぎたのを覚えている。誰かに何かを言われたのかもしれない。気が付けば私は校舎の屋上にいた。霞がかかる、この時期には珍しく富士山が浮かび上がるように目に映った。
「きれい・・」
吸い込まれるように手すりへと向かう。手を伸ばせば届きそうな表富士を身を乗り出すようにして見上げた。
思えば,その時、私は悪魔に魅入られていたのかもしれない。生きてることをわすれたような不思議な感覚、死ぬことがたやすく思えた初めての瞬間。
「ちょっとあんた、なにしてんのよ!」
その声の大きさに心臓が再び動き出す。
時が止まるのを感じた。体が硬直して前にも後ろにも動けない。手すりを持つ左手。かろうじて右手だけが私の命令に反応する。ゆっくりとその手を声の主に向かって後ろ手にあげた。「たすけて」 けれどその声は声にはならない。
「わかったわ、動けないんだね」
そう言って、彼女は音もなく近づくと手すりから半身を乗り出す私の身体を、体を重ねるようにして回り込み、内側に体ごとねじ込んだ。
コンクリートの床を重なり合い、転がりながら倒れこむ。思わずうめき声が漏れる。しばらくの間、抱き合ったまま動けない二人。お互いの生の鼓動を確かめ合う時間がしばらく続く。遠くで誰かが笑っていた。
カラスの鳴き声と木々のざわめきにさえ心が敏感に反応する。さやさやとそよぐ春の音まで聞こえるようだった。
「怪我ない?」
「う、うん・・」
「あんたが、ジュリーか三浦友和なら、ずっとこうしていたいんだけどね」
目の前に黄色のヘルメットにタオルが見えた。その間からのぞくやたらに大きい瞳が笑っていた。
「あんたはどうか知らないんだけどさ、私にはこういう趣味ないのよ、残念ながら。いい加減、力緩めてくれる、悪いけど?」
「ご・・ごめんなさい」
目の周りに映るものがようやく当たり前の色を取り戻していることに私は初めて気づく。
「わ・わたし、か・・樫脇雪、仏文の2年」
「鞘師、鞘師璃子、英文の・・・」
「2年生、私とおなじ・」
「だよね、知ってるよね。」
何故かほっとしていた。お互いに小さな笑いだったけど、落ち着きを取り戻すにはそれで十分だった。
鞘師璃子、私たちの大学でその名を知らないものは恐らくいない。良くも悪くも聞こえてくるのは学連を率いる女闘争員。学内で運営側から最も注視されている人物。最近では公安からもマークされはじめたという噂も聞く。「あいつだけは彼女にしたくないよね」以前付き合っていた彼が彼女を見るたびにそう言っていたのを思い出す。
「聞いていい、樫脇・・さん?」
「雪でいいです」
「じゃあ、雪ちゃん。はじめてじゃないよね、こんなことをしたのは」
顔を覆ったタオルを外しながら、微笑みかけるその顔からは意外なほどのあどけない表情がこぼれる。
「なんで?」
わかるの、とは言えなかった。思わず手首に手がいく。
「そうじゃないよ」
そこまで見てない、彼女はそう言った。
「同じ匂いがしたのよ。私とあんた。同類相哀れむ、じゃなくて、類は類を呼ぶってやつ、アレ」
実はここは鞘師璃子のお気に入りの場所だった。いつもここでコーヒータイムを取るのが彼女の日課だった。たまにタバコを吸うこともあるけどね、璃子はいたずらっぽくそう言って笑った。
私もあるのよ、そう彼女は初対面の私に静かに語り始めた。
「それも一回や2回じゃない、いつも死ぬことを考えてる。楽に死ねる本ってあるじゃない。あれはもう鞘師の愛読書。ほんとだよ。でもね、そんなわたしでも、こうやってメットかぶって、みんなと手を組んで、訳のわからないことを叫んで歩いてたら、言いようもない力が湧いてくるの。変な薬みたいな、その場しのぎの高揚感じゃない。前に進んでることを実感できている、私達には脚があるじゃんって。夢とか目標とかそんなのは置いといて、遠くに飛べなくてもいい、しっかりと地べたを踏みしめて、みんなと歩けたら、それでいい。
そうすることでしか得られないものが必ずある、そう思うのよ、鞘師は」
「翼はいらないと言うこと・・?」
「ふふっ、急に文学少女?」
「・・・」
「でも、そうかもしれない」
だから、飛んでいくのは偉い人にまかせたらいい、私たちは翼なんていらないのよゆきりん。
そう言って彼女は私の肩を抱いた。
「ホントだ、同じ匂いがする」 思わず漏れた私の言葉に、今度は何も言わずに真っ青な春の空に向かって、璃子はただ笑った。
それが鞘師璃子との最初の出会い、そして私がゆきりんと呼ばれた初めての日。
「なにしてんのよ、ゆきりん!ビラ、ちゃんと配れた?」
「あと、3階の大講義室だけ!」
「はやくしてよ~集会はじまっちゃうよ」
「も~、璃子も手伝ってよ~」
あの日以来、私のやるべきことはまだ見つかっていない。
けれど、最近になって、あの時、璃子が言った言葉の意味を考え始めている。
「私達には脚があるじゃんって。夢とか目標とかそんなのは置いといて、遠くに飛べなくてもいい、
しっかりと地べたを踏みしめて、みんなと歩けたら、それでいい。
そうすることでしか得られないものが必ずある、そう思うのよ」
夢へ飛ぶことだけがすべてじゃないことを苦しみの中から私は知った。
到達点が重要ではなくそれまでに見える景色が大切、それを璃子から教わった。
だから私達にはもう翼なんかいらない。
鞘師璃子の背中は今日もそう叫んでいるように思えた。
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