第2話

 実際のところ、相良賢一郎の野球歴が一年半というのは不正確だった。

 新聞記者の一条は、クリスが明豊に連行されていってからも独自に調べてくれていた。

 五月上旬、クリスはゴールデンウィークに朝から山奥の明豊に車で迎えにきてもらい、高知の街へと降りていく。

 目的地は市内にある野球場だ。そこで、大須高校が練習試合をやるとのことで、観戦しにいくところだった。

 移動中に一条から、賢一郎に関して詳しく教えてもらう。


「クリスくんは知らないでしょうけど、県の東部に畑木村ってところがあるんです。いまの世代が過ぎたら消えてしまう過疎地域。そこが、賢一郎くんの出身地です。国虎くんの言ったとおり、少年野球のチームもなく、中学には野球部もありません」


「じゃあ、やっぱり初心者だったってことなん?」


「いいえ。村としても、子どもたちがなんのスポーツにも触れられないというのは教育的観点から見過ごせないということで、体験教室みたいなのをやるようになったんです」


 車の中に資料があった。

 その畑木村の自治体が発行している広報で、体験教室の光景も印刷されていた。

 老人に混じって小さな子どもがバットを握り、軟球を打っている。のどかであるが、衰退というものをまじまじと見せつけられた気分だ。

 その体験教室で教えている人物に関して、簡単なプロフィールが載っている。体育大学で専門の理論を学んだあと高校野球の監督をやっていたらしい。地元民ではないが、十余年前から移住してきているとのこと。

 三好吉秀。でっぷりと太った中年で、達磨を思わせた。

 クリスは自分のスマートフォンで三好の写真を撮る。


「監督に全部知らせろって言われてるんで、かまわんでしょ?」


「ええ、その冊子を持ち帰ってもいいです。その三好という人が、幼い賢一郎くんにバッティングのいろはと野球の技術を教えたんです。キャッチャーの技術も。去年の秋季大会での活躍で、インタビュー記事が掲載されてまして、どういう指導をしたのかが書かれてました。大須高校との関わりも」


「大須高校との関わり?」


「野球部に訪問して、不思議に思いませんでしたか? 指示もなにも、キャプテンの国虎くんが出していたでしょ。あの学校、指導者がいないんですよ」


 ああっと、クリスは車の天井を見上げた。

 大須高校は一回戦負け常連校だった。過去の試合の記録も見せてもらったが、コールド負けばかりで、まともにストライクを取れるピッチャーもいなかった。指導者がいたらそんなことになるはずもない。

 何度か、国虎とは電話で話したことがある。そのときにどうして大須に入ったのか教えてもらった。

 彼はまったく隠そうとせず、正直に語った。


『全然野球に本気じゃなかったからだよ』


 本気であったら明豊でなくとも他の強豪にいく。

 中学のころから野球をやっていたが、顧問は熱心なだけで指導方法もろくすっぽ知らない男で、技術も上がらなかった。


『なもんで、大須で続ける気はなかった。ところが、見たんだよ。あいつのスイングを。賢一の、スイングを。あれを見たら、本気になるしかないだろう』


 しかし、いくらなんでも指導者がいなければ成長はできない。独学では無理だ。

 ということは、


「この三好って人が、大須を指導してたってことなんか」


「はい。キャプテンの国虎くんに教えてもらいました。彼も、この人にフォームを矯正され、変化球を教わったんです。その他の部員も。実質的に、この三好さんが大須の指導者ですね」


 幸運だったのかもしれない。

 仮に、顧問が熱心であったりOBが頻繁に口出ししてくるようなところであれば、いくら弱小でも部外者に指導は許さない。部員が勝手にやっていても、だ。中学時代の友人の何人かはそういう高校に進んだが、めいめい愚痴をこぼしていた。


「で、その、三好さんいう人に取材はしたんやろ?」


「難色を示されました。どうも、この三好さんはマスコミが大嫌いなようでして。クリスくんのことを話すひまもなかったです。何度もトライしますけどね」


 高校野球の元監督ならわからなくもない。

 マスコミはスターを褒めそやすが、疵が見つかったら一転、総叩きに入る。相手が高校生でも容赦なし。強豪校であれば、甲子園辞退なんて切腹をしなくては終わらない。忘れてはならないが、一条もそういう組織に属する人間だ。

 その三好という人物が敬遠するのも自然なことだった。

 市内に入る。昼前になってしまった。日曜ということで車も多く、人も多いが、クリスの地元大阪ほどではない。密度が少なく、騒がしくなく、居心地が良かった。

 球場にはすぐ到着した。古びているが広く、頑丈な造りだ。たかが練習試合なので観客などいない。駐車場もガラガラだった。

 クリスと一条は観客席に上がる。試合は七回の表、大須の攻撃だった。

 ランナーは二塁。打席には国虎が立っている。ワンアウト、ツーストライク、ノーボール。

 適当なところに座ると、一条が話しかけてきた。


「クリスくんならどうします? この状況」


「国虎が相手やったら、そうやね。内角高めにストレートのボール球、その後、外角低めにストレート。引っ掛けてツーアウトやね。つっても、本山ちゃんが配球を決めるんやけどね」


 実際の試合のほうはというと、甘く入ったストレートを国虎はセンター前に打ち返した。ワンアウト、一塁、三塁。

 次のバッターは、太く、分厚く、大きい男だった。

 足が太い。

 腰が太い。

 腹が太い。

 胸が太い。

 腕が太い。

 背中と肩と首が太い。

 全身が太く分厚く、大きい男。

 相良賢一郎が、そこにいた。

 賢一郎は秋の対戦から変わっていない。大仏を思わせる穏やかな顔つきに、巨人のような体格。いや、より成長している。大きくなっている。パワーを付けている。

 ごくりと、気づかぬうちにつばを飲んだ。

 僅かな動きも見逃さないよう、クリスは目を凝らしていた。

 一球目、外角に大きく外れるボール球。

 二球目、ゆるく曲がるカーブ。これもボール球。

 三球目、内角にストレート。

 際どいコースだが賢一郎は打った。

 打球は、ライト前にぽとりと落ちた。


「――なんじゃそれ」


 記録はもちろんヒット。

 三塁のランナーはホームイン、一塁の国虎は二塁に止まった。

 見事なヒット、といえるだろう。賢一郎はトスバッティングもまともにできなかったとのことだった。

 現在はヒットを打てたのだから、それよりかはマシになったと言える。


 ――わけがなかった。


 一条はスイングする賢一郎の写真を撮っていた。それを見せてもらう。


「……秋より、こう、その、あれですね」


「言いたいことはわかる。俺も同じや」


 クリスの腹に、熱が生まれた。黒い、重い、ヘドロのような熱。

 試合が進む。八回はあっという間に終わり、九回。再び相良の打席が回ってきた。

 今度はランナーがいない。思い切り振るべきところだが、ここでも変わらなかった。

 相良は、その巨体でありながらバットを短く持って、ボールをしっかり見て、パカンと当てた。レフト前へ転がして一塁でストップ。

 ここでクリスの腹に生まれた熱が全身へ回った。

 理性が消し飛んだ。


「ふっざけんなてめぇ――――!!」


 それは激怒だった。

 それは憤怒だった。


「てめぇがやるべきことは――、フルスイングやろが!」


                ○


「考えるな、フルスイングだ」


 恩師の三好にもくどくど言われた。

 相良賢一郎は野球が好きだったが、試合などしたことはなかった。

 高知は山ばかり。海沿いにしか街はない。彼の生まれた畑木村も山間部にあって、緑に囲まれた土地だった。

 都会の人間は豊かな自然、清潔な空気というが、賢一郎にとっては閉塞感しかなかった。

 同年代の子どもは十人もいない。上級生は高校に上がると、盆と正月くらいしか帰ってこなくなり、卒業すれば外で就職するものばかりだった。

 そりゃあそうである。携帯電話はこの時代になっても圏外であり、インターネットはかろうじて通じているがADSLではなくISDNで速度は鈍亀。仕事といえば農家か狩猟くらいだ。

