二人のエースと一人の四番
@ryoma_kun
第1話
春の選抜甲子園、一回戦第一試合、マウンドには金髪碧眼の男が立っていた。
高知県代表、明豊学園二年、クリス・ロビンソン。
堀の深い顔立ちに明るい金髪、眩しい白い肌。アメリカ出身である。一八五センチの長身に、引き締まった九八キロの体重。がっしりとした体格の持ち主だ。中学までは大阪で暮らしていたが、スカウトされて、明豊に入学した。
相手は地元兵庫の学校だった。観客席は満員御礼。まだ一球目すら投げていないのに、早速クリスに野次を飛ばしてきた。
「よそもんがー! なめたらあかんぞー!」
「いてまえー! アメリカに追い返したれー!」
明豊の観客席にも大勢の応援団がいるが、完全に声と数で負けている。聞きなれない関西弁の怒号を前に尻込みしているのだ。
いわゆる甲子園の魔物だ。
全国大会と言えば明治神宮大会や国体もあるが、ここまでアウェイになってしまうことはない。このプレッシャーを意識してしまって普段通りのプレイができなかったら、あっという間に失点を積み重ねてしまう。
甲子園では、観衆さえもゲームに影響を及ぼしてくる。あんまり敵にしすぎると、宿泊中の旅館にまで嫌がらせをされてしまったりする。
明豊学園はそのことが身にしみていた。
だからこそクリスがマウンドに立っていた。
クリスには、観衆を味方にすることができる。
キャッチャーでキャプテンの本山はサインを出していない。最初の投球は監督からの指示で決まっていた。
マウンド上でクリスは――くひり――と笑う。
「おはようさん、甲子園! 帰ってきたで!」
全身を捻るようなオーバースローから、ど真ん中へストレートを叩き込む。
その投球で、球場を揺るがしていた歓声が消えた。
なんの変化もしない速球である。ただ、速いだけの球。
ただの、一五五キロのストレートである。
――――オォォォォォォオオオオオオオオオオオ!
野次が感動に変わった。
地元びいきだと言っても、観客達は野球好き。
その彼らを唸らせるのに必要なのは変化球ではなくストレート。ずば抜けて速いストレート。一五〇キロ台に到達するストレートだ。
「すっごいわ! さすがアメリカや!」
「ほんもんやんけ! いや、偽モンがなんかしらんが、ほんもんや! クリス、おかえり!」
観衆が湧く。
明豊に高知県出身のメンバーはほとんどいない。そのため、寄せ集め、烏合の衆、傭兵軍団、散々な野次を投げかけられる。そんな連中を豪腕で味方にする。
まさしくエース。これこそエース。
クリス・ロビンソンの才能だ。
(どんなもんじゃボケェ! つうか二回目やろが、アホ! 忘れんな!)
クリスは夏の甲子園で、すでにマウンドに立っていた。
金髪碧眼のアメリカ人、口から出てくるのはギャップの大きい関西弁とあって、人気も大変なものだった。
しかも、十年どころか百年に一人ではないかという実力があった。
彼は二刀流。世にも珍しい、両投げのピッチャーだった。
左ではサイドスロー、横投げのフォームで、一三〇キロのストレートと多彩な変化球を精密なコントロールで投げ込んでいく。
右では全身を捻るような豪快なオーバースロー、縦投げのフォームで一五〇キロ台のストレートと落差の大きいフォーク、チェンジアップ、スローカーブを投げた。
使用しているグローブも特注品。マウンドで右から左、左から右へととかえることができる。
夏の甲子園では並み居る強豪を相手に三振の山を築き、準優勝にまで導いた。
続く秋季大会でも勝ち抜き、この選抜にやってきた。
目標は優勝。夏を超える。
試合前、監督の十河から優勝のための作戦を伝えられた。
「右だけで投げろ」
常識的にはありえない、耳を疑うようなものだった。
右と左の緩急をつけるな、手加減をしろと言ったのだ。普通なら一笑に付すところだ。しかし、明豊の監督となれば別。
