第3話

 いい天気だった。

 太陽は燦々と輝き、刺すような熱線を注いでいる。へこたれそうな暑さであるが、爽やかさもそこにあった。

 球場には両校の応援団以外にも大勢の観客が詰めかけており、ほぼ満員。

 七月十五日、午後一時。三〇度を超える気温のなか、全国高校野球選手権高知大会の決勝戦が始まった。

 先攻は春の王者、明豊学園。

 キャッチャーの賢一郎はミットを構え、サインを出す。国虎は眉をひそめ、首を横に振った。

 はてと、首を傾げながら賢一郎は別の球種を選んだが、国虎はこれも拒否した。

 まさかと、最初から選択肢に入れていなかった球種を選ぶと、国虎はにやりと笑ってうなずいた。 


(こ、こ、こんな場面で投げる球か!?)


(こんな場面だからだよ。意外性にびっくりだろ)


 国虎の肝の太さにに賢一郎は真っ青になっていたが、うなずいた。

 注目の初球、国虎は大きく振りかぶ――らず、ぽーんと山なりに投げた。

 緩い球。チェンジアップではない、スローボール。真ん中高めのボール球。

 ストライクコースからは外れているが、絶好の球だ。

 最高に打ちやすい。

 だから、打てない。

 打者はバットを振るったが、ボテボテのサードゴロ。ファーストに送球されて、ワンアウト。

 国虎は空に人差し指を突き上げ、はつらつに叫んだ。


「ワンナウトー! さあ、本番だ! しまっていこう!」


 賢一郎はマスクの裏からじとっと国虎を睨む。


(いきなりスローボールは心臓に悪い)


(だからこそだろ。さあ、きちっといこうぜ)


 実は大会直前には取得していたのだが、チェンジアップよりも遅く、かつ、フォームも変わるので決勝までひた隠しにしていたのだ。

 二番打者に対しては、国虎らしく攻めていった。

 ガツガツ内角を抉るストレートを要求する。

 平均が一四二キロ、最高速度が一四五キロの硬球が顔面に迫ってくるのはどんな打者でも恐怖を覚えてしまう。

 しかし、その程度で勝てるチームではない。

 三球続けて内角高めにストレートを投げると、バットを振ってきた。後ろに飛ぶファールになった。

 もしかしたらデッドボールになるかも、なんて怖がっているような甘いバッターではない

 セオリー通りなら、チェンジアップやスローボールを外角低めに投げるべきだ。コースと球速のギャップを利用するわけだが、そんなことは明豊の打者なら誰でも頭に入っている。

 そこを踏まえて選択した賢一郎のサインに、国虎は無言で応じた。

 四球目、内角高めだが三球までよりも甘いコース。速度も変わらない。

 打者は振った。

 タイミングは合ってたが、空振り。

 バットに当たる直前、切り裂くように深くボールが落ちた。

 国虎の得意球種、縦スライダーだ。

 賢一郎もミットに収めた。


「ストライク! バッターッ、アウッ!」


 三振、ツーアウト。

 国虎が大きく吠える。


「しゃああああああ! 次、いくぞおおお!」


「おおおおおおおおおおっ!」


 内野手も咆哮で返し、応援団が歓声を上げるが、賢一郎は深呼吸をしていた。

 次の打者、三番は本山。明豊のキャプテンである。

 正念場である。

 一番も二番も油断できない相手だったが、この男、本山茂宗は要注意人物。秋季大会では七番だったが、当時はかなりやりにくかった。

 今回はどうだろうか。

 一球目、外角高めに外れるボール球。

 二球目、真ん中低めのチェンジアップ。見逃し、ストライク。

 三球目、同じコースに再びチェンジアップ。見逃し、ストライク。

 四球目、さらに同じコースだが、今度はストライクからボール球になる縦スライダー。

 見逃し。ボール。

 ツーボールツーストライク。

 追い込んでいるとは言えない。本山は微動だにしないのだ。ツーストライクまで見逃すと決めていたのかもしれない。

 五球目、内角高めのストレート。三塁線に切れるファール。

 六球目、同じコースへストレート。再び三塁線に切れるファール。


(変わってない。粘るんだよなあ、こいつ)


 粘って粘って、ピッチャーを疲れさせてヒットを打つ。春の選抜でもこの調子で、試合が進むごとに打順が上がっていき、準決勝からはいまの三番に定着していた。


(明豊には珍しい地元組、だったか。どうする、国虎)


(ストレート)


(……打たれるぞ)


(低めにストレート。何度も言ってるだろ。想定済みなんだよ、打たれることは)


 迷いはあったが、賢一郎は従った。

 国虎は深呼吸をして、大きく振りかぶった。

 左足を踏み出し、踵から地につけて膝に体重を乗せ、ぐんっと身体を前へ引っ張っていく。

 全身の力を、余すところなく指先に伝え、ボールを投げる。

 本山はバットを振り、当てた。

 鋭い打球が国虎の脇を突き抜けて、ショートが捕球した。

 ショートライナー。スリーアウト、チェンジ。 


「おっしゃああああああ! 攻撃だああああ!」


 国虎が咆哮を上げる。観客席の熱気も大きく膨れ上がった。

 呆然となりながら賢一郎はベンチに戻る。防具を外してもらっていると、国虎に叱られた。


「野手を信用しろ。アホ」


「……おう」


 ベンチに座って、賢一郎はメンバー全員を見渡した。

 極端なエラーの少なさ、繋いでいく打撃の上手さ、県内では非常に優れている。技術面でいえば明豊に次ぐレベル。全国にもそうはいないだろう。

 では、精神はどうだ。

 とても集中している。

 緊張しすぎていたり、緩みきっていて上の空だったりしない。最高の状態だった。

 本山の打球は、普通ならばヒットだ。ショートが真正面から捕球したのは、どこに飛んでくるかを予想して、事前に動いていたからだ。

 忘れていたわけではなかったが、賢一郎が離れていた間も懸命に練習を続けてきたのだ。


 ――みんな、強いなあ。


 口には出さないが、賢一郎の素直な感想だった。

 総合的な実力では明豊に劣っているのは火を見るより明らかだったが、賢一郎は思った。

 負ける気がしない。


                  ○


 一回裏、大須の攻撃。

 守る明豊、投げるのは当然クリス。気力体力、ともに充実している。右手も左手も、隅々まで意識が届いていた。絶好調である。

 それでも、本山から注意を受けた。


「甘く見るな。さっきの俺の打席、ヒットになるはずだった。やつら、読んでいたんだ。どのコースにくるか。相当、準備してきてるぞ」


「せやろうね。打撃でもあの手この手を駆使してくるのは当然や。でもな、どっしりとしとかなあかん。やないと、俺の一五〇キロが泣く」


「わかってるならいい。いつもどおり、力と技でねじ伏せるぞ」


 ぐっと親指を立てて、クリスはマウンドに向かっていく。

 第一打席、クリスは最初から右手で投げる。

 観客とバッターの度肝を抜く、初球からのストレート。ど真ん中。

 見逃し、ストライク。

 二球目、同じコースに同じストレート。

 これも見逃し、ストライク。

 三球目、同じコース、同じストレート。

 アウトになるので振らざるを得ないが、間に合わない。

 バットを振った瞬間には、本山が構えるミットにボールが収まっていた。


「ストライーック! バッター、アウッ!」


 明豊の応援団が太鼓を打ち鳴らす。


 ――ク・リ・ス! ク・リ・ス! ク・リ・ス!