 なによりも厳しいのは、世界が閉じていること。流行りの本も音楽も映画も知らず、特別な才能があっても活かすこともできない。

 それでも、賢一郎は幸運だった。

 自治体が招聘した三好吉秀。達磨のように太った壮年の男に野球を教えてもらったからだ。

 キャッチボールから始まり、フライの捕り方、ゴロの捌き方なんかも教わった。最初はピッチャーがやりたかったが、三振に仕留める相手もいないので、打つ方に集中した。

 三好は言った。


「お前は身体が太いからなあ、どっしりと構えたほうがいいだろう」


 素振りをした。トスバッティングをした。

 走り込みや筋トレと言った基礎トレーニングも欠かさなかった。

 中学に上がれば食事メニューについても助言されて、より身体を太くした。

 なかなか飛ばない木製バットでも練習し、スカーンと打つのが楽しかった。


 しかし、ついぞ野球の試合なんてものはできなかった。


 頭は飛び抜けていいわけではなかったが、そこそこ勉強もできていたので定員割れの大須高校に入って、迷わず野球部に入部。

 今度こそ試合ができると意気込んでいたが、事前の下調べをすべきだった。

 学校選びは大失敗だった。

 大須高校野球部の練習は週三日。一日二時間もやれば長い方で、監督はお飾りでろくに指導もしない。先輩たちはだらだらと過ごしていて、各々勝手に練習している。

 常に誰かしらサボっており、時には練習日なのに誰一人出てきていないなんて日もあった。

 賢一郎も特に指導をされることはなかった。好きにやっていいよ、くらいなもの。なので、自分で勝手にやることにした。

 彼がやったのは素振りだった。素振りくらいしかやることがなかった。

 よく晴れた日も、曇天の日も、雨の日も、自分の後悔を殴り飛ばす勢いでバットを振り続けていた。

 そこに、安芸国虎が現れた。


「――なんっでこんなところにやってきてんだ!!」


 彼も激怒していた。

 国虎は賢一郎のスイングがいかに素晴らしいかをとうとうと語った。こんなところにいるべきじゃない、さっさと転校しろと。明豊を始めとする強豪校にいって力を振るうべきだと。

 そんなことを言われても、困る。

 野球のために転校するだなんてのは想像できない。そういう発想が理解できない。


「があああああ! わ、わかってない、こいつ、自分のことを全然わかってない! くそ、むかつくなこいつ!」


 国虎は怒りながら監督に入部届を提出し、即日、賢一郎の相手となった。

 相方というのが正しいのかもしれない。国虎はバッティングピッチャーとなり、賢一郎にボールを打たせた。

 当初、賢一郎はおっかなびっくりだった。

 バッターボックスに立って、マウンドに立ったピッチャーと相対する。テレビでしか見たことがない状況に、心がついていなかった。

 一球目を見逃すと、国虎が本気で怒る。


「ちゃんとやれ! 素振りをしていたときのように、振れ! フルスイングだ!」


 フルスイング。素振りでは、できた。バッターボックスでは、できなかった。

 国虎は喉が張裂けんばかりに叫んでいた。


「集中しろ、集中! 思い切り、なにも考えず、打て!」


 二球目、まだフルスイングができなかった。

 三球目、芯が外れた。

 四球目、打った。

 フルスイングで、真芯に当てて、振り抜いた。

 快音が響き、打球は空高く飛んでいった。ホームランだった。学校の外に落ちないように、高くネットが張られているが、それも越えていってしまった。

 それを見て、国虎は全身を震わせていた。ぐすぐすと涙さえ流していた。

 ちょっと気持ち悪いなと賢一郎は距離を取っていたが、その心情に気づかずに国虎は詰め寄ってきた。


「お前は最高のフルスイングを持ってるんだ! それでいけ! いくんだ!」


 賢一郎をほったらかして一人、燃え盛っていた。

 しかし、嬉しかった。

 フルスイングをすること。ボールを打つこと。

 一人でやっていたのが、二人になったこと。

 誰かに望まれるということが嬉しく、楽しかった。

 といっても、上級生たちや監督は彼らに興味はなく、試合にも出してもらえなかった。

 国虎はそのことでも憤っていた。監督に詰め寄った。


「なんで俺はともかく、賢一郎を出さないんですか!」


「三年生は最後の夏だからな。出させてあげないといかんだろ」


 国虎はキレた。殴りかかろうとしたが、寸前で賢一郎が止めた。

 国虎の練習相手になるために、自然と賢一郎はキャッチャーになった。だったらと、休日は国虎を連れ立って実家に戻り、三好に指導をしてもらった。

 三好は国虎を見て、呆れてしまった。


「びっくりするほどガタガタだ……」


 このとき、国虎は全然怒らなかった。むしろ、感謝していた。


「ありがとうございます! 教えてください、投手を! こいつを、甲子園に連れていかなくちゃならんのです!」


 そうこうして一年と半年が過ぎ、最上級生となっての秋季大会がやってきた。

 国虎も一年生たちも士気は最高潮。全身に力がみなぎっていた。


「いくぞ! いくぞ! いくぞ! お披露目の、始まりだ!」


 このときにはすでに大須高校のスタイルは固まっていた。

 守備でエラーをしない。際どいダブルプレーではなく、確実なワンアウト。

 打撃は、繋ぐ。

 繋いで、繋いで、繋いで、賢一郎で大爆発。

 日々の練習や試合前の円陣で、国虎がよく吠えていた。


「うちの野球はロケットだ! 賢一をどこまで飛ばすかだ!」


 一回戦、二回戦、準々決勝と圧勝した。

 賢一郎も調子がよかった。ホームランを量産して、打点を積み上げていった。

 準決勝、優勝候補の明豊との対戦だったが、負ける気はしなかった。国虎も、一年たちも、勝つつもりで試合に望んでいた。

 序盤、賢一郎も気分が乗っていた。

 三者凡退にさせられて、二回裏の先頭打者として回ってきたとき、体の芯から熱くなった。

 明豊の投手は評判のクリス・ロビンソンではなく、名前も知らない控えであったが、これまでの相手と比べ物にならなかった。明豊でなければどこの学校でもエースを張れるだろう。

 甲子園レベルの投手だった。

 実力が高い。鋭いストレートにキレの良い変化球を持っている。

 賢一郎は、闘争心が湧き上がっていた。

 迷わない。

 初球、外角低めのボール球をフルスイング。

 打球はバックスクリーンに直撃した。


 ――ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!


 そこで初めて、球場を包む熱気に賢一郎は気づいてしまった。

 国虎たちも、放ったらかしだった監督も異様に興奮している。

 一人だけ、賢一郎は置いて行かれたような気分になった。

 試合は進む。

 甲子園常連校、夏には甲子園で準優勝した明豊と拮抗している。その展開に、観客席の大須高校応援団の声援が唸りを上げていた。大地を揺るがし始めていた。


(なんだこれ……)


 声援を受けて嬉しいかと言えば、もちろんだと賢一郎は答える。

 親の喜ぶ姿、三好の誇らしい姿、国虎が全力でするガッツポーズ。気分が高揚していた。

 でも、あれは誰なんだろうか。

 応援席で賢一郎のホームランに拍手をしたものたちは、誰なんだろうか。

 試合は進む。賢一郎のリードに国虎は快投で応えてくれた。点は取られていったが、総崩れはしない。試合をひっくり返せる余地を残して踏ん張っていた。

 勝てる。明豊に、勝てる。

 そんな状況が、球場の雰囲気をさらに熱くした。足元で火山が噴火しているような錯覚さえあった。

 賢一郎は、気持ち悪かった。


(――なんなんだ、これは。この人たちは。なんで俺たちの試合でこんな、興奮するんだ)


 わからなかった。

 応援席にいる同級生たちとはろくに話したことがない。校長や教頭もいるが、名前すら覚えていない。向こうだってそうだろう。

 それなのに球場にまでやってきて、声を張り上げる。

 ホームランを望む。

 打てと叫んでいる。


(俺は、野球が好きだ。だから野球を始めた。国虎がいたから、腐らずに耐えることができて、ここから好きにできる。でも、なんだこの……、息苦しさは)


 賢一郎には経験がなかった。大舞台の、大勢に応援されるという経験がなかった。絶対に勝てと、命令してくるような応援などされたことがなかった。

 投手はクリスに変わる。

 打席で賢一郎は一五〇キロを超える速球に驚き、内角高めに飛んできたボールに手が出た。反射的に振った。

 負けたと確信したが、風が吹いた。

 高く上がったボールはふわりふわりと流されて、スタンドに入ってしまった。

 ホームランになった。

 歓声が爆発する。耳がキンキンした。

 いいスイングじゃあない。失敗したスイングだ。実力では全然負けていたのに、球場全体が大喝采だった。

 気持ち悪さがピークになっていた。賢一郎は、いますぐゲロをぶちまけたかった。

 試合は最終回。逆転されたが、ランナーが一人出てくれて、賢一郎に回ってきた。

 逆転のチャンス――なわけがない。

 クリス・ロビンソン。右は一五〇キロ台の速球、左は多彩な変化球。加えて、夏には明豊を甲子園決勝にまで進ませたという『格』がある。

 エースだ。とびっきりの。

 賢一郎は思った。


(追い詰められているのはこっちだ。なのに、なんでもう勝ったみたいに騒いでいるんだ)


