翼はいらない1972
マナ
序章
「帰ったら一週間もしないうちに初雪が降るんだよ、越後妻有は。」
───送って行行きたい、このまま一緒に。このあずさ2号に乗って・・
そんな衝動を私は抑え切れずにいた。
言葉にはならないそんな私の想い。
けれど・・
「嬉しいけど母ちゃんの泣くとこ見せたくないし」
あゆさんはいつもと何も変わらず、顔に笑みさえ浮かべてそう言った。
「何も変わらないよ、あなた達は。私がいなくなっても」
彼女はいつもそう。自分の存在を否定したところから話しを始める。
心ではこれっぽっちもそんなことは思ってないくせに。
「誰も来ないね」
「言うてないねんから、来れるわけないし」
「そうね」
「言わないでって言うたんもあんたやろ」
いつもの会話いつもの言葉
この人が見ているものを私達はいつもその瞳で推し量ってきた。
その言葉で惑わされてはダメ。
如月あゆから出る言葉は単なるあくびとそんなに変わらない。
「これはさやかが持ってて」
それは手元に一冊しか残っていないはずのあゆさんの詩集だった。
「取りに帰って来るから・・必ず。だから持っててさやかが。」
扉が閉まるまでの数十秒、その詩集を握りしめたまま私はもう何も言えなかった。
平日の午後の人気の少ないホームに発車のベルが鳴り響く。
―― 東京に負けたんだよ、結局私は。男に騙されたなんて思っていない。
この街では化かし合いがすべて。信じたほうが負けなのよ。
本音やないのは分かっていた。
この人が悔し涙を流した夜は一度や二度やない事を私たちは知ってる。
「泣いたらあかん、あゆさん」
「さ・や・か・だ・よ 泣・い・て・る・の・は」
聞こえるはずのないガラス越しの向こうに、伝わるはずのない声が届く。
あゆさんがつくった精一杯の笑顔も涙で滲んで見えなかった。
夕日が東京駅のすべてをセピア色に染めていた。
詩集の間に挟まれた一通の手紙、桜色の便せんからはいつものあゆさんの匂いがした。
──── さやかへ、泣いてなんかないよ、私は
あゆの涙は泣かない涙 そう言ったのはさやかたちじゃない
幸せをつかむまで、もう私は泣かない
一晩中泣きぬれたあの夜にあなた達の前で誓ったのは嘘じゃない
そう、私は東京に負けたわけじゃないんだ
莉音、雪、さやか、みほ、しずか
そのことを教えてくれたのはあなた達
私はすこし生き急いでいただけなんだよね
私の夢 私の笑顔 それはちょっとの間、みんなに預けておくよ
私が何処にいようと、あなた達が何処で歌っていようと
その詩集があなた達の手元にある限り
きっと私は戻って来れる
今は笑うことさえ忘れてしまった私だけれど
いつか きっと笑って見せる、あなた達のまえで
急ぎすぎたときはもう振り返らない
だから自分の脚でしっかりと歩むことを私は選ぶ
もうわたしには
翼はいらないんだよ、さやか
あゆ
※※※
それは二年前のこと・・・
真新しい学び舎が建ち並ぶなか、入学式の行われる会場はその場には似つかわしくない、かなり古びた蔓の絡まるビザンチン様式のとんがり屋根の教会。
ドーム天井一杯に張り巡らされたステンドグラスが麗らかな春の陽射しを受けて、目に眩しいほどの色とりどりの鮮やかな光を放っていた。
北多摩総合大学は数年前にできたばかりで、奥多摩山脈の裾野の丘陵地に帯状にキャンパスや校舎が並ぶ。
総合大学といっても芸術音楽系学部が半分以上を占める、実質、芸音大学といってもいいような大学。なのでそれなりに女子の数も多い。
新入生の総数は1000名余り。男子と女子の割合は7:3ほど。さほど大きくはない教会の内部は、ヨーロッパの小都市にはどこでも見られそうなこじんまりとした造りになっていて、一階が男子学生の会場。そして一階のフロアをぐるりと取り囲むように設けられたのが二階の女子席。
ちょうど一階にずらりと顔を並べた男子達を高見の見物よろしく二階から品定めする女子達の構図ができあがっていた。
「ちょっとちょっと、そんな通路の真ん中に立ってたら邪魔だから」
その二階に上がるなり「女子なの?」と言わんばかりの、係員のお兄さんの目線にさやかは一瞬ムッとする。
「ずっと女や、生まれた時から」
聞こえるか聞こえない程度の声でそう言ってみる。
ショートカットヘアにラングラーのブルージーンズ。足元はホワイトがグレーに変わりつつあるアディダスのバスケットシューズ。
その上に背中一面にお気に入りの虎の刺繍が入ったスタジャン。
入学式に不釣り合いなのは百も承知。けど何かを狙って来た訳じゃないし。これが私の今現在の正装、というかこれしか持ち合わせてはいない。
「もう席が空いてないから、一階の空いているところを探してもらえる?」
そんなお兄さんの声には一瞥もくれず、私は辺りを目を細めて見回す。確かにもう満席状態。まつげのやたら長い、メイクにこれでもかというほどに力を入れた女子が周りを埋め尽くす。そしてむせ返るようなさまざまな香水がまざりあった匂い。
「やっぱりここは東京なんや」