 一般の観客も合わせて声援を送ってきた。

 ストレートのみ、ど真ん中を投げ続け、三球三振。絵に描いたような圧勝劇。

 誰もが羨む最高のスター。本物のスター。これがクリス・ロビンソン。


「さあ、ちゃかちゃかっと終わらすでー!」


 自信満々に宣言したが、あいにくそうはならなかった。

 二番打者、特に注意すべき相手ではなかったが、初球ストレートに、バントの構えを見せた。

 セーフティバント、慌ててサードとファーストが前に飛び込む姿勢を見せたが、打者はバットを引いた。

 ストライク。

 本山からボールを返してもらい、クリスはすぐに投げず、サインを待つ。


(早速揺さぶってきたけんど、どないする。本山ちゃん)


(驚くこともない。次はこれだ)


(あいよ)


 二球目、ようやくストレートをやめて、スローカーブを投げた。

 球速は一〇〇キロ。ストレートに比べると超遅球。右打者の二番からは、自分に直撃するコースからアウトローに大きく曲がっていく軌道だ。

 バント、やりたければどうぞ。

 研究しているはずだ。ここからストライクコースに入ってくると。頭に叩き込んでいるはずだ。しかし、本当にバントをするのが目的ではない。

 その証拠に、彼はバットを引いた。

 ツーストライク。

 クリスはボールを返してもらい、本山のサインを待った。


(さあ、どうする?)


(さっきよりボール一個だけ外側へスローカーブ)


(また厳しいのを。できるけんど)


 打者は、今度はバントの構えをとらなかった。

 短くバットを持ち、大きく曲がるスローカーブを打ちにきたが、空振り。三振。

 元々のバントの構えは球筋を見極めるためのもの。特に、ストレートの球速に目を慣れさせたかったのだろうが、そんなことをわざわざ許してやるつもりはない。

 ツーストライクになると、ファールで粘るためカットしにくるだろうとわかっていた。そこでスローカーブをもう一球。

 打者は誘われるように手を出してしまうが、予想よりもわずかに外へズレていたので、空振り。というわけである。

 続いて三番。

 大須高校野球部キャプテン、安芸国虎。

 名前の通り、飢えた虎のようにギラギラした目つきを打撃でも放っていた。


「こいやおらあああああああああああ!」


 うるさい。打席に立つ前、ネクストサークルでも全力で素振りをしていた。

 投手なんだから体力温存するのが定石だが、この男の頭にそんなものはないようだった。世間は、こういう男もよく好む。高校生らしい、気迫に満ちた野球選手というやつだった。

 クリスは彼に感謝している。

 彼がいなければ、賢一郎の存在を知ることがなかっただろう。ただの、すごい大打者がいたらしいというだけに終わっていたはずだ。大須の立役者、である。

 さて、どうするか。

 国虎もバッティングが上手い。選球眼もよく、度胸がある。ピッチャーなのにデッドボールを恐れず、ぶつかってくる。

 本山は、左に代えるようにサインを出してきた。


(こいつには、遅い球で重点的に攻めていくぞ。いちいち合わせる必要はない)


(了解)


 グローブを持ち替えると、観客がどっと沸いた。クリスが投手でなければ見ることができない光景だ。これのためにくるものもいる。中には、気に食わないというものもいた。


 ――小細工すんなあ!


 聞き慣れた野次だ。甲子園でも散々言われた。

 その都度、心のなかでクリスは否定した。


(小細工やなくて、大細工やっちゅうの!)


 まずは一三〇キロのストレートを内角高めに放り込む。

 国虎は積極的に振ってきたが、三塁線に切れるファール。

 もう一球、同じコース。

 これも国虎はファールにしてしまう。


(一五〇キロを待っとるところにこれは辛いやろ。じゃ、最後はこれ)


 三球目は、同じフォームから繰り出される、さらに遅い球。

 チェンジアップ。九五キロ。国虎はタイミングを完全に狂わせた。身体が勝手に動き出していたが、ボールが来ないのでバットを溜めておかなくてはいけない。なのに腕以外の身体は動いている。力が一点に集中しない。

 それでも、食らいついた。


「んんがあああらががががああああああ!」


 奇声をあげ、倒れながらもバットを当てた。

 打球はふわりと上がっていく。

 これでスリーアウト、チェンジ、とはならなかった。

 虚仮の一念、岩をも通す。

 国虎の打球は真正面、ピッチャーであるクリスの真後ろへと飛んだのだ。ショートとセカンドのちょうど中間地点。センターも駆け込んできたが、ぎりぎりのところで手が届かなかった。その間に、国虎は一塁にヘッドスライディング。

 ポテンヒット。

 大須の応援団が盛り上がった。

 激しく太鼓が打ち鳴らされ、吹奏楽部の演奏が響いていく。それだけ、クリスから打ったというのは大きかった。球場全体に砂漠の嵐のように熱気が吹き荒れる。

 次の打者は、四番。

 四番、相良賢一郎。

 クリスはサインを待たず、グラブを持ち替えた。


(初っ端からピンチやな)


 賢一郎を相手に緩い速球と多彩な変化球など効果はない。

 今大会の打率、ふざけたことにフォアボールを除けば十割である。明豊の四番でさえ七割だ。弱小校が相手だろうと打ち損じというのはあるものだが、賢一郎は例外である。

 クリスは思った。

 もし、賢一郎がイップスから復活しないままだったら、今年も明豊の甲子園出場は決定していただろう。大須が決勝にまでくることもなかったかもしれない。春夏連覇というのもあっさりできたはずだ。

 世間は大盛り上がりだ。クリスは完全無欠のスターとなり、ファンレターにラブレターに、いまよりもっともらうだろう。日本プロどころか、メジャーからも直接呼ばれることもあったかもしれない。


(でも、この気分は味わえんかったやろう)


 深々と頭を下げてから、賢一郎は打席に入ってきた。

 大きな男。身体のありとあらゆる箇所が大きい男。

 穏やかな、大仏を思わせる顔つきをした、類を見ない大打者。

 相良賢一郎。

 クリスは自分から本山に要求した。


(本山ちゃん、ストレート)


(ダメ。その前に、フォーク。ワンバウンドで。俺はお前らの勝負に興味ないんで)


(……敬遠を言われんだけマシって思っとこか)


 指示通り、一球目はワンバウンドするほどに低いフォーク。

 賢一郎、見逃し。ボール。

 二球目は、外角低めのストレート。わずかにボールになるコースへとの指示。


(よーいーせっ!)


 クリスは力がみなぎっていた。

 一番、二番、三番と手抜きをしていたわけではなかったが、賢一郎を前にすると全身の細胞が熱を帯びだしたのだ。

 球速は一五〇キロどころではない。一五八キロにまで達した。自己ベストである。

 誰も手が出せない。本山でなくてはキャッチも難しい速度。

 これを賢一郎は――、打った。

 フルスイングでボール球を打った。

 ぞっ、ぞぞぞっと、クリスの背中に怖気が走る。

 賢一郎のパワーは尋常ではない。打った瞬間、打球が消えた。

 直後、ガシャンとフェンスの音がして、観客が悲鳴をあげた。遅れて審判が宣告する。


「ファール」


 球場が、揺れた。

 ただのファールではない。ものすごいファールだ。角度が少し違えば長打は確実。大須応援団は賑わい、明豊応援団は必死になっている。まだ一回裏だというのに、異様な熱気だ。

 審判から受け取ったボールを本山がクリスに投げてくる。

 新しい球の感触を確かめながら、じっと本山を見つめる。


(ビビっちゃあへんよね、本山ちゃん)


(ビビるわ! なんでいまの球を打てるんだ!)


(天才やから、やろ。ほなら敬遠でもするか?)


(しない。勝つために必要なのは、こいつを全打席、打ち取ることだ。こい)


 本山がサインを出した。

 怖気づいていない。明豊のキャプテンらしく、ガツガツに攻めていく姿勢だ。


(グゥゥッド……。最高やで。頑固一徹、本山ちゃん! いいね!)