 彼の体と心がチグハグになっていた。

 秋季大会準決勝、九回裏、ツーアウト。

 その時点で、賢一郎はまともにバットを振れる状態ではなかった。

 結果、平凡なフライに終わる。

 試合は負けた。

 恥じるものではない。明豊と一点差なんていうのは立派な成績だ。一回戦敗退が常連だったのだから、大躍進といっていい。

 しかし、賢一郎の耳には声が聞こえていた。


 ――がっかりした。


 幻聴だ。賢一郎も頭ではわかっていたが、振り払えなかった。以降、まともに打てなくなる。

 フルスイングをすればいいと国虎は言ってくれたが、できない。

 学校を休んで実家に戻り、三好に助けを求めた。彼ならなんとかしてくれると思ったのだ。

 返ってきた答えは、シンプルなものだった。


「正しいフォームに戻すこと、だ」


「メンタルじゃないんですか?」


「きっかけはメンタルだろうが、お前が打てなくなっているのは単純にフォームがガタガタになっているからだ。そのフォームを矯正することがイップス治療の第一歩であって、すべてになる」


 ジストニアという神経系の病気の可能性もあったが、若い賢一郎には当てはまらない。遺伝性で早くに発症するか、ベテランくらいなものだ。

 三好はでっぷりとした腹を撫でながら語った。


「何度も言うぞ。考えるな。フルスイングだ」


 難しかった。

 まぶたを閉じればクリスのストレートが現れる。

 一五〇キロの豪速球。一打席目は根本で詰まった打球が風に流されて幸運にもホームランになった。二打席目はしょぼいピッチャーフライ。

 一度も、賢一郎はクリスの球をまともに捉えられなかった。

 元のフォームに戻れない理由は、とにかく綺麗に当てようとしているからだ。そのために腕が勝手に動いてしまう。

 克服するには実際にクリスと対戦して打ち返すのがいいが、無理な話だ。

 クリスは選抜甲子園に出て、優勝を決めた。ノーヒットノーランまで達成した。別格だ。

 全国の強豪校からも練習試合の申し出は殺到しているだろうし、いちいち近場の学校と試合をして手の内を見せることもない。

 だから賢一郎は野球部から離れ、一人でどうしようかと考えていた。

 一人で走り込み、筋力トレーニングをし、飯を食って体重を増やし、身体を大きくしていた。それでもバットは握らない。素振りをしたらどうしても秋季大会のことが脳裏をよぎり、フォームがどんどん崩れていく。

 そのまま冬が過ぎ、春になり、三年生になった。

 このころにはほとんど諦めていた。夏の甲子園、遠い夢のことだったと。ところが、ある日の夕方、下宿先に国虎が飛び込んできた。

 彼は神妙な顔で、告げた。


「クリスがきた」


 一瞬、誰のことなのかわからなかった。

 国虎は声を荒げて叫んだ。


「明豊のクリスがきたんだよ! 相良はなんでいないんだって、怒鳴り込んできたんだ!」


「……なんで?」


「あいつもわからんって言ってた! でもな、執着する理由はわかるぞ! 当たり前だ! お前だけがクリスからホームランを打ってんだよ!」


 すうっと息を吸い、国虎は咆哮を上げた。


「クリスを打ちのめしたのは、お前だけだ! お前だけが、あいつと肩を並べられるんだ!」 


 雷が脊髄を駆け抜けていった。

 野球、やるしかなかった。賢一郎に迷いはあったが、それでも野球をしなくてはと思った。

 新入部員は突如として現れた賢一郎に驚いていた。二年は歓迎してくれた。キャッチャーを務めてくれていた吉良にも感謝された。


「俺には無理っす。国虎さんの球、ぐいぐい曲がって捕れないっすもん」


「そんなことないだろう。春の大会でもしっかりやってくれてたし。クリスの速球も受けてたんだろ」


「やりましたけど、めちゃくちゃ怖かったです。二度とはしたくないっす、ほんとほんと」


 復帰してすぐは、体が慣れていなかった。体力は上がっていたが、キャッチングが久しぶりなので、失敗することもあった。

 しかし、国虎は容赦しない。投げ込みでも予告なく、縦に落ちるスライダーやチェンジアップを織り交ぜてくる。


「サボってたぶん取り戻してもらうからな! 覚悟しろよデカブツ!」


「誰がデカブツだ。否定、できないけど」


 キャッチングには色々技術がある。半年間もやっていなかったので錆びついてしまっていたが、最も大事なことは残っていた。

 絶対に、後逸しないこと。

 暴投されても飛びつき、球がワンバウンドしても壁になって止める。でないと、ピッチャーが安心して投球できないのだ。

 一週間もすれば元通り、とはいかないが、キャッチャーとしての勘が戻ってきた。懸念なのは、打撃である。

 恩師の三好から教わったバッティングは、こういうものだった。


「どんな変化球も速球も、ストライクゾーンに入ってくる。色んな変化を起こしても、球は一つ。ギリギリまで見極めて、ちょうどいいところでバットを振る。これが基本」


 このギリギリまで見極めてというのが、賢一郎はできなくなっていた。

 しっかりミートしないとという意識が強すぎるのか、下半身はまだこらえていないといけないと踏ん張っているのに、上半身が勝手にスイングを始めてしまう。初心者によくある、打ちたがりの症状だ。

 素振りをしても、トスバッティングをしても身体がバラバラ。当てることができてもボテボテのゴロが精一杯。

 これでは役に立たない。お荷物だ。

 考えあぐねた賢一郎は、もう一つ、三好から教わっていた打ち方を試してみた。


「軸足に体重を残すんじゃなく、振り足に体重をかけて、バットを短く持って、自分からボールを迎えにいく……」


 振り子打法。現役メジャーリーガー、イチローの代名詞。

 身体を前にスライドさせるという異常なバッティングだが、これが上手いことハマった。

 上半身と下半身の動きがシンクロし、しっかりとミートできるようになった。左右に打ち分けると言った器用なこともできる。

 国虎は、不満そうな表情だった。


「そういうのを望んでんじゃないんだが……」


「チームバッティングだ。繋ぐバッティング。これも野球だろ」


「……俺がなに言ってもダメだな」


 とにかく、こうして賢一郎は野球部に復帰した。

 夏の大会に備えて、土日のどちらかは練習試合を組んである。秋でも春でも惜しいところまで進んだので、すでに大須は追われる立場。多くの学校から申し込まれていた。県外からも。

 メンバーはほぼ国虎の独断で決める。二年だけでなく、実力を知るためにと一年も試合に出した。キャッチャーも吉良に任せるときはあったが、四番は常に賢一郎だった。

 どうしてと、聞く。


「いまの俺だと、四番に繋ぐための三番、あるいは、中軸の終わりとしての六番がちょうどいいんじゃないかって思うんだけど」


「四番はお前だ。絶対に」


 国虎は頑として譲らなかった。

 試合はほとんど勝利した。堅実な守備に、細かく繋ぐバッティングで着実に点を積み重ねていった。負けるときは一年がエラーをしたり、国虎が想定以上に打ち込まれてしまったときだ。


 ――相手がいるのだからこういうときもある。しかたない。


 なんて戯けたことを国虎は言わなかった。

 大須の打線に、あるはずのものがないから負けたのだ。

 賢一郎の爆発力がないから負けるのだ。


「無い物ねだりしても意味はないってわかってる。でも、繋ぐヒットじゃないんだよ、うちに必要なのは。全員がそんな、繋げられるわけじゃないんだ」


 そうして、五月になった。

 ゴールデンウィークだが市営球場で練習試合をした。

 賢一郎は相変わらずセコセコとヒットを打っていた。この日の相手は地元の強豪、土佐工業高校だった。過去、明豊と幾度も甲子園を賭けて争っており、メジャーリーガーも排出している。油断できない相手だったが、この日の大須はよく打った。

 終盤になっても手を緩めず、賢一郎もチャンスを逃さずヒットを打った。務めを果たせていたが、いきなり無人の観客席から怒号が飛んできた。


「ふっざけんなてめぇ――――! てめぇがやるべきことは――、フルスイングやろがあああ!」


 トラックに跳ね飛ばされたような衝撃だった。

 観客席にいたのは、クリス。クリス・ロビンソン。金髪碧眼の、山奥の明豊にいるはずの男だった。


                 ○


 練習試合が終わったあと、クリスはグラウンドに飛び込んできた。


「ひっでえ、ひでえ、ひでえもんや! おい、おい、おい、ふざけとんのか!」


 激昂。鮮やかな金髪を振り乱すクリスはライオンを連想させる。なんだか国虎に似ていた。

 試合は終わったばかりで大須だけでなく相手チームもまだベンチに入っていた。注目を浴びているが、クリスはかまわず胸ぐらをつかんできた。後ろで女性がおろおろしているが、いくらなんでも殴りかかってはこない。彼はピッチャーだ。腕は大事にする。