十河監督は五十五歳。還暦前だが肉体は若々しく、頭は剃っていた。目つきは刀のように鋭い。
元々はこの明豊でピッチャーとして活躍して、甲子園にも出場。その後、大学に進んでから明豊で教師兼野球部のコーチに就任。五年前、持病の悪化によって当時の監督が引退したので、彼が繰り上げで昇進した。
野球に関して十河は一日の長がある。特に『甲子園の怖さ』についてならばどんな監督、選手よりも詳しかった。
「いいか。この初戦で大事なのは、勢いをつけることだ。怖いのは相手バッターじゃなく、観衆たちだ。みなが尻込みしないように、味方につけろ。ストレートとフォークだけで倒してこい」
「おまかせあれ!」
監督の要求どおりにクリスは投げた。
多彩な変化球というのはいい武器だが、甲子園、高校野球というのは気持ちが大事だと外野がやかましい。
クリスが右と左で投げているのは、疲労を集中させないためなのだが、雰囲気によっては卑怯だと受け取られかねない。そのため監督は速球と、人気がある変化球、フォークだけでいけと命じたのだ。
一流のピッチャーであってもここまで制限されたら打ち込まれるだろうが、クリスは超一流。ストレートのコントロールもよく、フォークはストンと消えるように落ちる。誰も手が出なかった。
結果、明豊は五回まで無失点。奪った点は十点。六回からは控えの投手に変わったが、失点はなく、圧巻の横綱相撲で勝利した。
続く二回戦と準々決勝は七回から登板。左も駆使して、一点も取らせなかった。
準決勝は、先発の投手が三回に連打を浴びて三失点。観衆の期待に答えてクリスが緊急登板し、ピシャリと抑える。打線も奮起し、逆転した。
そうして決勝、クリスは全力全開で投げた。
体力を温存していたので手がつけられなくなっていた。
右のストレートはぐんぐん伸びて、左の変化球は切れ味が増していた。
三振三振ゴロ、フライゴロ三振、三振三振三振。
明豊はクリス以外の守備陣もキビキビと動いた。エラーはなく、打撃も派手ではないが堅実にヒットと盗塁、バントで着実に点をもぎ取っていった。
九回表、クリスは最後のバッターに、内角低めのストレートを叩き込む。
一五六キロ。空振り三振。ゲームセット。
明豊学園、春の選抜甲子園で優勝。クリスはノーヒットノーラン(フォアボールを二つ)を達成した。
「どんなもんじゃああああああ!」
クリスは最高の気分だった。
観客の称賛をその身に受け、全身が弾けそうなほどの快感に包まれていた。
(ええぞ、ええぞ、もっとや。その調子で、もっと俺を称えるんや)
一応、表立っては謙虚に済ませている。
閉会式のあとのインタビューでは、監督とレギュラーたちを褒めそやした。
「いやぁ、思い切りいけ言われましてね。みんなも点を取ってくれたんで、のびのびできましたわ。おかげで最高の舞台で最高の結果を出せて、ほんま感謝しとります。おかーちゃん、おとーちゃん、やったでー」
金髪碧眼の白人が関西弁でおちゃらける。甲子園決勝でノーヒットノーランを達成したなんて肩書がついていたら、スターになるのは自然だった。
進路についても聞かれた。プロ志望なのか、大学なのか、はたまたいきなりメジャーを目指すのかなど。
地元ということで、夏の甲子園で応援を受けるためにも阪神に入団したいですと答えておいた。新聞社は目をらんらんと輝かせていた。
バスにみんな向かったとのことで、監督から次が最後だと言われた。
すると、集まっていた記者たちの後ろから小柄な女性が割って入ってきた。セミロングの黒髪で、銀縁眼鏡。ほっそりとしていて、むさ苦しい野球とは無縁でありそうな風体であるが、ほかの記者に負けじと声を張り上げた。
「土佐新聞スポーツ部の一条房実です! クリスくん、この大会で一番苦戦したのはどこの選手ですか!」
笑みが零れそうになるのをクリスは我慢した。
土佐新聞とは高知ローカルの新聞だ。彼女、一条からは一年時から取材を受けていた。長い付き合いになる。