 明豊は全国各地から有望選手を探し出し、スカウトをしているのだが、本山はそこにいなかった。一般受験で明豊に入り、野球部に入部。二軍どころか三軍からスタートした。

 クリスが初めて彼の存在を意識したのは、部内での交流戦だ。二軍と三軍を混ぜ合わせての紅白戦である。

 このような試合は何度となく行われていたが、クリスから本山への印象はよくなかった。彼が座ると、ピッチャーはよく打たれていたのだ。

 よっぽどよくないリードをするのだろうと噂が立っていて、投げていたものたちも無茶苦茶だと語っていた。今度はクリスが投げると言うと、同情までされてしまった。

 ところが実際は違った。

 本山は、普段はおとなしいのにキャッチャーとして座ると、怒涛の攻めの姿勢を見せた。

 顔面にスレスレになる内角高めのボール球や、際どいところから、いきなり打者が得意とするコースだったり、暴投したかのような超外角へと要求する。

 どれも無茶苦茶だが、本山は一打席だけを見据えているのではない。その後の全打席を見据えて、そのリードをしていたのだ。

 ボールへの恐怖感を植え付けたらへっぴり腰になってまともなスイングができなくなる。甘い球を見逃してしまったら、次こそはと力んでしまい、ほかの球になかなか手が出ずあっさりと追い込める。暴投を思わせることで、コントロールが悪いと錯覚させる。

 全部、計算しているのだ。

 一打席ではなく、試合に勝つために。

 しかし、生半可な高校生に求めるものではない。

 デッドボールは投げたくないし、甘いコースに投げてもし打たれたらと気後れする。加減がわからずに本物の暴投になったりする。

 ピッチャーの能力を最大限に利用する、という点ではキャッチャーとして不適格。だが、試合を支配し勝利への道筋をつけるという能力では一級品だった。

 彼の要求に、クリスの才能はピタリと噛み合った。

 二人ともに、一年の冬には一軍に昇格。二人して春季大会に出場し、夏には二年生バッテリーとして活躍した。そのまま勝ち続けた。

 この最後の夏も、勝つ。

 大打者でも、大打者でも、勝つ。

 相良賢一郎にも勝つ。

 クリスは振りかぶって、投げた。

 チェンジアップ。真ん中高めの、打ち気を誘うボール球。

 賢一郎は、フルスイング。

 打ち上がったが、高く高く飛んでいき、フェンスを超えて観客席に入っていった。


「ファール」


 これでツーストライクと追い込んだが、油断はできない。


(相良、あそこは身体がぎくしゃくしてフォームが崩れるところやぞ。なのにフルスイング。読んでたんか? いいや、その程度のレベルやない。本山ちゃん、わかっとるやろうね)


(ああ、こいつにはやっぱり緩急差ってものが通じない。スイングスピードが段違いだ。変化球でも構わず打たれるだろう。遅ければな。だったら、これだ)


(うっし。んじゃ、空振り三振といきますか!)


 振りかぶって、全身を前に引っ張り出しながら投げた。

 球速は一四九キロ。高速だが、ストレートではない。

 賢一郎の膝下、ストライクコースの低めいっぱいに走っていくが、打者の手前で落ちてしまうフォークだった。

 狙い通り、賢一郎はスイングに入った。

 軸足に体重を乗せて、バットを振りかぶって――、止まった。

 賢一郎は直前にバットを止めた。落ちていくフォークを見逃した。

 クリスは口元に笑みが浮かぶのを止められなかった。

 えへっ、えへっと、感動で笑ってしまう。


(本山ちゃん、すごすぎない、こいつ。いまの止められるの?)


(できるわけねえだろ。完全に振る流れだったぞ。こうなったら力押しでいくぞ)


(あいよ。ストレート勝負やね)


 クリスも本山も腹をくくったが、意外なところからストップがかかった。

 審判がコールしたのだ。


「スットライック! スリーアウト、チェンジ!」

 

「えっ」


「えっ」


「えっ」


 クリスも本山も賢一郎も、三人共が耳を疑った。

 だが、審判は確かにコールした。

 三振だと。


                 ○


「かっとーばせー、め・い・ほう!」


 二回表に移り、明豊の四番が打席に立つ。応援団も沸き立っていた。

 土佐新聞の記者、一条房美は記者席ではなく一般席のバックネット裏に座っていた。彼女も仕事できているので試合に注目しなくてはいけないのだが、視線は手元に用意してあるスコアブックに注がれていた。

 自分で今日のスコアを記録していたのだが、彼女は首をひねっている。

 不可解なものがあった。

 賢一郎が見逃した低めいっぱいのフォークだ。

 ストレートとほぼ変わらない球速で、打者の手前でストンと落ちる理想的なフォークだが、本当にストライクだったのだろうか。


「クリスくんも、本山くんも、相良くんも、三人ともがきょとんってなってました。相良くんだけならまだしも、クリスくんたちもだなんて……。本当に入っていたんでしょうか、ねえ」


 一条は隣りに座っている、腹がでっぷりと太った男に尋ねた。

 賢一郎の恩師、三好である。昼間からビールを飲んで、ぼんやりと見守っていた。

 彼は表情に変化を出さず、淡々と答えた。


「審判がストライクって言ったらストライク。微妙な判定なるものは存在せんよ」


「そういうことを聞いているわけではありませんが」


「わかってる。審判が判断を下す根拠は、いまのは打つべしって球がストライク。それ以外はボールってもんだ。問題なのは、審判も人間ということ」


 球審に塁審、合わせて四人の審判員がグラウンドに立っている。

 選手だけでなく彼らにも相当のプレッシャーが掛かっているはずだった。


「とびっきりのスターが投げてて、超がつく大打者が立ってて、これほどまでの熱気が充満していたら、その感覚も狂ったりするんだ」


「治るのですか、それ」


「治ったとしても、途中から変更はできんよ。今日は、今日のストライクゾーンで試合を進めるしかない」


 ピッチャーにとって有利なのか、不利なのか、一概にいえない。打者も、審判がストライクだというのなら、ストライクだと判断して打つだけである。

 明豊の四番は、普通ならボールになる外角低めのチェンジアップに手を出してゴロを打ってしまう。まずワンアウト。


                 ○


 試合は、膠着状態で進む。

 賢一郎と本山、両キャッチャーがストライクゾーンを確かめるためにボール球を要求していったのだが、やたらとストライクの判定になってしまって三振が積み重なったのだ。

 試合が動くのは、四回から。

 四回表、明豊の先頭打者、本山がレフト前にヒットを打った。

 続く四番。一巡目は広いストライクゾーンを利用して打ち取ることができたが、流石に明豊の四番である。二打席目には対応するようになっていて、ライト前に狙い打たれてしまった。

 シングルヒットですんだとはいえ、ノーアウト一塁、三塁。大ピンチである。ここで手を緩めてくるような相手ではない。明豊は貪欲に点を奪いにくる。嫌な手段を選んでくる。

 五番打者は、打席に入った瞬間にバントの構えを取った。

 スクイズ。


(いやらしい。強豪らしい、いやらしさ)


 このピンチを切り抜ける方法は、いくつかある。

 三者連続三振でスリーアウトか、牽制で三塁の本山と一塁のランナーをアウトにする。

 もちろん、論外である。ラッキーにも程がある。

 あとは敬遠しての満塁策か、サードに強いゴロを打たせて三塁ランナーをその場に釘付けにして、二塁、一塁へ送球してダブルプレー。

 この二つのうち、バントの構えをされたので後者はもうできない。

 ならば敬遠かというと、満塁策は大量失点のリスクが伴ってしまう。そもそもツーアウトならまだしも、ノーアウトでやるのは厳しすぎた。

 賢一郎は国虎を見つめた。


(いいな……?)