 ギラリと青い目を光らせて、クリスは賢一郎に尋ねてきた。


「おい、なにを考えとる。なんであんな、しょっぼいヒットを打つスイングをしとるんや」


「……困ったことにフルスイングができなくなったから、だったら、繋ぐバッティングをしようって決めたんだ」


 賢一郎は、バットを短く持っていた。フルスイングのときはグリップの底を掴んでいたが、そこから拳一つ分高いところを握る。こうするとパワーは下がるがスイングに細かな調整が効くようになる。

 これで左右に打ち分けてシングルヒットを狙う。送りバントや犠牲フライで、自分がアウトになる代わりにランナーを進塁させる。

 自己犠牲の精神で、チームに貢献していく。

 これで大須の力になれる。

  この練習試合でも三安打と貢献したが、クリスには否定された。


「ぜんっぜんちがうわ! お前のはな、ただの独りよがりいうんじゃ!」


 クリスは美麗な顔立ちを鬼のように歪ませていた。


「お前みたいなんがシングルヒットをコツコツ重ねるなんてのはな、自分から敬遠をもらいにいくようなもんやろうが! なんの意味もないわ! 俺からしても嬉しいわ! 楽で!」


「……なんでそんなに怒ってるんだ」


「俺も自分でなんでこんな腹立ってんのかわからんわ! でもな、あんな、いいか! お前は、全力で間違いまくっとる! これはマジや! お前がやるべきは、フルスイングや!」


 賢一郎のほうが体格は大きいのだが、クリスのエネルギーは圧倒的だった。怒涛の津波となって襲ってくる。

 クリスはぐるりと、そばで苦々しげに奥歯を噛みしめる国虎にも叫んだ。


「国虎、お前キャプテンやろが! なんであんなんさせとるんや!」


「させたくないに決まってんだろうが! 何度も言ってらあ、フルスイングしろって!」


 二人の間で火花が散る。獣と獣が睨み合っている。

 くわわっとクリスは目を見開いて、再び賢一郎に怒鳴ってきた。


「ここでいま、俺の球をフルスイングしろ!」


 いきなりなにを言っているんだと戸惑う賢一郎だったが、国虎が食いついた。


「いいだろう! それだ! やるぞ、賢一!」


「えぇ……」


 話は一気に進んだ。

 国虎はクリスの要求を受け入れ、二年の吉良にキャッチャーの防具を着けさせる。

 当事者である賢一郎は突然のことに頭がついていかない。監督はベンチに座って傍観に努めているので頼りにならない。いつものことである。


(なんなんだ一体……)


 クリスは用意していたスパイクを履き、ストレッチをして、ランニング。身体を温めたあとは、吉良を相手に投球練習を始めていた。

 圧倒的な、一五〇キロのストレート。本気でやるつもりだ。

 彼と賢一郎では格がちがう。クリスは高知だけでなく、日本のスターだ。甲子園で見せた快刀乱麻の活躍に、テレビでは毎日のように特集が放送されていた。新聞でも、スポーツ欄でデカデカと写真が掲載されていた。

 明豊そのものをよそ者の集まりと嫌っているものは高知に多いが、彼がアメリカ人だというので話が変わる。異国で奮闘する青年と見なされ、大勢のファンがついていた。

 一年後にはプロになり、そのうちにメジャーへいくと期待されている。

 その期待を受けながら、押しつぶされたりはしない。

 いまだって一緒に来ていた新聞記者だという女性に写真を取られているが、ピースサインをする余裕がある。

 強い男だ。その肉体も、精神も。

 その強さが、賢一郎にはなかった。

 クリスが投げ込みを終えると、こっちへこいと手招きする。


「想定は県大会決勝、九回裏、ランナー二塁、一打逆転のチャンス! ホームランや!」


 かなり高度な想定だった。打てるかと言われたら、無理だと賢一郎は答える。

 部員、クリスと同伴していた女性、さっきまで試合をしていた土佐工業。彼らの視線に晒されるだけで賢一郎の身体に怖気が走った。

 打席に立つ。

 吉良が構えるとクリスが投球に入り、初っ端から一五〇キロの速球を投げてきた。

 ど真ん中だったが、見逃し。

 手が出なかった。

 クリスのピッチングフォームは美しい。

 右足に体重を乗せて、倒れ込むように前に出る。

 左足を踵から地面につけて、上半身を前に引っ張っていく。

 最後に右手を振り抜き、人差し指と中指でボールを回転させる。

 オーバースロー。一連の動作に歪みがない。スパイクに頼らず、足の指で強く地面を掴んでいる。

 完璧だった。

 二球目。

 今度は賢一郎もバットを振った。

 身体を前にスライドさせながら打つ、振り子打法。

 当たったが、ゴロ。ボールに力負けした。

 クリスは目の前に転がってきたボールを受け取って、鼻で笑った。


「一塁送球、スリーアウト。ゲームセット。明豊勝利、大須は負け。お前のせいで、負け」


「……俺だけのせいなのか? 野球は九人のスポーツだ」


「そうやな。九人のスポーツや。せやのに、独りよがりのバッティングをするお前のせいで負けたんや」


 結構な距離があるのに、声がよく聞こえてきた。

 クリスは続ける。


「チームバッティングってのはシングルヒットを狙うとか進塁打を打つとかそんなんやない。やるべきことをやるって意味や。大須ってチームで、お前がやるべきことはなんや。守備力だけはあるけど、打撃はしょっぼいチームで、お前がするべきことはなにや」


(俺が、すべきこと)


 賢一郎はベンチに入っている国虎を見た。ギラリと鋭く目を光らせている。

 二年たちはすがるような目を向けてくる。一年たちは困惑している。

 キャッチャーをしている吉良を見た。期待を込めた視線を向けてきていた。

 苦しい。賢一郎にとって、人の視線というものが毒であった。歓声もである。

 彼は……好き勝手にバットを振ってきただけだ。一挙手一投足を注目されるというのは、見えない鎖で縛られているような感覚だった。


 ――逃げ出したい。


 そういう思いもあった。全部放り出してスッキリしたいという身勝手な欲。

 情けないが本心だ。甲子園にいくにはクリスに勝たなくてはいけないが、こんな最悪な居心地でプレイしなくちゃいけないのかと、苛立ちが湧き上がってくる。

 同時に、やはり、勝ちたいという思いもあった。


(ここで、ここで終わりたくない)


 彼はバットを握った。顔は大仏のように穏やかなものではなくなっていた。眉間にしわを寄せ、苦悶していた。

 三球目、外角低めのストレート。今度も振り子打法で打ったが、またゴロ。打球が前に飛んでいかない。

 秋の大会を思い出す。

 クリスが登板した途端、大須のメンバーは空振りか当ててもゴロばかりになったのだ。一人、賢一郎を除いて。

 クリスが宣言した。


「俺が出る限り、県大会じゃあ誰にもヒットは許さん。こっちの工業にも、そっちの国虎とかにもや。つまり、甲子園はまた明豊のもんってことよ。ええんか、お前」


「――いいわけが、ない」 


 賢一郎は歯噛みした。

 野球が好きだ。

 中学まではそうだった。

 大須高校に入って、国虎と出会って、いまの二年生とともに練習を始めてからは大須野球部が好きになった。

 ともに勝つのが好きになった。

 負けるのは嫌だ。勝って、勝って、勝って、勝ち続けたい。

 故郷で、同年代の友人がいない鄙びた集落で漠然と夢見ていた甲子園。それが限りなく近づいているのだ。

 ただし、最後に立ちはだかるのがこの男、クリス・ロビンソン。

 彼を打ち崩さなくては、甲子園に出れない。

 振り子打法では、打てない。


「……っ」


 賢一郎は、構えを変えた。

 バットを長く持ち、地面に垂直に立てる。軸足に体重を乗せる。

 ピッチャーだけでなく、マウンド全体を眺める。

 クリスは黙って、綺麗なフォームで四球目を投げてきた。

 今度は空振り。

 上半身が早くに動き出した。その上、タイミングも遅れてしまった。


「くそっ――」


 賢一郎は自分自身に毒づいた。

 打てない。秋でも、クリスの球をジャストミートしてはいない。ホームランは幸運にも風に運ばれていっただけのことだ。

 完敗だった。賢一郎は、ほかの打者と同様に、クリスに完敗した。

 なのに、どうしてクリスはここまで執着してくるのか。

 フルスイングをしろと、叫んでいるのか。

 五球目、内角高めのボール球。


(フルスイング!)