彼女が望んでいる答えはわかる。クリスが思っているものと同じだった。
「そうですね。みんな、一歩間違ったらホームラン打たれそうなのばかりやったけど、うん。大須やね。大須の、四番が強かったわ」
目の前の一条以外、全員が首をひねっていた。甲子園のトーナメント表を確認するものもいたが、そこには出ていない。
一条は、ハッキリとその名前を言った。
「相良くんですね!」
ふんすっと鼻息荒かった。
「大須高校四番の、相良賢一郎くん! 県大会、準決勝でぶつかった!」
「そうですわ。よく覚えてますやん」
「忘れられません! 私も見てました、試合! あの試合、あわや負けるかもっていう!」
ピクリとクリスの眉が動いた。
「そうですわ。僕だけやのうて、みんなもあの時が一番やばかったっていうと思いますよ。最初は軽く見とったんですけど、でも、あの相良のスイング、腰抜かしそうになりましたもん。夏は気をつけんとあきませんわ」
「それが、その、ないかもしれません!」
「はい?」
クリスはちょっと意味がわからなかった。
一条はクリスに言った。
「彼、野球部やめちゃったんですよ!」
間があった。
クリスは、理解するまで少々の時間を要した。
そして、叫んだ。
「はああああああああああああああああああああああああああああ!?」
態度の豹変に記者たちは目を丸くした。テレビカメラにはばっちり撮られた。
背後からぬぬっと十河監督の腕が伸びてくる。
「ほらほら、インタビューは終わりだ。さあいくぞー」
「ちょっ、まっ、やめたってどういうことや! ちょっ、監督、離してーや!」
「みんな待ってるんだ! ほら急げ!」
十河の腕が顎の下に回される。見た目通りの腕力で、そのままずるずると外へと引きずり出されてしまった。
外ではファンが出待ちをしていたが、愛想笑いもほどほどにバスへと乗り込んだ。
優勝となったから、バスの中はやいのやいのと騒いでいる。そこに混ざらず、クリスはさっきの記者、一条に電話をかけた。
「やめたってどういうことです。詳しく教えてください」
『正確には退部したかどうかは不明です。でも、彼、相良賢一郎くんは部の練習にも一切出てきていません。あんな試合をしたんですから、学校のグラウンドにはOBや私みたいな記者が見学にいったんですが、彼はこの数ヶ月、現れませんでした』
数ヶ月――。クリスは絶句してしまう。
長い、あまりに長い。一日二日なら休養となってプラスになるが、数ヶ月も練習していないというのなら、あのバッティングは泡のように消えているんじゃないだろうか。
「顧問とかチームメイトがおるやん。そっちに話を聞かんかったん」
『もちろんしましたよ。でも、顧問の先生は取材に応じず、部員のみんなには箝口令でもしかれているのか、一切教えてくれませんでした』
「誰一人?」
『ええ、誰一人』
ありえるのか、そんなこと。
クリスのチームメイトも監督が私生活について訓令を出せば大人しく従うだろう。しかし、日が過ぎれば徐々に緩んでいく。隠れてタバコを吸っているやつもいるはずだ。
特別、大須の結束が固いというのもあるかもしれないが、それでも数ヶ月というのは長い。
「ちょう待ってや。そやったら、春季大会はどうなっとんよ」
『相良くん不在のまま出場してます。キャプテンの国虎くんを中心に纏まってて、県大会に出場しました。でも、決勝で敗退してしまい、明豊と試合をすることはありませんね』
春季大会は、選抜甲子園の期間中に開催されている。そのため、明豊は二週間後、四月の中旬に県大会を勝ち抜いたものと当たることになっていた。
スケジュールは空いていない。あくまで、明豊学園のものは。
一旦、クリスは監督に確認した。
「監督、春季大会で試合に出るの、一年と二年でっしゃろ!? 俺らは試合用の練習もありませんやろ!?」
「そうだぞ。スケジュールはスマホで確認できるだろ」