(それしかねえだろ)


 国虎が首を縦に振るのを見て、賢一郎はマスクを取って立ち上がった。


「前進! 前にこい、前に!」


 腕を大きく振って手招きする。

 国虎も一緒に声をかけた。


「前進だ! 全員、前にいけ!」 


 内野陣、一塁手、セカンド、ショート、サード、全員が前に進んできた。

 バントシフト。転がってきたボールをすぐに掴める守備位置だ。

 内野はスクイズ封じに絞った。大勝負だ。

 賢一郎はマスクを被り、ホームベースの後ろで構えた。


(山場ってやつだ。国虎、ここが正念場だぞ)


(わかってらあ。いいぜ、綱渡りをやってる気分だ。いや、野球か。野球だぜ、痺れそうだ)


(力のある球を、頼む)


 一球目、国虎はストレートを放ってきた。

 真ん中外角より。甘いコースだったが、すっと打者はバットを引いた。


「ストライク!」


 賢一郎はボールを返した。

 二球目は、打者から遠く離れた高い球だった。


「ボールッ!」


 審判の宣言がどこか遠くに聞こえた。

 さっきのボール球は、スクイズを失敗させるためのものだった。

 スクイズというのは阿吽の呼吸が必要になる。

 ランナーはホームベースに突っ込んでくるのだが、かなり早い段階で走り出しておかなくてはいけない。ピッチャーが振りかぶった瞬間、というところだ。これより遅ければ、バントが上手くてもホームに突っ込むのが間に合わなくなるかもしれない。

 よっぽどのヘボでない限り、このタイミングを逃さないだろう。本山は無論、そんなレベルではない。

 賢一郎と国虎は、このバントを失敗させようとするのが第一目的だ。

 打者から遠いところにボールを投げたら、バットが届かず、賢一郎が捕球できる。三塁と本塁とで本山を挟んで、追い込んで、アウトにできる。

 この間に一塁ランナーは二塁に進むだろうが、当面の窮地は脱しきれる。

 三球目、同じく大きく外したボール。

 ここで、もう一度賢一郎は大きく叫んだ。


「全員、もっと前だ! 前、前にこい!」 


 応じて、全員が前に歩いてくる。

 緊張する。

 大須と明豊の応援団の声援が入り乱れて、しっちゃかめっちゃかになっている。秋季大会だったらここで調子を崩していたかもしれないが、いまの賢一郎はよく集中していた。

 国虎を見る。

 内野陣を見る。

 外野を見る。

 球場全体を見渡す。


(餌は撒いた……。さあ、やるぞ)


 三球目、極端に低いストレート。普通ならボールだが、今日に限ってはストライク。

 打者はスクイズを、しない。

 バットを引いて、短く持ち直し、スイングに入った。


(――バスター! いや!)


 賢一郎の視界に、一塁ランナーが走り出す姿が映った。


(バスターエンドラン!)


 打席に立つのは明豊の五番。センスがあった。

 国虎のストレートを、強く打ち返す。

 フルスイングのような力はないが、打球は前進守備を取っていたファーストとセカンドの間を抜けていった。


(スクイズじゃなかった)


 スクイズ、だったのかもしれない。前進守備を敷いたことで、バスターエンドランに組み替えたのかもしれない。

 どのみち、結果は変わらない。

 賢一郎と国虎の――、


(――読み勝ちだ)


「アウトッ!」


「アウトッ!」


 ホームベースを悠々と踏んだ本山がぎょっと二塁と一塁に振り返った。

 バスターエンドランは、失敗に終わっていた。


                ○


 クリスはぽかんとなっていた。

 スクイズと思わせてからのバスターエンドランは、完全に成功した。しかし、どういうわけか二塁と一塁とでダブルプレー。ツーアウトランナーなしで六番だ。予定では、ノーアウト一塁、三塁の状況が続いていたのだが。

 ベンチに戻ってきた本山に話を聞きたかったが、彼は苦々しい顔でベンチの隅に座ってしまった。早々と防具を装備している。

 なので、もう一人、神妙な顔をしている監督、十河に話を聞いた。


「監督、いまのなにが起こったんですの。俺、全然わからへんのですけど」


「……大須は、外野を捨てていたんだ。スクイズを潰すために極端な前進守備を敷いていたが、それは撒き餌だった。失点を防ぐことをは最初から諦め、バッターと一塁ランナーを殺すことを目的にしていた。

 バスターエンドランは上手くいった。一、二塁間を通り抜けていったが、前進していたライトが捕球して、二塁へ送球。二塁にいたのはセンターだ。で、センターは一塁に戻ったファーストに送球。これでツーアウトランナーなし、だ」


 仮に、外野フライを打っていたら長打になっていた。走者一掃していたかもしれない。

 だが、国虎と賢一郎は、打てないと踏んでいた。スローボールもチェンジアップもない。力のあるストレートで押してきた。

 説明を聞いて、ぐびりとクリスは喉を鳴らした。


「たまらん、たまらんね、監督。甲子園でもそんなんしてくるのおらんかったやん」


「甲子園は二十一世紀枠でない限り、地力を持って県大会を勝ち抜いてきた強豪だ。そんなバクチをせずとも乗り越えられるという自負がある。大須にはない。ないが、弱いわけじゃない。このバクチを乗り越える神がかった集中力を持っている。お前たちにもないものだ」


 十河はそこでふっと立ち上がり、スコアボードに目をやった。

 つられてクリスたちも目を向ける。

 一点、入っている。

 力を込めて、十河は言った。


「それでも一点は一点だ! 私たちは先取点を取ったのだ! 忘れるな! 試合を動かしたのは、私たちだ! クリス、締めていけ!」


「オッケーィ!」


 六番打者は粘ったが三振に取られ、スリーアウト、チェンジ。

 マウンドに上ってから、クリスは左右に目を向けた。

 先ほどの好守備、観客のほとんどにはなにが起こったかわかっていないだろう。

 理解できたのは野球に精通している人物、記者の一条やプロのスカウト、あとは試合を見学しているどこぞの野球部員くらいだ。

 あと、当然ながら大須高校の部員たち。

 ベンチ前で吠えている国虎の声がよく通っていた。


「勢いを繋げるぞ! かましていけぇ!」


「オォッス!」


 先頭打者、二番も大きく吠えて打席に入ってきた。バットを短く持っている。

 速球待ちである。勢いに乗って、クリスの得意球である最高のストレートを打ち返そうとしている。

 本山は、左に変えて変化球を要求した。付き合う義理はないと。

 クリスは首を横に振った。


(本山ちゃん、ダメよそれ。左で簡単に打ち取れるろうけんど、わかるやろ。二人を三振にしても、相良が回ってくるんやで)


(相楽が回ってくるから右のストレートは残しておきたいんだ。万全を期しておきたい)


(ちゃうちゃう。本山ちゃん、いつものように考えや。この回だけやなくて、試合に勝つんが目的やん。うちらのバスターエンドランを封じて、失点を一に抑えた。ここで、勢いに乗る大須を黙らすのには、なにがええん?)


 座り込んだまま、本山は考え込んで、ど真ん中にミットを構えた。

 ストレート。最高のストレート。

 クリスは笑った。


(いくで、ほな)


(こい)


 大きく振りかぶってから、最高のストレートをクリスは投げた。

 打者は、手も足も出ない。

 いや、手も足も出させない。それがクリスのストレートだった。

 あっさり三振に取り、ワンアウト。続く三番打者は一回でしょぼいヒットを打った国虎。


「さっきはしょぼかったけどな、今回はどでかく打ってやらあ、ボケ!」


 うるさい。

 毎打席こんな調子で叫ぶのだろうか。叫ぶのだろう。ほとんど知り合いくらいの関係だが、そういう性格だとは把握できていた。

 この性格の相手に全球ストレート、というのは危険だ。変化球や緩い球で崩すべきだが、この瞬間は、明豊が勢いに乗る番だ。

 かまわず、投げた。


「くそったれええええええええええええええ!」


 ファールを二球挟んだが、最後は空振りで三振。ツーアウト。

 そして、四番、相良賢一郎。

 一打席目はクリスたちにとってのボーナスだ。この二打席目からが本番。

 本山が最初に要求してきたのは、外角高めへのスローカーブだった。

 右打者の賢一郎の外へ外へとゆっくり流れていく形になる。打者の背中から大きく曲がっていき、ストライクコースに入ってきてしまう。

 しかも、クリスは曲がり具合を調節できる。ストライクコースからさらに外、ボールにすることもできるので、引っ掛けさせて打ち取ったりしてきた。

 今回、本山が要求したのはそのボールになるスローカーブ。

 はてとクリスは訝しんだ。


(目を慣れさせるなんて言わへんよね)


(言わねえ。こいつのバッティングをじっくり見たいだけだ。いいか、絶対にボールになるスローカーブだ)


(……わかった。信じるで)


 指に意識を集中させて、クリスは投げた。

 狙い通りに賢一郎の背中へと向かっていき、そこからぐううぅぅっと重力に引っ張られるようにして曲がっていく。

 大ボールからストライクゾーンへ、さらにそこから外にズレていくが、賢一郎は振った。

 打球は一塁線、その線上をすっ飛んでいったが、ほんのわずかに切れた。

 ファール。あと少しで三塁打といったところだった。ぞっとしない。

 クリスはじろりと本山を睨みつけた。


(で、なんかわかったんか?)