 空振り。

 まただった。また、上半身が先に動き出してしまう。待つことができない。


(くそ、なんだ。なにをやっているんだ)


 バットを握り、クリスを睨む。

 クリスはさっきまでのように騒いではいない。集中している。

 選抜の試合、賢一郎は全部見ていた。録画もしてある。

 マウンドに立っていたクリスは集中していた。甲子園なんて大舞台で最高のパフォーマンスを発揮した。

 歓声に左右されないどころではない。彼は、歓声を操っていた。

 右は一五〇キロのストレート、左は多彩な変化球。器用貧乏ならぬ、器用富豪とでもいおうか。甲子園のすべてが彼の一挙手一投足に吸い込まれていった。

 なぜ二刀流なんて覚えたのか。

 クリスはどこかのインタビューで語っていた。


 ――夏の甲子園を投げ抜くためです。


 投手は肘と肩を酷使する。真夏の真っ盛り、マウンドの上で百球以上を連日投げるのだ。どちらか一方の腕だけでなく、両腕に負担を分散したほうがいい。

 理に適っている。しかし、できるか。できるのか、そんなこと。

 できるわけがない。

 単純に考えても練習量は二倍だ。利き腕ではないほうだと、握力も余計につけなくてはいけない。

 どっちつかずになるはずだ。だが、クリスはやり遂げた。高校二年の夏には、どちらも一流に仕上げてきた。

 なぜか。練習をしたからだ。

 小学校、リトルリーグのころから延々と、練習を欠かさず続けてきたからだ。


(天才。努力の結晶。眩しい男)


 遠い世界の男だ。幼いころにテレビで見ていたプロの選手と遜色ない輝きがある。

 そんな男が、どうして自分に執着するのか。

 六球目。真ん中低め。

 バットを振る。空振り。振り遅れ。


(いや、クリスだけじゃない)


 国虎がいた。

 三好がいた。

 イップスにかかったとき、下級生の全員が待っていると言ってくれた。

 秋から半年が過ぎた。

 三年になって、四月が終わってしまった。

 この時期になって復帰できていないのなら諦めた方がいい。諦めて、いまの賢一郎を考えてのチームにするべきだ。

 国虎にそう言ったが、跳ね返された。


 ――大須は、お前のチームだ。


 ――フルスイングできなくとも、それでも、お前が四番だ。


 部員の全員が、異議を上げなかった。

 全員一致で、賢一郎を四番だと言ってくれた。

 その四番の役目は器用にヒットを打つことじゃない。

 みなが言っている。


 ――フルスイングだ。


 今日、賢一郎は全打席でヒットを打っている。しかし、いつも一塁止まり。二塁打、三塁打、ホームランも打っていない。以前のように、相手ピッチャーががっくりと消沈することもなかった。

 クリスの言ったとおりだ。

 四番でシングルヒットなんて、敬遠をされたようなものだ。

 秋季大会の直前、国虎は言っていた。


 ――賢一がホームランを打つ。それだけで勝てる。


 ――ピッチャーは三振が一番好きで、ホームランが一番イヤ。


 ――一打席目にぶちかませば、ピッチャーはショックを受ける。


 ――なるべく回したくないからと、フォアボールを嫌っていく。


 ――そんでもって、ついついストライク確実な甘いコースを狙ってしまう。


 ――で、その甘い球を見逃さずに俺たちが繋いでいけば、また賢一に回っていく。そんでもってホームラン。大量得点ってわけだな。


 都合のいい話だった。

 しかし、当たった。崩れたピッチャーをチームメイトや監督が落ち着かそうとすれども、そう簡単に持ち直さない。二回も打てばボロボロだった。

 七球目。空振り。


(まただ。思い出せ。フォームが崩れている。俺は、俺は、パワーヒッターだ)


 一塁に懸命に走っていくのではない。

 悠々と二塁、三塁、ホームと回るのが賢一郎のスタイルだった。

 ボールに向かっていくのではなく、待ち構える。ギリギリまで動かない。肩を閉じて、じっくりと待ち続ける。

 コースを読まない。球種を読まない。ストライクゾーンではなく、手がとどくところにきたらどんなものでも打ち返す。馬鹿丸出しのパワーヒッター。

 それが相良賢一郎。

 最強の初心者。

 八球目。バットに当たったが、一塁線に切れるファール。

 振り遅れた。

 クリスの球が速くなっている。身体が温まってきたのだ。

 恩師、三好の声が脳裏に響く。


 ――熱くなれ。打席に立てば、熱くなれ。


(熱くなれ)


 ――お前のバットスピードは天下一だ。動体視力も優れている。あとは、心だけだ。雑音に囚われなくなれば、元通りだ。そのために、熱くなれ。


(熱く、熱く、熱く)


 九球目、外角に外れるボール球。

 バットを振る。ファール。今度は早すぎた。

 三好は言った。


 ――思い切り、振れ。


 国虎は言った。


 ――フルスイング。


 クリスが言った。


「フルスイングや!」


 十球目。

 フルスイング。


「――――!」


 衝撃はなかった。


 突き抜けるような快音が響き、打球は空高く飛んでいった。


                 ○


 クリスが投げたのは全部で三〇球。球種はストレート、のみ。

 ホームランは一発だけだったが、その後、二塁打、三塁打を打てた。もちろん、明豊は守備もいいので実際にそこまで進めるかどうかは不明だが、そのくらいの勢いがあった。

 賢一郎としてはもっと多く、球種も変えて投げてもらいたかったが、力いっぱいに断られた。


「打たれたら打たれたでめちゃめちゃ気分悪いわ!」


 そんなことを叫んで、新聞記者の女性と帰っていった。

 その後は練習試合でみんな疲れてるので解散、とはならない。鉄は熱いうちに打て。せっかく元のフォームを取り戻したのだ。また忘れないうちに根付かせておかなくてはならない。

 学校に戻り、昼食を食べたら今度は国虎がマウンドに立った。


「今日のうちに、千は打ってもらうからな! 俺らじゃなくて、クリス相手だとみるみるうちに復活するってのはどういう了見だ! おっそいわ、ボケ!」


「ごめんねー!」


「いいわ! おら、打て!」


 スカァンと打った。

 気持ちよかった。

 クリスからホームランを打って、二塁打、三塁打を打って、こうして国虎からも打って、全身に心地のいい痺れを受ける。

 チグハグだった心と身体が重なっていく。ズレがなくなっていく。

 打つ。打つ。打つ。

 三好の教えが脳裏を駆け巡る。


 ――内角にきたら肘を畳んでコンパクトにだとか考えるな。


 ――一塁線に流し打ちだとか、三塁線にひっぱるとか考えるな。


 ――どんなに速くても、どんなにキレのいい変化をしても、球は一個だ。


 その一個を、打つ。


 ――フルスイングだ。


「きんもちいいいい! 国虎、次!」


「調子に乗ってんじゃねえ! 疲れた、交代!」


 五十球ほどで国虎は交代した。元々練習試合で七十球を投げているのだから、これ以上はやりすぎである。

 あとは、二年と一年に交互に投げてもらった。

 球速は遅い。コントロールも悪いが、都合がよかった。とんでもないボール球だろうが、賢一郎は打って返さなくてはいけない。

 シングルヒットもフォアボールも許さない。

 どんな球がきても、打つ。打って、打って、打ちまくる。

 それこそが、賢一郎のチームバッティング。

 一年と二年の投手だけではなく、ついには野手にまで投げさせて、本当に千回バッティングをした。休憩なしで打ち続けても終わったのは夕方の五時。賢一郎も指が固まってバットから離れなくなってしまっていた。

 部員に無理やり引き剥がしてもらったところで、国虎がこれからについて語った。


「夏の大会まであと二ヶ月。賢一がようやく本格的に復帰したが、まだ馴染んじゃいない。これからも練習試合を組む。全員守備と、八人で四番の賢一に繋ぐっていう、うちの野球をもう一回染み付かせるぞ。これからの練習は実践的なノックを重点的にやっていく。

 バント処理、スクイズ対策、ゲッツー体勢、盗塁の阻止、牽制、中継。エラーを想定した互いのカバーなんてのもある。ランナーがどこにいるかで守り方も変わってくる。それをしっかり頭に入れなくちゃいけない。耳が腐るほど聞いただろうけどな、二年は」


 一息、間を置いた。

 国虎は目を鋭くさせ、吠えた。


「勝つぞ! 明豊も工業も商業も、全部倒して、甲子園だ! 手が、届くんだ! 二度とこんなチャンスはない! かぁつぞぉ!」


「――オオッ!」


「よし、解散!」


 パァンと国虎は手を叩いた。


                   ○


 大須は練習試合に勝ち続けた。

 学校があるのは高知県中部だが、東部や西部にまで出張してまんべんなく勝ち続けた。県外、四国の強豪とも試合をすることもあった。ダブルヘッダーではへとへとの野手はエラーをし、国虎も暴投したが、八人が打線を繋ぎ、賢一郎を軸とする打線が大量得点をして勝っていった。