「いえいえ、念のためですわ」
明豊にきてからすぐ、指定のスマートフォンを渡されたのだ。生活管理のためである。
練習の時間や内容も逐一メールで入ってきており、雁字搦めの生活だ。どこの強豪校も似たようなものである。
「一条さん、ちょっと時間を空けといてや」
『時間って、なに? どういうこと?』
「俺、道わからへんもん。高知の街にもたまにしかいっとらんからね。イオンぐらいよ、知っとんの」
『なになに、どういうことなの? クリスくん、なにをしたいの?』
わかりそうなものだがと、クリスのほうこそ疑問に思った。
「会いにいくんですよ。相良に」
目的が定まると、彼の背中にじわりと汗が浮かんでくる。記憶の底から火山が爆発するように、十月末に出会った怪物の姿が吹き上がってきた。
相良賢一郎、高校二年。
夏の甲子園、秋季大会、春の選抜――。クリスが対戦した全打者を通して唯一ホームランを食らった男だった。
○
高知県、秋季大会、準決勝――。
明豊学園と大須高校の試合は最後の局面を迎えていた。
九回裏、四対三。
明豊学園が一点リードしたままで九回裏。ピッチャーはクリス。大須高校の一番を三振に仕留めたが、二番にフォアボールを与えてしまい、三番には送りバントを決められた。
ツーアウト、ランナー二塁。
打席に立つのは、四番。
――大きい男だった。
地面を踏みしめる足が太かった。
上半身と下半身をつなぐ腰が大きかった。
バットを支える腕が大きかった。
力の要である肩と背中が大きかった。
全身が大きかった。
脂肪ではない。
力士のように腹がでっぷりと垂れてはいない。
泥だらけのユニフォームの上からでもわかるほどに、引き締まっていた。筋肉の層が積み重なって、全体が大きかった。
顔つきは仏像のように穏やかだが、太陽のような輝きが後光のように放たれていた。
県立大須高校野球部の四番。二年生、相良賢一郎。右打者。
身長二メートル、体重一〇五キロの巨漢。
クリスは、夏の甲子園でも体験したことのない緊張を覚えていた。
この相良賢一郎は、その体格から連想されるような大打者だった。
大須高校は明治時代に設立された由緒正しい学校だが、野球は弱い。一回戦、二回戦負けが常だった。
この秋季大会でも早々に敗退すると思われていた。準決勝で当たるのは別の強豪だろうと予想されていた。
ところが、秋季大会が始まってからこの大須がにわかに注目を集めだした。
一試合目から賢一郎が豪快なスイングで打ちまくったのだ。ヒット、ホームランを量産し、走者がいると必ずホームに返していた。
準々決勝でも変わらない。バカスカ打ちまくっていた。
この準決勝でも賢一郎は獅子奮迅の活躍を見せた。
序盤、クリスは控えだった。念のためにベンチに入っていたが、他の投手で十分勝てると思われていたのだ。
ところが二回裏、賢一郎が初球ホームランを叩き出した。しかも場外。球場は雷に打たれたかのように静まって、審判さえも呆然となっていた。
そのシーンを見て、クリスは監督の指示を待たずにブルペンで投げ込みを始めた。そのときマウンドに立っていた投手と賢一郎に、ハッキリとした力の差を見たのだ。
その後は凡退となったが、大須はピッチャーも良かった。
安芸国虎。つるりとした坊主頭で、ギラリと猛獣のような目つきをした男だ。
体格は小柄だが気迫のピッチングなどという甲子園が喜びそうなスタイルで投げていた。一四〇キロのストレートと、縦に大きく落ちるスライダーとチェンジアップを武器として、明豊の打線を相手に凡打の山を築いた。
例年ではクリーンナップが二巡もすれば、地元の無名校相手に軽く二桁は取れているはずだった。コールドも余裕のはずだ。
ところが、五回までに取れたのは二点。
賢一郎と国虎、たった二人の二年生が弱小校を明豊に匹敵する強豪にさせていた。
そうして、賢一郎の第二打席が回ってくる。