(ああ、わかったよ。こいつは同じバッティングしかしない。外でも内でも変わらない。ストライクゾーンには徹底的に手を出してくる。遅いのも、速いのも関係ない)


(無敵やんけ)


 どんな投手でも彼には勝てないということになる。

 本山はクリスにボールを投げて、ミットを構えた。

 内角高め、ギリギリボールになるストレート。

 クリスは眉をひそめた。


(どういうことやねん)


(どこでも構わず打ってくるというのなら、ボール球に手を出させる。それでもこいつほどのパワーがあれば、ホームランにできるだろう。でも、お前はちがう)


 本山の目が光る。


(お前の最高のストレートを投げてこい。打ち取るぞ)


(……いいねえ、いいねえ、最高や。本山ちゃん、最高のキャッチャーやで)


 クリスの全身に熱が入った。

 本山がスローカーブを投げさせたのは、改めて賢一郎のバッティングをじっくり見て、リードの参考にしたかったから。

 その結果、相良賢一郎が最高のバッターだと確信した。

 しかし、相対するのはクリス・ロビンソンという最高の投手である。

 どっちの最高が勝つか。本山は、クリスが勝つと信じた。


 ――燃える。


 観客や、偉そうに講釈を垂れるテレビのコメンタリーとはわけがちがう。

 明豊で三年間、苦楽をともにしてきた、クリスの球を受け続けてきた本山茂宗が、お前が勝つと言ったのだ。


「いくでえ!」


 大きく振りかぶって、クリスは要求されたコースへストレートを投げた。

 賢一郎の顔面ギリギリ、しかもボール球。ほかの打者なら仰け反って逃げるが、彼は構わず降ってきた。

 打球は真後ろへ飛ぶ。ファール。

 去年の秋では、あれで高いフライを打たれた。風に運ばれてホームランになった。

 いまは、負けていない。

 クリスはなんとなくわかってきた。

 どうして賢一郎を復帰させたかったのか。

 シンプルな答えだ。


「力で勝って、俺が最高やって満足したかったんや」


 最高のバッターを最高の『俺』が倒す。

 甲子園では強いチームばかりだった。強いバッターもいた。しかし、クリスの高みに届くものはいなかった。

 彼はピッチャーとして強くなりすぎてしまった。

 明豊へ入学したことは正しかったが、県内に相手になるものはいなかった。夏の甲子園で全国の選手と対戦したが、ぬるかった。

 クリスには誰も敵わない。その事実は、彼から勝負への意気込みを徐々に奪っていってしまった。やがて、称賛されること、いかにして見事に勝利するか、観客を沸かせるかに意識を傾けるようになっていた。

 そこに、相良賢一郎が現れた。

 幸運で勝ち上がってきた弱小校のはずが、いきなりホームランを打ってきた。その後、なんとか試合に勝つことはできたが、決着がついたとは思えなかった。


 ――なんのために野球をやっているのか。


 野球が好きだから。


 ――野球とはなんぞや。


 これまでクリスはハッキリと言葉にできなかったが、いまはちがう。


 ――ピッチャーとバッターの心を焼き尽くす勝負だ。


 いまが、それだ。

 世界がゆっくりと漂白されていく。クリスの集中力が、極限にまで高まっている。

 審判の姿すら見えなくなった。

 キャッチャーの本山と、バッターの賢一郎だけがクリスの世界にいた。

 振りかぶって、投げる。

 ストレート。

 内角高め、顔面スレスレのコース。

 普通は仰け反るが、賢一郎は逃げない。

 ボールを直視して、バットを振る。恐ろしく鋭いスイング。

 打球は高く上がっていき、一塁に落ちてきた。

 しっかり捕球。

 審判が叫ぶ。


「スリーアウト、チェンジ!」


 このとき、クリスの球速は自己ベストを更新。

 一六一キロにまで届いていた。


                ○


 観客席は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 特に明豊の応援団はもう勝ったような勢いである。

 四番を打ち取っただけではない。電光掲示板に表示された一六一キロなんていう大記録。大須の応援団さえも感嘆していた。

 記者席でも同じように上から下への大騒ぎ。地元記者だけでなく、全国紙の記者も急いで会社に電話をかけていた。テレビでも速報が流れているかもしれない。

 一条も感激し、目には涙さえ流していた。


「かっ、かっこいいいいい! クリスくん、すごい、すごい才能です! ここにきて、さらに更新するなんて」


 隣に座っていた三好も、太った腹にぎゅっと力が入っていた。


「恐ろしさすら覚える。ようやく、才能が開花したか」


「……ようやくって、いや、とっくにすごい選手でしたけど、クリスくん」


「すごかった、というのには異論がない。だが、彼の才能はあの程度ではなかった。高校野球が、クリスのレベルについていけなかったんだ」


 独壇場。高校野球はクリスの一人舞台となっていた。

 そこに、賢一郎が現れた。

 賢一郎は、唯一クリスに立ちはだかることができた壁だった。その壁があることで、クリスは成長する必要が生まれた。がむしゃらになったのだ。


「賢一郎の才能は、これまで見た中でもとびっきりだった。体格、動体視力、バッティング。文句なしだった。しかし、試合をすることもできず、チームを組めなかったのが哀れだ。環境さえ整わせてあげれば、もっと高みへと昇れたかもしれないのに」


「大須は、国虎くんが監督しているようなものですからね……」


「国虎には何度かうちで指導してくれって頼まれたんだがな。学校が許可せんのだよ。所詮は部外者で、野球部はちぃっとも結果を出していなかった。一年がなにを言ったところで聞いてくれるわけもない」


 三好が大須のOBであったら状況は変わっていたかもしれないが、詮無きことである。

 ため息をつき、三好はぼやいた。


「明豊の大勝になるかもしれないな」


「理由は、打てなかったからですか。相良くんが」


「ああ。大須の守備は賢一郎が打ってくれるから保たれていたんだ。なのに、完全に抑えられた。影響が出ないはずがない」


 守備についた大須の面々は顔色が冴えなかった。

 そもそも地力では圧倒的に負けているのだ。それを極限にまで高めた集中力で補っていた。最悪、この回でコールド負けする可能性すらありえた。国虎からも声が出ていない。

 と、妙なことが起こった。

 五回表、明豊の攻撃が始まらない。

 キャッチャーの賢一郎が座らないからだ。

 彼はマスクを取って、ホームベースの真上に仁王立ちをしている。観客達はざわつき、国虎たちや打席に立とうとしている明豊の打者も困惑していた。

 審判が注意をする直前、球場に怒号が轟いた。


「――ホームランを打つ!」


 たった一人の叫びが、雑多な歓声をかき消した。

 賢一郎が、その大きな身体を震わせて、吠えた。


「次の打席で、俺はホームランを打つ! だから腑抜けるな! 集中しろ! 守りきれ! いつものとおり、全員で守って全員で俺に繋げろ! あとは、あとは俺がなんとかしてやる! いつもどおりだ!」