 県大会に向けて、飛躍の準備はできていた。

 しかし、懸念はある。万全の状態ではない。

 恐怖がある。賢一郎はそれを払拭しようと連日、部活が終わっても居残って素振りをやっていた。過剰なトレーニングは怪我のおそれがあるからと国虎も止めたが、効果はなかった。

 七月に入ってすぐ、まもなく大会が始まるというこの時期でも居残っていた。日は落ち、とっぷりと暗くなっているが、外灯の下で素振りをしている。

 腹が鳴っているがかまわずに続けていると、目の前にボールが飛んできた。

 ふわりと宙に浮いているそのボールは、絶好球。反射的に、打った。カーンッと爽快な音がする。打球は学校を囲んでいるネットに突き刺さった。 

 暗闇から低い笑い声が聞こえてきた。


「話に聞いたとおり、ちゃんとフォームが戻ってるな。クリスに感謝だな」


 ぬうっと、外灯の下に男が現れた。

 シャツとトレパン姿の中年男性。腹がでっぷりと太った男だった。髪は薄く、目の下には深い隈がある。狸を思わせる風貌だ。片手に缶コーヒーを持っていた。

 教師ではないが、賢一郎がよく知る人物だった。


「三好先生、どうしてここにいるんですか?」


 三好吉秀。賢一郎に野球を教えた元高校教師だった。

 いまは賢一郎の故郷である畑木村に住んでいるはずだった。車で二時間弱の時間がかかる。散歩にやってきたなんて距離ではない。

 ぐびりとコーヒーを飲んで、三好は賢一郎の手を見つめた。


「無茶なことやってるから止めてくれって、国虎から頼まれたんだよ。しばらく眺めていたが、度を越えている。馬鹿もん。とりあえず、バットを置け。そんでもって、着替えてこい」


「着替える?」


「ユニフォーム姿じゃ店に入れんだろうが。お前がずっと続けるから俺も腹が減ってらあ。おら、はやくしろ」


 三好に背中を押されて、あれよあれよと部室棟にまで向かわされた。

 相手が国虎や監督なら振り払うことができるのだが、小さなころから教えてもらっていた相手なので上下関係ができあがってしまっている。逆らえない。

 学校を出て、下宿近くの中華料理屋に入る。そこで適当に注文をしてから、三好は話を切り出した。


「またイップスになるのが怖いか」


 ストレートだった。

 賢一郎が黙っていると、三好は運ばれてきたビールを飲んでから続けた。


「怖いのを恥ずかしがることもない。誰だって怖い。俺も怖い」


「三好さんも、ですか?」


「ああ。俺もイップスにかかった。高校三年の夏、甲子園での出来事からな。明豊の五打席連続敬遠、知ってるだろ」


 こくりと賢一郎はうなずいた。

 積極的に調べなくてもテレビやラジオで放送されることもある。野球部と言うだけで小耳に挟むことも多かった。

 明豊が、ある夏の甲子園で相手高校の四番を全打席敬遠したのだ。

 試合には勝ったがすさまじいブーイングを受けて、心身ともに疲弊した選手たちは次の試合でボロ負けした。以降、明豊にとって敬遠は鬼門になっている。

 もしかしてと、賢一郎は弱々しく口を開いた。


「三好先生、その敬遠された学校にいたんですか?」


「ああ。レギュラーだったよ」


「……でも、敬遠された当人じゃないはずです。なんで、先生がそれでイップスに?」


 ぐいっと三好は二杯目のビールを飲んだ。


「俺の傷だ。あまり、聞くんじゃない」


「……すいません」


 カチャカチャとほかのテーブルから急に音が聞こえてくるようになった。調理の音や、注文の声、笑い声、怒鳴り声。

 三好のタレ目が遠くを見つめていた。


「俺がイップスになったとき、幻聴が聞こえてくるようになった。しっかりしろ、打て、返せ、下手くそ――っとな。身体に響くんだよ。観客たちの、勝てよっていう命令が」


「俺も、似たようなのになりました。でも、そこが俺にはわからんのです」


「そこ?」


「試合の行末は、プレイヤーだけのもののはずです。なのに、まるで無関係な観客が応援をする。その応援が、不安なんです」


 賢一郎の懸念が、それだった。

 練習中、生徒や教師がよく声をかけてくれるようになった。


 ――相良くーん、がんばってねー!


 ――甲子園、きっといけるからな! 最後まで諦めるなよ!


 ――頑張れー! 頑張れー!


 顧問、ルール上は監督になるものさえも他人事のように応援していた。

 元のフォームを取り戻した賢一郎は、よく打った。ホームラン量産機になって打点の要になっていた。

 一番、二番、三番が塁に出て、長打で返す。校内のグラウンドで紅白戦もやったが、賢一郎が打つ度に歓声が上がった。

 本番になれば、吹奏楽部や希望者で作った応援団が球場に駆けつける。秋季大会のような間に合わせではない。OBたちや、近隣の住民もくるらしい。

 ありがたいが、最悪だった。

 また、プレッシャーに押しつぶされてガタガタになるのではないか。そんな不安が賢一郎に粘っこくまとわりついていた。

 イップスは、未だ完全に解決されたわけではない。三好に尋ねた。


「どうしてみんな、ああまで応援するんでしょうか……。ほとんど関係ないのに……。夏の大会で同じようなことになりますよね」


 三好は平然と肯定した。


「そりゃあ同じことになる。いや、もっと激しい。夏こそが、本番だからな」


 秋季大会は選抜に繋がるといっても、甲子園までには間がある。負けたとしてもまだ次の大会があると奮起することができる。

 夏はない。

 夏は全員が瀬戸際。崖っぷち。負ければ引退。

 父母の応援も熱く、関係者たちも必死に応援する。

 ここで終わりだと誰もが知っているから、誰もが必死になっている。エリートも凡人も、そこは同じだった。

 でもと、賢一郎は同じことを繰り返した。


「全部、俺たちだけのものじゃないですか。なんで、みなが結果を、俺たちのプレイを気にするんですか。上手くいって歓声を上げるだけならいいんですが、失敗すれば盛大にため息をついて、時には怒鳴ってきて。どうして、そこまで……。プロでもないのに」


「気にしすぎだ。と、突き放したらそこで話が終わる。不安も取り除けないだろう。簡単な話だ。みんな、高校生だったんだ。いや、中学までのやつもいるだろうが、誰もがみんな十八歳だったんだ」


 三好の口元に笑みが浮かんでいた。

 中華料理屋の店内には様々な人達がいる。

 痩せた老人、作業着姿の壮年男性、親子連れ。

 大人は誰も十八歳であって、子どもはいずれ十八歳になる。

 三好は言う。


「野球は明治時代に入ってきて、批判がありながらも国民的スポーツとして広く根付いた。女子のプロ野球も現代だけじゃなく、昭和にはあったんだ」


「本当ですか?」


「嘘をいってどうすんだ。人気だったらしいぞ。不況の煽りですぐなくなったけど。……この前、一条っていう女の新聞記者から取材を受けた」


 その名前に聞き覚えがあった。顔はぼんやりとしか思い出せないが、クリスに密着取材をしていた人だ。


「彼女は、高校野球が好きだと語った。なぜか、彼女も高校生だったからだ。当時の自分、野球を見ていた自分、野球選手になれなかった自分を投影して眺めていると言った。応援しているのは、プレイヤーじゃない。当時の自分なんだ」


「自分、ですか」


「別の誰かなら、我が子だとか、孫だとか言うかもしれない。苦しんでいるさまを見て、報われてほしいという思いからかもしれない。確実に言えることは、誰も、プレイヤーのことを無関係だなんて思っちゃいないんだ。だからこそ、その奮闘に救われたりする」


 太平洋戦争のあと、広島カープは復興の象徴になった。

 みんな野球が好きだったからだ。その勝利に、心を乗せられたからだ。

 東日本大震災のときも、同じく東北楽天イーグルスが復興の象徴になった。自分たちの仲間が、友が、奮闘している。活躍してくれていると、心が興奮したのだ。

 ましてや甲子園。

 うちの地元が、あの学校に通っている子が、昔からよく知っている子どもたちが大きくなって、鎬を削っている。

 高校三年間。限られた時間に青春をかけている。

 心が引き寄せられていく。

 三好の言葉は淡々としていた。


「当たり前だが、知っている人物が活躍すると嬉しくなる。好きな相手だと感動し、嫌いなやつだと腹が立つ。そんなのが百万くらい集まる。そりゃあもうすごいものだが……、ま、それだけだ」