今度は際どいところを狙っていたが、彼には通じなかった。外角低めのボール球を、スタンドに叩き込まれた。
二打席連続ホームラン。
明豊のレギュラー、監督にマネージャーも痛感した。
『――なんで無名の県立高校にいるのかわからんが、超一流のバッターだ』
六回からクリスは登板し、七回裏にて賢一郎と初対戦。
まずは左のサイドスローで、ストライクコースギリギリに変化球を投げ込み、ツーストライク、ツーボールとした。そこで右に交代し、内角高め、顔面スレスレに一五〇キロの速球を投げた。
甲子園でもこれに対応できるものは少なかった。右のオーバースローなら速球がくるとわかっていても、左の遅い球を見せられたあとだと一五〇キロどころか一七〇キロくらいには感じてしまう。反応できるわけがない。
そのはずが、打った。
打たれた。予想外だったが、クリスは勝ちだと思った。
(真芯やなく根本やった。咄嗟に手が出てしもうたんやな。反応しただけでも大したもんやが、俺の勝ちや。打ち取ったで。センター……、えらい下がるな。とんとんとんって下がるな。おいおい、下がりすぎやろ。もうフェンスやん。おい、おい、おい、嘘やろ……。おい――)
嘘でも冗談でもなかった。
完全に打ち取ったはずだった。
打球はフラフラっと上がっていた。
しかし、落ちてこなかった。
落ちたのは、外野の観客席だった。
ホームラン。
三打席連続ホームラン。
観客席はえらい騒ぎになったが、クリスにしたらたまったものではなかった。
(なんや、なんなんやこいつ! 大須なんて、なんか中途半端な進学校らしいやんか。地方の国立に入るんが関の山の、しょっぼい高校やろ。スポーツもめっちゃ弱いって話やろが。なのに、なんでそんなとこにこんなのがおんねん!)
憤りを表情に出さず、投球も崩さなかったが、心のうちでクリスは激しく狼狽していた。
クリスは根っからの野球エリートだ。彼だけでなく、甲子園に出るような選手ならほとんど全員がそうである。
現在の高校野球は小学生、あるいは幼稚園のころからの積み重ねが必要だった。
親が金を払って野球を学ばせて、強豪のリトルリーグでレギュラーとなる。
中学生のシニアでも同様で、全国で活躍して、世界大会なんかにも出て、スカウトの目に止まって、甲子園常連校に入る。
クリスの同期や先輩、後輩もそうだった。リトルリーグのころから対戦する相手は変わらない。大阪から東京、北海道や九州にと散らばっていたりするが、顔なじみばかりだ。
この相良賢一郎という男は、リトルリーグにもシニアリーグにもいなかった。
手品師がぽんっと出したような存在だった。謎すぎた。
七回裏が終わってベンチに戻ると、監督の十河が檄を飛ばす。
「いいか! 死ぬ気でやれ! 舐めるんじゃあない!」
まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。
「相手チームで怖いのはあの四番だけだが、完全に流れを持っていかれた! いま、彼らは神がかっている! あの四番のバットで集中力が極限に高まっている! こういうときは奇跡を起こされてしまうのだ! 大金星をとられてたまるか! 私もお前たちも、勝つのが使命だ! 勝たなくちゃあなあ、野球人生は終わるんだ! 勝つしかない!」
「オオッ!」
監督の激でレギュラーたちの尻に火が点いた。
そのとおりなのだ。負けてしまったら、監督も、レギュラーも、おしまいだ。
勝つために練習した。
勝つためにまともな青春を捨てた。
朝起きてから寝るまでどころか、夢の中でも野球をした。
甲子園で勝つために。
プロに昇るために。
そのためになにもかもを捨ててきた。
県大会の準決勝なんかで破れたら、その全部が塵になってしまう。
明豊は死にものぐるいで闘った。
じっくりと相手ピッチャーの球を見極め、盗塁を仕掛け、バントやバスターで揺さぶり、なにがなんでも勝とうとした。