 そこまで叫んでから、ようやく賢一郎は腰を据えた。

 ふふっと、彼を育て上げてきた三好は小さく笑った。誇らしげであった。


「前言撤回。大須に入ったのは、あいつにとっていい影響があったようだ。明豊の大勝もこの一喝でなくなった」


 一条も、うんっとうなずいた。


「大須の子たちも顔に気力が戻ってきてます。試合はまだまだわかりません」


 五回表が始まる。

 初球、国虎はストレートをど真ん中に投げた。

 ストライクのコールが響く。

 電光掲示板には、一五〇キロと表示されていた。

 四番の声に、エースがピッチングで応えた。


                  ○


 自信などなかった。

 以前、秋季大会でもクリスの速球に圧倒されて、顔の近くに走ってきたボールに思わず手を出した。そのときはパワーと偶然に吹いた風でホームランになった。

 この第二打席では、パワーで負けてしまっていた。

 打てるのかと、自分自身に問うと、無理だよと答えてしまう。

 それでも、叫ばなくてはならなかった。


「俺は、打つ! ホームランを打つ!」


 あそこで叫んでいなかったら終わっていた。

 野球の守備は、扇の形をしている。キャッチャーはその要に位置する存在だ。

 ピッチャーにファースト、セカンド、サード、ショート、サード。

 ライトにセンター、レフト。

 グラウンドに出ている全員を見渡すことができる。三好にも教わったものだ。


 ――守備ってのにはそれぞれに役割がある。ピッチャーにはピッチャーの、ファーストにはファーストの、キャッチャーにはキャッチャーの、だ。


 じゃあ、その役割ってなんなんだと聞くも、三好は教えてくれなかった。

 いや、教えてくれはしたが、捉えどころのないものだった。


 ――キャッチャーは、ピッチャーの球を受けて、盗塁を防ぐ。あとは、扇の要であること、これこそが一番大事なことだ。


 聞いた当初はよくわからなかった。詳しく教えてもらおうとしたが、自分で考えることだと返された。自分で考えて、自分で答えを出す。キャッチャーの仕事だと。

 いまでも全然わからないが、一つ、確実なことは言えた。

 キャッチャーだけが仲間の顔を見ることができる。チームの状況を見通せる。


(俺だけが、手を打てる)


 だから、手を打った。

 ハッタリをぶち上げて、チームに気合を入れた。


(クリスのストレートを攻略できる確証はない。でも、いまは嘘でもいい。緊張の糸を繋ぎ止めておかないと、総崩れになる)


 効果は絶大だった。

 魂が抜け落ちたようだったナインが、顔を引き締めた。

 国虎も目を鋭くさせ、力のある球を投げてきた。

 おかげで大量失点の危険もあった五回表を無失点に抑え、一点差で試合を進めることができたのだ。

 ベンチ裏に戻ってくると、国虎が打席に向かう前に詫びてきた。


「悪かったな。キャプテンの俺が気合を入れさせないといけなかったんだが」


「それを言うなら、俺が打ってたらよかったんだ。おあいこってことで」


「……で、打てるのか?」


 無理、なんてのは言えなかった。

 部員たちは顔を向けてこないが、耳を傾けてきている。

 賢一郎はマウンドに立つクリスを見つめて、宣言するしかなかった。


「打てるよ」


「よし! 全員聞いたな!」


 国虎は目を爛々と金色に輝かせた。


「変わらねえ! なんも変わらねえ! クリスが一六〇キロを出したからなんだ! これまでよりも数キロ速くなっただけだ! 一打席目は審判のストライクゾーンがおかしかっただけだ! 二打席目はちっと驚いただけだ! 三打席目は、ちがう! こいつは打つ! 粘って粘って、粘りつくぞ!」


「オォスッ!」


 いつもの調子が戻ってきた。

 国虎はにやりと笑い、打席に向かっている五番打者、吉良に吠えた。


「ぶちかませえええええええええええええええええ!」


 コツを掴んだのか、クリスはこの回でもストレートで一六〇キロを叩き出す。

 内角に飛び込んでくるが、打者である吉良はビビらない。ボールに体当たりでもするように踏み込んでいく。

 この吉良は一塁を守っているが、控え捕手でもある。クリスが大須に乗り込んできたとき、彼の球を受けていた男だ。

 目がよかった。ストレートにも慣れている。

 一六〇キロにもついていき、ファールにした。

 ツーストライクから二球粘ったところで、吉良は大きく息を吸い込み、叫ぶ。


「……俺たちは、ロケットを飛ばすんだ!」


 ベンチの国虎も叫んだ。


「そうだ! 俺たちはロケットを、賢一を飛ばすんだ!」


 これは、賢一郎が何度となく言われた言葉だ。


 ――お前はロケット。俺たちは打ち上げ台。どこまでお前を飛ばせるかが勝負だ。


 大須野球部の核は賢一郎なのだと言ってきた。二年生にも一年生にも言い続けた。

 賢一郎は、何度も思った。


「そんなわけない」


 大須の核は国虎だ。

 国虎が造り上げて、引っ張ってきた。彼がいなければ賢一郎も勝ちにこだわることはなく、自分勝手に打つだけで満足していただろう。

 明豊に勝てるとしたら、国虎の力があってこそだ。

 打席にいる吉良はクリス相手にもう一球ファールで粘ってから、いきなりバントを試みた。

 打球は真正面へと転がっていった。明らかな失敗バントだが、吉良は全速力で一塁に走ってヘッドスライディングをした。

 アウト。

 余裕のアウトだった。

 吉良からは、ヘッドスライディングをする前にファーストのグラブにボールが飛び込むのが見えていたはずだ。

 なぜそんなことをした。ユニフォームが汚れるし、体力も使う。ベースに突き指するなんてつまらない事故もあるかもしれない。

 わかりきっている。

 勝ちたかったからだ。

 バントをしたらうまいところに転がってくれるかもしれない。クリスか誰かが処理を失敗するかもしれない。悪送球をするかもしれない。キャッチをミスするかもしれない。ベースから足が離れているかもしれない。

 可能性だけならあるのだ。山程。

 野球に完璧なプレーは存在しない。

 賢一郎と国虎はベンチから出て、声を張り上げた。


「吉良に続けええええええええええ!」


                   ○


 これは本当に県大会の決勝なのか。

 いや、これこそが甲子園には存在しない、県大会の決勝なのだ。

 明豊の監督、十河は表情を変えていなかったが、戦慄を覚えていた。

 一六〇キロを叩き出した瞬間、あとはクリスの独壇場になると思っていた。観客席でも同様だ。明豊応援団だけでなく、大須応援団もである。それほどまでの才能、スターだ。賢一郎さえも三振に仕留めたことが決定的だった。

 だというのに、試合の緊張感がまるで和らいでいない。

 国虎は快投を続け、大須は好守備を連発する。ファインプレーよりも堅実なプレーというのが彼らの主義であったが、もはやそんなことにこだわっていなかった。どんな打球にも必死に食らいついていた。

 打撃でもファールで粘ろうとして、無理だと判断するとバントを仕掛けてくる。

 バントは一塁線や三塁線に転ばすのが鉄則だが、彼らはピッチャー、クリスのそばに打球を置いてくる。全員が異様に上手く、狙い通りに成功させている。

 目的は明白。疲れさせようとしているのだ。

 嫌な汗が十河の背筋を流れていく。


(これが甲子園にはない怖さだ……)


 十河は喉がカラカラに乾いていた。唾液が一滴も出ない。

 甲子園というのはなにものにも代えがたいブランドだ。出場するだけで箔がつく。そこには欺瞞と金と賭け事が渦巻いていて、綺麗なものだけではないのだが、伝統というものがあった。

 サッカーやラグビーなど、ほかのどんなスポーツでも太刀打ちできないものだ。その伝統が、明豊学園の障害になっていた。


(夏の甲子園を準優勝、春の選抜を優勝……。その経験は強さにつながる。だが、甲子園に出場していないというのも強さになる)


 選手たちの意気込みであったり、学校のOBや地元の商工会などの応援団、判官びいきの観客たち。そのすべてが一体になってしまう。

 こういうときに奇跡が起きる。史上最高の投手が打たれる、なんていうストーリーを世界が望むのだ。

 六回裏を終えて、選手たちが戻ってくる。十河は視線をグラウンドからそらさずにベンチのマネージャーに質問した。


「クリスの投球数は、これでいくつになった」


「七〇球、ジャストです。いいペースですね」


「……そう思うか?」


 マネージャーは首を傾げたが、クリスの球を受けている本山は、十河と同じ懸念があったようだ。

 彼はベンチに戻ってくると、装備も外さずに報告をしてきた。


「クリス、コントロールがブレ始めてます」


「原因は、ストレートか」


「おそらく。一六〇キロのストレートに感動しましたが、いつもより余計に体力を消耗しているのかもしれません」


 悩みどころだった。クリスはいま、ベンチに座って休んでいる。汗を拭き、お茶を飲んでリラックスしている。本人の顔は明るいもので、疲労の影はない。

 ここに至って去年の夏と春との経験が痛かった。

 クリスは甲子園のマウンドで投げきった。そのため体力に自信がある。実際、両腕を駆使するので並の投手の二倍はスタミナがあるということになるが、あくまで上半身だけの話だ。腰と足、下半身は酷使されてしまっている。