にわかに気づかされる我が身の大阪ローカル色に少し身構える。自分のあまりの女子力のなさに柄にもなく少し心が折れそうになる。そんなものは大阪にとっくに捨ててきたはずなのに。
東京という街は本当にわからない。道を聞いてもみんな何事もなかったかのような顔をして目の前をとおり過ぎていくし、だいいち笑ってる人と怒ってる人、そしてそうでない普通の人。その区別さえ良くわからない。目を凝らしてよく見ればわかるんだろうけど私の眼にはみんな同じように見えて仕方ない。
この大学でもそれは変わらない。おそらく新設の大学で東京の地元の学生が多いということもあるのだろう。
視線は痛いほど感じるのに目は合わさない。顔を向けてもそれを微妙に外してくる。
お前はこの街にふさわしい人間なのか。まるでこぞって値踏みをされているかのよう。
「なんでやねん」
今日の朝、東京駅に降り立ってからその言葉何度呟いただろう。
ここはやっぱり大東京、淘汰される人間だけが昇っていける社会。そこへ私はやってきた、夢をかなえるために、ギターだけを携えて。
「えーそれでは次は多摩市議会議長の佐藤様に・・・」
気がつけばまだ壇上では私たちの存在など忘れたかのように、どこかのお偉い大人たちのスピーチが終わることなく延々と続いていた。
「もうええやろ」
気がつけば、誰に告げるでもなく私はそう呟き席を蹴っていた。
「君!」
お兄さんの心地よい叫びを背中で聞きながら。
※※※
外に出ると、石畳が敷かれた中庭が目の前に広がる。
子供の背丈ほどのレンガ造りの苔むした塀がぐるりと周りを取り囲む。振り返ってよくよく見上げるとまるでディズニー映画のアニメにでてくるような人の温かみを感じるような建物の姿に何かほっとする。 大学のなかに足を踏み入れた時から漂っていた新しい建物特有の塗り立ての塗料やシンナーの匂い、そんなものがここでは全然しない。漂っているのはどこか懐かしい朽ちていくものだけが持つ芳醇な香り。この教会が移築されたものなのか、それともここに元からあったものなのか。どちらにしてもこの大学を建てた人の何かしらの想いを感じてしまう。
新しいものと朽ちていくものの融合。古いものを温め新しきを知る。これも今の東京の姿なんだろうか。
奥多摩の木々の間から抜け出てくる春の息吹を思いっきり吸い込んでみる。
頬っぺたをパンパンには膨らませて酸素が脳の隅々にまでいきわたるのを待つ。そして東京に来てから今までずっと溜まっていた物を吐き出すように叫んだ。
「東京なんや。ここは紛れもなく」
私は東京にいる。大東京に確かに足を地につけている。
そう叫んでみた。
「そうよ、ここは紛れもなく東京よ」
春の乾いた空気のなかに弾むようなメゾソプラノの声が背中に響く。
えっ、と思った時にはもう振り返る必要はなかった。
もう如月あゆは頬と頬がくっつくぐらいの近さにまで私との距離を詰めていた。
「東京なんだよね、どこもかしこも。嫌になるくらい東京なんだよね」
彼女はそれだけ言って春の光のシャワーを浴びるように青空に向かって目を閉じた。季節外れの、まるで触れれば溶けていきそうな淡雪のような肌が目の前にあった。
そんな彼女があまりにも眩し過ぎて何故か私も一緒に目を閉じる。
辺りに漂う春の盛りの桜香と彼女から甘くほんのり匂うバラの香りに柄にもなく私の心は躍った。
私は確かに東京にいる、その時そう思った
それがあゆさんとの出会い。。
「ずっと見てたのよあの時、あなたのことを」
後に如月あゆはそう言った。
────開始から30分も遅れて入ってきたくせに、席がないって大声で叫んでる、そんな声は聞こえないけど雰囲気で分かった。呆れて手を広げ首を振る係員。じゃあここでいい、足で床を踏みつけるようにしてさやかはそう言った。 その言葉だけは離れていてもはっきりわかったの。
そしてあなたは荷物を置いてちょうどホールの真ん中の通路に体育座りで座り込む。周りの視線が集中しても何も悪びれることなく前を向いてた。
その眼はキラキラというよりぎらぎら。でもわたしの周りでは見たこともないような輝きだった。
この人と友達になろう、その時そう思ったの。
あの眼のなかにあの瞳のなかに入れたら、もしかしたら私はここで生きていけるかもしれない。気持ち悪いよね。
でも私はほんとうにその時そう思ったのよ。
あゆさんが私の前でこれほど饒舌に喋り切ったのは後にも先にもこの時だけだった。
そして・・・
「下宿一緒に探しに行かない?」
知り合って、まだ5分も経っていない同士の会話じゃなかった。
「なんでわかるんですか?住むとこ決まってないって」
「ボストンバッグとギター背負って入学式に出る女の子が東京に住んでるなんて信じられる? それにあんた・・大阪弁やで 」
その笑顔に一緒に笑ったけど、瞳のなかの彼女は笑っていないのを
私はその時から・・知っていた。
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