その成果と、大須のピッチャーのスタミナ切れもあって、八回と九回で一点ずつを取った。四対三となり、逆転した。
あとはクリスが三人でピシッと決めたら終わりであったが、監督が言ったとおり、大須の面々は神がかった集中力を見せた。
際どい球には手を出さず、確実にストライクだという球だけを狙ってくる。追い込まれるとファールで粘り、ついには二番がフォアボールで出塁した。
三番は送りバント。これでツーアウト二塁で、四番の賢一郎を迎えたのだ。
異様な事態になった。
たかが地方の秋季大会。夏の甲子園が本番なので注目は薄いはずだが、地獄のような熱気が吹き上がっていた。
高校野球という流れが、大須高校の逆転勝利に向かい始めた。
クリスは夏の甲子園よりも重いプレッシャーを感じていた。常識的に考えればここは敬遠だが、球場の雰囲気と明豊学園の過去が許さなかった。
かつて、明豊学園は甲子園で大罪を犯した。
二十五年前、クリスたちが生まれる前の話だが、後のメジャーリーガーである天才バッターに対して、五打席連続敬遠を行ったのだ。
作戦は正しかった。試合には勝利した。
だが、高校野球とは純粋なエンターテイメントなのだ。
プロとも大学とも社会人ともちがう。
一個の白球をめぐってひたむきに頑張る少年たちの熱いドラマ。
真正面から、力と力でのぶつかり合いが望まれる。そこに卑怯、ズルがあってはならない。勝利よりもなによりも、高野連の老人、ただ同じ学校に通っていただけという連中、ひいてはこんなときにしか野球に興味を持たない観衆たちを興奮させることこそが最優先だった。
明豊学園は試合に勝ちはしたものの、選手や監督、学校、泊まっていた旅館にまで散々な嫌がらせをされてしまった。その影響で野球をやめてしまったものもいる。
敬遠はできない。明豊学園には、許されない。
勝負である。勝負であるが、球場はクリスに打たれることを望んでいた。
そういう雰囲気ができあがってしまっていた。
球場が、高校野球が、賢一郎のホームラン、大金星を待ち望んでいた。
クリスにとって、いや、明豊にとって冗談ではなかった。
(なんのために野球をやってきたと思うとるんや。俺たちにとって野球は部活動じゃないんやぞ。文字通り、人生を決めた勝負や。生まれてきてからずっと、マジで命がけできたんやぞ。やのに、そっちのほうがおもろいからって、肩を持つんか。地元民だからって、俺らがよそもんだからって)
――まだ秋季大会。来年、夏こそが本番だ。
そんな考えがふっと浮かぶが、クリスは振り払った。
(負けていい試合なんざあるもんかよ。流れ、なんてもんのせいで、人生をぐちゃぐちゃに砕かれてたまるかボケ)
クリスは右、オーバースローで投げた。
内角低めに一五〇キロのストレートが入る。
賢一郎は見逃したが、ストライク。
二球目は同じコースだったがフォーク。賢一郎は手を出さず、ボールとなった。
(わかっとったんか? いいや、んなわけない、多分。フォークだけの癖なんかあるとは思えへん)
クリスはキャッチャーの指示を待った。
ゆるいスローカーブ。外角高めのボール球、思わず手を出したくなるコースだ。
クリスは投げたが、賢一郎は手を出さない。しっかりとこらえて、見送った。
ワンストライク、ツーボール。
野次が飛ぶ。
――勝負しろ、勝負! 逃げんな!
大須高校の応援団が叫んでいる。しかも一人じゃない。勝ち進んだからびっくりして観戦にきただけのものたちが、口を揃えて野次っていた。
普段ならクリスに聞こえるはずがなかった。なのに、聞こえてしまう。この異様な雰囲気がそうさせていた。
(むかつく、むかつく、むかつく。お前ら全然関係ないやろが! 俺らだけのものやろが! OBやろうが高野連のジジイやろうが、誰だって関係ないやろが! 卑怯や正々堂々やないとか、魂がこもってないやら好き勝手に言いやがって!)