「それだけ?」


「ああ。対応策はシンプルだ。単に、単にな」


 恥ずかしそうに三好は笑った。


「野球を好きになればいいんだよ」


 その言葉が、するりと賢一郎の胸に落ちてきた。


                 ○


 七月中旬。全国高等学校野球選手権、高知県大会が開幕した。

 シード校は四回、その他は五回勝てば、優勝。甲子園出場が決定する。

 よその地方に比べて学校数が少ないのでたったこれだけ連勝すればいいのだが、そこに春の王者である明豊学園が混ざっている。

 無慈悲に強い。

 投手はクリスだけでなく控えも一流だ。クリスがいなければ、全員がエース候補であっただろう。

 野手も堅実な守備でありながら、所々で光るプレーを見せている。

 外野フライを打たれたとき、中継を挟まずにホームへ投げてアウトを取ったり、内野ではピッチャーの脇を突き抜けるセンター返しを、さも予知していたかのようにショートが先回りして凡打にさせてしまっていた。

 打撃でも格がちがうところを見せた。

 王者らしい姿などない。貪欲に点を取る。

 ヒット、バント、盗塁、エンドラン。もちろん、ホームランも。

 初戦と準々決勝、両方コールド。相手にならない。

 しかし、準決勝は同じシード。体育コースがある強豪の長宗我高校だった。ベスト4かベスト8と常に惜しいところまで進んでいる。

 明豊相手でも気合十分、勝ちにきていた。

 だが、登板するのはクリスだった。


「ほないくでー! みんなー、楽しんでやー!」


 観客は楽しんだ。

 明豊の応援団や一般観客だけでなく、長宗我高校の応援団でさえ、一五〇キロを超えるストレートには喝采をあげてしまう。

 ときには左に変えて、多彩な変化球できりきり舞いにする。春からさらに成長したのだと世間に見せつけた。

 終わってしまえば五対〇で明豊の勝利。七回から控え投手が登板したが、危なげなく抑えきった。

 決勝の一校は、すんなりと明豊に決定した。

 もう一校は、接戦だった。

 ユニフォームから制服に着替えて、クリスとキャプテンの本山はそのまま観客席に入った。準決勝第二試合、大須高校と土佐工業の試合が始まるのだ。監督の十河も観察しているはずだった。

 内野席に陣取って昼の弁当を食べてから、クリスは本山に質問した。


「どっちが勝つと思う? 俺はもちろん大須やと思うけど」


「じゃあ、俺は土佐のほうで」


「なんでや!」


「いちいち怒るなよ! ツバも飛ばすな!」


 顔を拭いて、本山は投球練習をする大須、国虎を見つめた。


「大須は国虎が引っ張って、相良の爆発力を最大限に活かすチームだ。しかし、相良は経験不足。この前までイップスだった。お前が治したって報告は受けたが……、本当か?」


「本当やって! あんにゃろ、バカーンって打ったんやって! 俺のストレートを! この大会の成績だって知っとるやろ!」


 安芸国虎と相良賢一郎が率いる大須高校は初戦をコールド勝ち、準々決勝も六対二で圧倒的に勝利した。

 得点の契機を作ったのはどちらも賢一郎だった。

 一発だけならまだしも、二打席連続でホームランを打たれてしまった。投手はその直後に乱調し、おもしろいように被弾したのだ。

 本山もいかに賢一郎の打撃が恐ろしいのか知っている。

 それでも、完全復帰を訝しむには理由があった。


「別にお前の言葉を嘘だって思っていない。でも、あくまでそのストレートを打ったのはこういう場じゃないだろ。同じ状況だったか、これと」


 むぅっとクリスは口を閉ざした。

 県大会準決勝ともなれば、応援が激しくなっている。一塁側、三塁側と両サイドにそれぞれの学校の応援団が詰めかけていた。OBや部員の父母、地元商店街の人間もいる。

 賢一郎は、秋季大会での試合を否が応でも思い出すだろう。乗り越えられるのか。クリスもだんだん不安になってきた。

 さらに本山はとんでもないことを付け足した。


「もし、相良が万全であっても封じることはできるしな」


「わぁっつ!?」


「英語の発音めっちゃ下手だな。単純だよ。うちの野球部なら誰でも知ってるやつだ。お前には、存在しない選択肢だ」


 そこまで話したところでプレイボールのサイレンが鳴り響いた。

 国虎は名前に負けぬ迫力で、勇ましいピッチングを見せた。

 内角をえぐるような一四〇キロ台のストレートを主体に、切り裂くように深く落ちる縦スライダーとチェンジアップで初回を三者凡退に抑えてみせた。

 続けて、大須の攻撃。

 土佐のピッチャーもこの日は強い。以前、大須とやった練習試合ではよく打たれていたが、際どいところを狙うストレートと、速度のあるカーブで一番、二番を凡退させた。

 三番は、国虎。

 バッターボックスに入る前に、吠えた。


「っしゃああああああああああ! こいやああああああああ!」


 球場の声援をかき消すほどだった。

 名前に負けぬ、猛獣らしい怒声。この性格でなければ、ここまで弱小野球部を引っ張ってくることはできなかっただろう。

 その気合い充分な第一打席、初球は空振り。

 力が入りすぎていて、ずっこけた。ヘルメットも落ちてしまっている。

 第二球目、外角低めに入るカーブを空振り。

 ここでもずっこけたが、おやっと本山が眉を顰める。


「……あいつ、あそこまでバッティング下手じゃなかったはずだぞ」


「力みすぎてるんやないの?」


 クリスが興味なさげに返すが、いいやと本山は首を振った。


「力みすぎてるのなら投球にも現れるはずだ。さっきの咆哮とマヌケな空振り、多分あいつは――」


 三球目が投げられた。

 真ん中高め。甘い球。

 国虎は、綺麗に右中間に打ち返した。

 わあっと大須応援団が歓声を上げる。

 国虎は全力疾走で一塁を回り、二塁でストップ。塁に立って、大きくガッツポーズをする。

 クリスは自然と拍手をした。


「あの国虎が演技しよった。あんなガツガツしてるやつが」


「打席に入る前から勝負は始まってるってわけだな。夏の準決勝は大須も初めてなもんだから、プレッシャーがあると思わせたんだ。そこで、油断して甘く入ってきた球を狙い打った。見事だ。で、次は、やつだな」


「四番、相良賢一郎!」


 アナウンスが流れ、賢一郎が審判に礼をしてから打席に入った。

 大きな体だ。国虎とは体格も性格も正反対。だからこそ、ここまで相性がいいのだろう。凸凹コンビというやつだ。

 注目の第一打席。

 熱気が満ち溢れる球場で、実力を十全に発揮できるのか。

 クリスも本山も、無言でその挙動を見つめた。

 打つのか、打てるのか、打てないのか。

 相良賢一郎は最高のバッターなのか。

 その答えは、出なかった。

 土佐工業のキャッチャーが立ち上がったのだ。

 クリスは顎が外れそうになった。


「けっ、けう、けい、けい、けいえんんんんんん!?」


 隣の本山は、驚かない。

 岩のような顔を顰めながらも、小さく頷いた。


「勝つためなら、それだな。それ一択しかない」


 くわっと目を見開いてクリスは本山に詰め寄った。


「どういうことなや!」


「明豊にきてんなら知ってるだろう、伝説の五打席連続敬遠。あれと同じだよ。常識はずれの大打者がいるなら、敬遠。そうすればシングルヒットを一本打たれたってのと同じになる」


 大須応援団からは野次が飛ぶが、土佐工業は変わらず二球目のボール玉を投げた。

 三球目、四球目と続き、フォアボールで賢一郎は出塁させられた。

 国虎ではないが、クリスも吠えた。


「ふざけんなー! 能無しー! アホー! トンマー! おたんこなすー!」


 続く五番。

 サードゴロに終わってスリーアウト。一回裏、大須の攻撃は〇点。

 わからなくなった。クリスは頭を抱えてしまう。


「敬遠を続けられたら打てんやんけ。なんのために復活させたがなや。恨むぞ、ほんま。こんボケ、カス、アホ」


「安心しろよ。土佐工業は、負ける。さっきの五番への投球でわかった」


「……どういうこと?」


「土佐工業は勘違いしてる。敬遠をすればそれでいいって」


 試合は土佐工業が有利に進んでいった。

 ここは明豊に次ぐ強豪だった。過去、幾度となく決勝を争い、明豊を下して甲子園へ進んだこともある。

 一巡もすれば国虎の速球をまともに捉えだしていった。ヒットや四球などで出塁すれば、盗塁、送りバント、犠牲フライを決められて、一点、二点、三点と奪われてしまう。

 準々決勝でも大須は二点の失点があったが、まぐれ当たりでツーランホームランを出されてしまっただけである。土佐工業は、太い地力から繰り出される巧みな連携で点を奪ったのだ。重みがちがう。