 そこに、今日になって一六〇キロの投げ方を覚えた。普段以上の力を使ってしまっているはずだ。さらにバント攻勢を仕掛けられた。

 些細なこと、といえばそうかもしれない。

 しかし、今日だけはその些細なことが命取りになりかねない。

 十河は険しい顔で、クリスに聞こえぬよう本山に囁いた。


「なるだけ左で投げさせろ。あいつは右で投げたがっているだろうが」


「了解です。ただ、確実に、あと一回は打席に立ちますよ。相良が」


 左の変化球では打たれる。


「そのときだけは、右でいけ。力で押せ」


「わかりました。クリスにこのことは……」


「言うな。苦労するだろうが、なんとかあいつを調子よく投げさせてくれ。頼んだぞ」


 監督のできることは、少ない。グラウンドに出てしまえばどうすることもできないのだ。

 選手を鍛え、データを揃え、作戦を指示する。実行するか、はたまた土壇場で独断をするかは選手に託すしかない。

 七回表、先頭打者が三振に倒れる。カットで粘っていたが、縦スライダーで空振りを取られてしまった。

 十河は粘るように指示を出した。

 なんとかクリスを休ませたい。

 この裏、賢一郎の打席が回ってくるのだ。


                   ○


 七回表、ヒットを二度打たれるも、なんとか国虎は無失点に抑えた。

 綱渡りのような状況だ。国虎は限界以上の力を出していて、まだ百球も投げていないのに疲れが見え始めていた。

 この奮闘を繋げるために、賢一郎は絶対に打たなくてはいけなかった。

 二番打者がクリスの左の変化球を空振りする。右のストレートのような速度はないとはいえ、キレは格別。一流には変わりない。カットは難しい。ただ、バントならできる。

 一塁線や三塁線に沿って転がすというのはできなくとも、ピッチャーのクリスに捕らせることはできる。

 セコい攻撃だ。バントを見せることで内野陣を身構えさせて、初球からいきなりやったり、明らかなボール球に飛びついたりもした。ファールになれば自動的にアウトになるスリーバントもやり、バットを引いてバスターの素振りを見せたりもした。

 全員が考えに考え抜いて、か細い蜘蛛の糸をたぐるように、わずかにでもクリスを疲れさせようとしていた。

 勝ちを諦めていない。

 賢一郎のハッタリを信じている。

 二番はボールをクリスの真横へと転がせていった。彼は足が速かったが、間に合わない。アウトになる。

 三番、国虎が打席に立った。

 目つきは変わらずギラギラとしていた。打ちたがりであるが、彼も、ここではバントの姿勢になった。

 フルスイングをすればヒットが出るかもしれないが、そんなものを求めてはいない。後に続く四番、賢一郎のホームランを願っている。

 そのために五番の吉良から全員が、自分の打席を捨て続けてきた。次の一瞬のために。

 コツンと当てた打球はころころとクリスの正面に転がった。すぐに拾って、アウト。

 ツーアウト。

 ウグイス嬢が、呼ぶ。


 ――四番、相良くん。


                  ○


 静かだった。

 球場全体が静かだった。賢一郎、大型四番の登場だというのに空気に変化がない。これまで完全に封じられたこと、クリスが一段階成長したことで、球場内では格付けが決定されてしまった。

 クリスが上、賢一郎が下。

 華はクリス、賢一郎その他は養分。

 そのはずだが、大須によるバント攻勢で雰囲気が変化した。

 卵だ。この球場そのものが卵となって、得体の知れないものが生まれようとしている。そんな雰囲気になっていた。

 なにが生まれるのか。

 ひよこか、はたまた龍か。怪物か。

 期待があった。希望があった。


 相良賢一郎は何者なのか――。


 凡人か。

 それとも。

 怪物か。


 クリスはグラブを左に持ち替えた。

 賢一郎が打席に立つ。

 バットを長く持ち、どっしりと構えた。いつものように。

 初球、クリスはストレートを投げた。

 外角高めのボール球。

 これまでの賢一郎なら手を出してたコースだが、見送った。速度は一六二キロ。自己ベストをさらに更新。左で投げてたおかげで休養ができたのか、力が増していた。

 賢一郎は穏やかな顔だった。

 大仏のような顔が、とことん極地にまで至ったような落ち着きだ。まるで、悟りでも開いているかのようだった。

 彼の胸中に、焦りはなかった。


(観客が熱心なのはわかった。身勝手だが、自分と重ね合わせてるっていうのは、理解できなくもなかった)


 昔のこと。賢一郎は、田舎に生まれたことを呪った。

 幼いころはともかく、年頃になるとせめて街の近くで暮らしたいと思うようになった。

 家の周りは緑しかない。綺麗な川が流れているが泳ぐには浅く、流れも急だ。ちょっとの雨ですぐ増水して、小さなころに溺れかかったことがある。


(クソみたいな辺境だ。遊び場も遊び相手もいない。もっと都会に生まれていたら、たくさんのことができたはずだった。グレるって選択肢もなかった)


 テレビで、ネットで、子どもながらに頑張って称賛されているものを見るとイライラした。


(俺だってここにいなかったら……)


 両親に文句を言ったこともある。

 街に一人で、徒歩で向かおうとしたこともある。

 結局は、山から降りてもまだ田舎で、夜になって親に見つかり、連れ戻された。そういうことの積み重ねで三好がやってきたのだろう。


(なんで野球だったのかは知っている。お偉い人が野球部出身だったからだ。くっそつまんない理由だな)


 そんなことで、賢一郎はこの場に立っている。そのお偉い人もテレビでこの試合を見ているかもしれない。

 感謝をしているかと言うと、全然していない。どうでもいい存在だ。


(俺がこの場に立って、クリスの前に立って、バットを構えているのは、俺たちのためだ)


 大須じゃなくてもっと強豪に入っていれば去年、いや、一年のころから活躍できていたかもしれない。

 甲子園のスターとして、クリスと人気を二分する存在になっていたかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

 大須に入っていなければ、この瞬間はなかった。

 八人が自分の打席を捨てて、賢一郎に回してきた。打つと、ハッタリを信じてくれた。まぐれヒットなんてものにすがらなかった。


(不思議な感覚だ。自分が自分でないみたいだ。これもプレッシャーであるが、秋のように身体がバラバラになったりしない)


 いまにも、ロケットのように空を飛べそうだ。

 クリスが二球目を投げてくる。今度は内角高め、顔面スレスレだった。

 賢一郎の目の前を通っていった。判定はボール。

 三球目は、低めからストンと落ちるフォーク。ストライクゾーンが通常より広くなっているが、これもボール。

 スリーボール、ノーストライク。

 あっと、賢一郎は思った。


(次、くるな)


 クリスの目で理解した。

 全力のストレートを投げてくる。

 大きく振りかぶって、足を踏み出して、全身で前に出て、腕を鞭のようにしならせる。

 速い。

 速い。

 空気を貫く弾丸が迫ってくる。

 内角高め、今度はストライクコース。

 見逃してもいい。

 まだワンストライク。余裕がある。

 いや、振ろう。バットを振ろう。

 気持ちのいいストレートだ。

 美しいストレート、光り輝くストレート。

 打ちたい。こういう球をこそ、打ちたい。

 打ち頃の球ではない。打ちにくい、最高の球だ。

 こういう最高の球を、最高のスイングで打ちたい。


(俺は、大須高校野球部の四番だ。四番ってのは、フルスイングするもんだ。どんな球にも。こんな、すごいストレートにも。そうだろ、国虎)