クリスは冷静ではなかった。このような野次は散々受けてきた。明豊にきてからも、地元出身ではないので、ほかの学校からはよそもんとなじられた。
慣れているはずだ。しかし、目の前のバッターが強すぎる。
集中が必要だった。余計なものは煩わしかった。
深呼吸して、ストレートを投げる。
キャッチャーの指示では真ん中高め。不意をついて甘いコースだった。
賢一郎がぶんっとバットを振るった。
空を切る。審判がストライクを叫ぶ。
観客席からドンドンドンと太鼓が響く。
攻めているのは、クリス。優勢なのは、クリス。しかし、彼の心はギリギリと締め付けられていた。
(なんちゅうスイングや。一瞬ホームランかと思ったわ)
打たれた瞬間にヒットだホームランだってわかるときがある。だが、ただの空振りをホームランと思わせるなんてのはいなかった。
大打者だ。本物の。
(……勝つしかない)
キャッチャーの要求はストレート。内角高め。
信じるしかない。さっきの球で目が慣れてしまっている危険はあるのだが、キャッチャーが賢一郎を一番間近で見ているのだ。そこにいけば三振か凡打にできると思ったのだ。
彼だって、クリスと同様に長い長い時間と金と労力を野球に注いできた。野球エリートだ。
信じる。信じると決めたら、投げる。
全身を使って、ストレートを投げた。
内角高め、ピッタリ。一五〇キロを越えて、一五五キロとなった。
賢一郎がスイングに入る。
誰もが連想した。
ホームランを。
観衆も、クリスも、審判も。
球場全体が逆転サヨナラホームランを待った。
しかし、ちがった。
賢一郎は豪快なスイングで、平々凡々なピッチャーフライを打ち上げたのだ。
一瞬、音が消えた。
風さえも止んで、異様な静寂が球場を包み込んだ。
クリスはぽかんと呆けていたが、慣れた動きでボールをキャッチした。
審判はアウト、ゲームセットを宣言。大須高校の敗退が決定した。
(……そうか、そうだな。そういうことか)
クリスは無言のままに納得した。
プレッシャーは、クリスたちだけにあったのではなかった。
豪快なスイングで打点を積み重ねてきた相良賢一郎、彼にこそ、最も大きなプレッシャーがかかっていたのだ。
成功へのプレッシャー。
劇的な逆転へのプレッシャー。
ホームランを打って当然というプレッシャー。
それらが相良賢一郎を雁字搦めに縛っていた。
一人の野球選手、有望な、才能豊かな少年は、高校野球の欲望に負けたのだ。
○
大須高校は住宅街の真ん中にぽつんとある。元々が地元地域のために設立された公立高校であるがグラウンドは広い。県内に数少ない野球用のグラウンドがあった。とはいえ、野球部専用ではなく、陸上部やサッカー部と交代しながら使用している。
四月上旬、入学式が過ぎて新入部員の勧誘シーズンだ。
よく晴れた夕方、グラウンドでは野球部が集まっていた。練習する前に、坊主頭で目がギラついている男が入部希望者たちに声を荒げていた。
「うちは本気で甲子園を目指してんだ! 明豊も工業も商業も全部ぶっ倒す! ついてこれないやつは帰って寝ろ!」
猛獣のような咆哮だった。
インパクトは抜群で、何人かはビビって身を竦ませていた。
その光景をグラウンドの外、フェンス越しに眺めているものが二人いる。クリスと記者の一条だ。
一条はニコニコ笑っている。
「いやあ、いいですね。青春ですね。明豊みたいにシステマチックなのもいいんですけど、こういうがむしゃらなのも好きなんですよ。クリスくんはどうです?」
「どうですって聞かれても……。大変やなあって思います」
ふうっとため息をつくと、一条は目をパチクリさせた。
「なにがですか? 本気で目指すのが、大変ってことですか?」
「そやないよ。ああやって、いちいち宣言をせなあかんってところ。うちとかだと、甲子園を目指すんは当たり前や。腑抜けは一人もおらへんもん。とっくに必要なもんは揃えて入ってきとるんや」
明豊にはシニアリーグで活躍したのがゴロゴロいる。彼らは全国制覇を目指した練習を中学か、小学校のころからとっくにやっている。高校に入っても覚悟と決意を持ってやってきていた。
(あと、やっぱ細っこいな)
クリスが毎日顔を合わせる明豊の野球部員と比べて、大須の面々は全員細かった。