 がむしゃらにではなく、頭を使って、多くの戦術を繰り返しこなし、染み付かせてきている。以前に行われた大須との練習試合もそういう実験だったのだろう。確かめたかったのかもしれない、賢一郎がどういう状態なのかを。

 もし、その結果としてこの敬遠策を取り入れたというのなら――、愚かでしかなかった。

 六回の裏、先頭打者の九番が土佐工業のエラーで出塁し、一番が送りバント。二番は三振。三番の国虎はライト前ヒット。

 ツーアウト、一塁三塁。

 続いて四番の賢一郎だが、ここも敬遠。仮に彼でなくとも、敬遠しただろう。満塁になればどの塁に投げてもアウトになる。盗塁を警戒する必要もない。

 だが、そこで変化が生じる。

 賢一郎がフルスイングをした。

 キャッチャーは立っていて、ボールは遠い。空振りだ。

 審判は呆気に取られていたが、力強く宣告する。


「スットライークッ!」


 観衆が、湧き上がった。

 大須応援団だけでなく、公平な一般観客たちからも拍手が巻き起こった。

 土佐工業の応援団は沈黙。父母やOBたちも苦い顔になっていた。

 クリスは震えが止まらなかった。興奮、大興奮。


「いいやんけ! それやそれ! 空振りでええ、フルスイングや! そうか、これやな! 敬遠すればそれでええってわけやないって、こういうことやな、本山ちゃん!」


「いや、ちがうが」


「あれ!?」


「ちがうが、効果大だな。こっからだとキャッチャーの顔は見れないが、ピッチャーは、苦虫を噛み潰したような顔だ。よっぽど嫌なんだな、これ」


「そらそうやで! 監督やキャッチャーはやいのやいの言うけどな、ピッチャーは全部三振に打ち取りたいんや! 高校生も大学生もプロも、誰も変わらんやろ!」


「そんなんだから俺はずっと苦労してんだよ……」


 本山が嘆いていたが、クリスはでへへっと舌を出して笑っていた。


「まあまあ、相性がええってことやろ。選抜でいけたんやし。そんで、本山ちゃんが言っとった、土佐工業の勘違いってなんなん?」


「相良を封じるだけなら敬遠でいいが、別に彼一人を相手にしているわけじゃない。試合に負けないためには点をやってはいけない。なら、絶対に封じ込めるべき相手はまだいる」


「五番やね」


 本山は無言で肯定した。

 同時に、賢一郎への敬遠が終わった。さすがにアウトになるつもりはなかったようで、大須はツーアウト満塁となった。

 五番打者が打席に入ると、球場は割れんばかりの歓声になった。

 賢一郎のフルスイングがもたらした成果だ。

 彼本人がなにを思ってそんなことをやったのかはわからないが、観客は勝負をしろという無言の抗議だと受け取った。その結果、一瞬で土佐工業は『ヒール』になってしまった。

 こういう反応は覚悟していただろう。しかし、まさか球場を揺るがすほどのものになると予想はしていなかったはずだ。

 キャッチャーが声を出しているが、心持ち小さくなっている。返事をする内野手にも戸惑いがあった。

 本山は哀れみを持っていた。


「全打席敬遠なんて無茶な話だ。うちんとこだって、旅館に嫌がらせやクレームがあって、精神はボロボロ。次の試合は十点差で負けたんだ。ましてや、敬遠策の肝心なところを知らなかったら、」


 土佐工業のピッチャーが投げた。

 そこに際どいところを攻めるコントロールも、強い威力もなかった。打ち頃の球。

 大須の五番打者は、バットを短く持って確実にミートした。

 打球は内野の頭を越えていき、点々と右中間を転がっていった。

 三塁ランナー、ホームイン。

 二塁ランナー、国虎もホームに飛び込んだ。

 一塁ランナー、賢一郎は足が遅いので二塁でストップ、と思いきや、外野の送球が乱れた。中継のショートへ投げたが、ボールは高くなりすぎてしまった。そのまま誰もいないところを転がっていく。

 賢一郎はさらに進んで、三塁でストップ。五番打者も二塁まで進んでいた。

 本山はこれを予見していたのだ。


「ここまでの結果になるとは想像してなかったが、あの五番、吉良か。一塁手。打ちそうだなって思ったよ。ストレートにタイミングが合ってた」


「ああ、そういや控えの捕手らしいで。大須にいったとき、球を受けてもろうたわ」


「……どうりで。そりゃお前の球を受けてたんだ。そこらのピッチャーのストレートなら、打ち頃だ。土佐工業は、あの五番の対策をしてなかったのが敗因だ」


 四番打者の全打席敬遠。

 数十年前の明豊は、おそらく高校野球で史上初の作戦を編み出しながら、完璧にやり遂げていた。当たり前だが、塁に出した四番打者をホームに返させたら意味がないのだ。

 そこで、明豊は五番打者と六番打者を徹底的に研究し、封印した。その二人なら地力で勝てると踏んだのだ。

 こうして作戦は成功し、非難轟々となったのだ。

 目の前の試合がさらに動く。

 六番打者がライト前にヒットを放ち、賢一郎もホームに返ってきた。三点目。

 これで同点だが、まだまだ終わらない。七番、八番が連続ヒットでさらに二点追加。九番がフライを上げて、ようやくスリーアウト、チェンジ。

 大須はこの回、打者一巡の猛攻で一挙五点を獲得。五対三と、土佐工業を逆転。

 七回は静かなもので、点に動きはなかった。

 八回も土佐工業は攻撃に力がなく、三者凡退。

 その裏、大須の攻撃。先頭打者は四番の賢一郎だった。

 ここまで敬遠を続けてきたが、キャッチャーは立たなかった。座ったまま、ミットを構えた。

 再び観衆が湧き上がる。元気をなくしていた土佐工業の応援団もここぞとばかりに応援に精を出した。

 試合を諦めた、わけではない。

 クリスも気づいた。土佐工業は、ギャンブルを打ったのだ。


「逃げ続けてきたチームが、腹をくくって勝負をする。勝つことができたら勢いがつく。その勢いを攻撃に持ち込んで、打ちまくるって寸法やな」


 同様のことを本山も語った。


「観客もここで勝てば劣勢の土佐工業を贔屓するだろう。なんだかんだで、最後まで諦めないチームをこそ応援する。卑怯な作戦を使っていても」


「となると、あとは相良が打てるかどうかやねんけど」


 第一球目は内角高めのストレート。ストライク。勝負するとなって、ピッチャーの調子が良くなっていた。彼も、敬遠策に苛ついていたのだ。

 二球目、一球目より僅かに内側。顔面スレスレのボール球だが、賢一郎はピクリとも動かない。恐怖しているのか、冷静なのか、他人からはわからない。

 緊張感がある。

 クリスもじっと食い入るように見つめていた。

 第三球、内角高め。同じコース。顔面スレスレのボール球だが、賢一郎が動いた。

 軸足に体重を乗せて腰を捻り、バットを振った。


 フルスイング――。


 打球音が空を突き抜けた。

 見事な、美しい場外ホームランだった。

 数十分後、審判の宣言がこだまする。


「ストライークッ、アウト! ゲームセット!」


 六対三で大須高校が土佐工業に勝利した。

 試合を振り返って、試合を決定づけたのはどのシーンかとクリスと本山は答え合わせをする。二人は同時に言った。


「相良の」「空振り」


 クリスは自慢げに笑っていた。


「いやあ、成長したって思わん? 去年の秋は観衆の声に潰されたのに、いまは観衆の声を利用して自分のチームを後押しするんやで?」


「そうだな。土佐工業は敬遠策の本質に気づいていなかった。その時点で大須の勝ちだって思っていたが、相良はフルスイングで観衆を味方につけた。土佐工業の選手たちを動揺させた。クレバーだよ」


「そやね。あと、本山ちゃんも予想外だったんやない? 大須、全然びくともせんかったな」


「こっちは頭が痛いんだよ、それで」


 大きなため息をつく本山。


「大須は一切動揺しなかった。一点どころか、三点を取られても崩れない。自分たちの野球を徹底している。堅実な守備と繋ぐバッティング。今回、相良の爆発力がなかったも同然だが、大量得点で打ち勝った。決して、相良だけのワンマンチームじゃない」


「強いなあ。全国レベル言うやつやねー。でも、」


 にひっとクリスは笑う。


「俺にゃあ勝てんよ」

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