 ――そうだろ、クリス。


 ――ほら、こんなふうに。


 ――フルスイング。


 カァンと、空に透き通るような打球音が響いた。


 四番、相良賢一郎。


 第三打席、本塁打。


 場外ホームラン。


                 ○


 試合は振り出しに戻った。

 点数上では。

 ホームランだろうがなんだろうが、一点は一点だ。二点も三点も取られたわけじゃない。

 単に――、クリス・ロビンソンの――、


(そうさ。ただ、俺の自信が粉砕されただけや)


 フルスイング。

 大きな男、相良賢一郎のフルスイング。遠く離れたクリスも吹っ飛んでしまいそうなフルスイングで、ホームランが打たれてしまった。

 呆然。

 唖然。

 クリスだけでなく、試合に出場している選手全員。観客席の誰もが放心していた。

 どちらの応援団も、一般の観客も、記者も、誰もがなにも言葉を発さない。風だけが緩やかに吹いていた。

 バットを置いた賢一郎が主審に尋ねた。


「回ってもいいですか?」


「……あ、ああ。ホームラン。回って」


 ぺこりと頭を下げて賢一郎は一塁から順にダイヤモンドを駆け足で回っていく。徐々に、歓声が地鳴りのように響きだした。

 クリスは塁を回っていく賢一郎を見つめながら考えていた。

 どうして打たれたのか。

 最高のストレートだった。

 本山が左の変化球を要求し続けていたのは、この賢一郎を相手に万全で投げさせるためだとすぐにわかった。対して、大須がバントを繰り返してきたのは出塁するためではなく、多少なりともクリスを疲れさせるためだというのもわかった。

 結果はどうなったか。

 ほぼ万全だった。

 ちょこちょこ走らされて疲れたといっても微々たるもの。このくらいのことをやる相手は甲子園にもいる。そういう小細工を粉砕するための二刀流であった。


(ああ、そうやな。俺は完璧やった。足りんもんはなかった。いまの俺の、実力以上のストレートを投げたんや)


 その上をいかれた。

 一打席を跨いだだけで、どうして打てるようになったのか。

 考えようとして、やめた。

 理屈は問題じゃない。


(あいつがどうして打てるようになったかなんて、わかったところでどうしようもない。打たれた、打たれてしもうたってのは、変わらんのや)


 頭の中でさっきの打席が繰り返される。

 内角高めではなく、別のコースだったらどうだったか。

 シミュレーションをするが、空振りを取れるイメージが湧かない。どこへ投げても、どんな球を投げても、打たれるとしか思えない。

 なにをしようと通じない。手が出せない。

 べぬりっと、足がドブに浸かった感覚があった。

 生まれて初めての絶望。

 がっくりと肩を落とすと、パンっと頬を叩かれた。

 顔をあげると、目の前に本山が立っている。


「聞いているか、クリス。気を取り直せ、ツーアウトだ」


「あ、あ、おう」


 そっとボールを渡してくる。

 本山は岩のような顔を向けてきて、もう一度言った。


「いいか、ツーアウトだ。三振でもゴロでもフライでもなんでもいい。アウトにすればチェンジだ。いつもどおり。いいな」


 クリスがうなずくと、本山は定位置に戻っていった。

 打席に入ってくる五番、吉良を見つめる。

 本山のサインは左の変化球。賢一郎がホームランを打った直後で調子に乗っているところを緩い球で打ち取る。いつものとおりだ。

 ところが、初球。右打者の吉良からしたら、外へと落ちていくシンカーだった。

 それをフルスイング。

 一塁線を痛烈な打球が走っていった。これまでにないことだったのでファーストも虚を突かれて、反応が遅れてしまっていた。

 ライトが追いつき、すぐに中継へと投げるが、吉良はすでに二塁まで進んでいた。

 ガッツポーズを取って大声でなにかを言っている。


「俺ならいつでも打ち取れると思ってましたか! 残念でしたぁ!」


 思ってた。

 打者としてのセンスがあるのは準決勝でのことで知っていたが、甲子園での選手たちと比較すると一枚落ちる。その程度だと思っていた。

 いや、その程度のはずだった。

 ここへきて一気にレベルが上がったのか。そうではない。


(俺が、落ちたんや。いまの球、曲がりが浅かった。いかん、ショックが大きすぎるんや)


 次の打者は六番。

 元々、賢一郎以外は打線が強くない大須でもさらに下。怖い相手じゃない。


(冷静に、冷静に……。何度も繰り返してきたことだ。サイドスローは胸を張って、できるだけ前でボールを離す――っ!?)


 失投だと、ボールが指から離れた瞬間に気づいた。

 指先が縫い目にかからなかった。回転が悪い。

 曲がらない。ただの、絶好球。

 六番打者は見逃さない。短く持ったバットで、三遊間に狙い打ってきた。

 内野を抜け――ない。

 ショートが横っ飛びで止めた。

 ファーストへの送球は間に合わず、内野安打になってしまったが、吉良の進塁は阻まれた。

 ほっとしたと同時に、声が聞こえた。


「打たせてけ! クリス、楽にやれ!」


 さっき、ファインプレーを見せたショートだった。

 続けて、セカンドが大きく笑ってグラブを振った。


「俺たちにも仕事をさせろ!」


「ヒットもホームランもなんてこたない! 取り返しゃいいんだよ! 適当に放ってけ!」


 内野のメンバーが、声をかけてくる。

 ファーストにセカンド、ショート、サード、もちろんキャッチャーの本山も。外野の三人もぴょんぴょん飛び跳ねてアピールしている。打たせろと。

 不思議な気分だった。

 彼らの名前も顔も、好物も知っている。三年間、寝食をともにして甲子園を戦い抜いた仲間たちだが、試合中に意識したことはなかった。

 これまでも楽に楽にと言われていた。県大会だけでなく、甲子園でも。ノーヒットノーランがかかっていてもこっちにも出番をくれと呼びかけられていた。だが、両腕でねじ伏せてきたクリスに届くことはなかった。

 いまは、届いた。

 耳ではなく、心に響いた。

 クリスは泣きそうになった。


「じゃあ! ちゃんと守ってや!」


「おぉ! 任せておけ!」


 うつむき、汗を拭うふりをして、クリスは目をこすった。

 顔を上げる。次の打者に目を向けた。

 七番打者。大したことのない相手。

 ボールを握り、本山を見つめる。


(本山ちゃん、俺、ちゃんとできとる?)


(さっきの二打席はゴミ。次はボールだ。これでダメだったら、監督に代えさせる)


(厳しいね!)


 左のストレートを投げる。

 外角低め、バットが届かないコース。球速は一三八キロ。

 しっかり受け取って、本山はボールを返してきた。


(及第点。ま、こんくらいならいいだろう。ギリギリ、まだ投げられるな。次は変化球だ。ボール球を投げろ)


(……おっけー)


 二球、三球、四球目もボール球を要求した。

 フォアボール。ツーアウト満塁になった。

 大須応援団は、ホームランのあとにヒット二本、フォアボールと続いたので調子に乗っている。勝ったかのような勢いだったが、ベンチにいる国虎と賢一郎は渋い顔になっていた。

 彼ら二人はわかっている。

 さっきのフォアボールはミスでも満塁策のためでもなく、単に、クリスを確かめるための投球練習だった。

 本山は、ダメだったら本気で代えてもらうつもりだっただろう。キャッチャーであり、キャプテンでもある。シビアな判断もする。

 その彼は、クリスの続投を選んだ。


(本山ちゃんがそうしたってことは、まだまだいけるってことやな)


(ああ、さっさと終わらせるぞ。疲れたからな)


(あいあいさー)


 クリスは左の変化球を投げた。

 キレが戻っていた。打者の手前で鋭く曲がり、バットの芯を外れた。ボテボテのピッチャーゴロ。クリスが一塁に送球して、スリーアウト、チェンジ。

 試合は、最終局面に向かっていく。

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