甲子園常連校とその他の違いは、技術ではなく体格だ。
技術そのものは高校生のうちにいくらでも手に入れられる。クリスも明豊にきて二年で球速を二〇キロ上げ、左のサイドスローも身につけた。
しかし、体格はそうではない。
練習でバテバテになった身体は飯を受け付けない。スポーツドリンクなんかを飲んで、適当に菓子を食べたら風呂に入って眠りたくなるのが人の性だ。
そこで無理矢理にでも食うことができたら、太る。身長も伸びて、筋肉がつく。野球選手は食うのも練習だった。できなければ、弱い。
グラウンドでは、早速走り込みが始まった。
「二十周、いくぞ!」
一年生に怒鳴っていた男が先導して、部員たちが走り出す。
声の大きい男、クリスにも見覚えがあった。秋季大会でのピッチャーだった。明豊を相手に踏ん張っていた。
「あれはたしか……」
「国虎くんですね」
一条が食い気味に答えた。
「安芸国虎くん。キャプテンです。部員全員を引っ張るタイプですね。熱くなるタイプですけど、コントロールは乱れないんです。フォアボール、死球はかなり少ないですね」
「よう調べてんなあ。でも、本当におらんのやなあ、相良」
「ええ。四月になればと思ったんですが」
相良、相良賢一郎。
二メートルを超える巨体だ。部員たちに混ざっていれば一目でわかるはずだが、いなかった。
事故だろうか。
いいやとクリスは否定する。
もしそうなら、彼女、一条が知らないはずがない。地域ローカルの新聞は身近な事故や事件には詳しいのだ。情報も速い。
転校、というのなら部員や顧問が口を閉ざす意味もない。
重病で入院中? それにしても、士気が異様に高い。あれだけの大打者がいなくなっても、国虎だけでなく、新入生を除いた部員全員が高いテンションを維持していた。
見当がつかない。クリスは眉間にしわを寄せて唸った。
「いっそのこと、相良当人に聞こうかな。家はどこかわかる、一条さん」
「さすがにそれは学校も教えてくれませんよ。尾行したらいいかもしれませんけど、高知は人通りもそんなないから目立ちまくりです」
別に高知じゃなくても夕方の住宅街なんかは人気がない。彼女はあまりここ以外を知らないのだろう。
「しゃあない。ほな、突撃取材といこか」
「はい?」
クリスは、グラウンドの入り口に向かって歩き出した。
大須高校野球部はランニングとストレッチを終えて、肩慣らしのキャッチボールをやっていた。クリスが近づいていっても、目立った反応はない。
一人、国虎を除いて。
国虎は猛獣のような目でクリスを睨み、ボールを投げつけてきた。
クリスは避けもせずに素手で受け止めた。
「危ないやん、なにすんの」
ぽいっと返す。国虎はグラブでキャッチする。
「部外者には容赦なしが俺のポリシーなんで。クリス、なにしにきやがった」
「あ、わかる? ちゃんと俺が誰だかわかる?」
「明豊のジャージを着た金髪碧眼の白人が野球部を覗いていたら、てめーしか出てこねぇだろうが!」
そうなのだ。全然、クリスは隠すつもりがなかった。
練習が始まるのを待っている間、学校の生徒から握手を求められ、にこやかに応じていた。
国虎は部員たちに練習を続けさせ、クリスににじり寄ってきた。
「なんのようだよ。明豊みたいな山奥からわざわざなにしにきやがった。大阪アメリカンにはここにお友達もいねえだろ」
「そんな凄んでも効かへんで。俺のほうがええ投手やからな」
「ぶん殴るぞ」
「そらやめて。写真でも撮られたら、試合にも出られんなるかもしれんしな。なあ、国虎くん。相良はどうしたんよ」
スパっと切り込んだ。
クリスの問いに、部員たちの目が一瞬泳いだ。事情を知っている、ということだろう。
国虎はふんっと鼻を鳴らす。
「部外者に教えるわけねえだろ。帰れ帰れ」
「いけずなこと言わんと教えてや。俺から唯一ホームランを打った男やで。気になるやん」
「知るか! 用がそれだけってんなら終わりだ終わり! 帰れ!」
けんもほろろ。国虎はまったく教える気がない。
だが、そんなことはわかっていた。
クリスは練習に戻ろうとする国虎に、事前に用意していた言葉を投げかけた。
「……いまの俺の球、知りとうない?」
「ああ!?」
食いついた。
クリスは国虎のギラギラした目を見つめて語った。
「グラブもスパイクも用意しとるんよ。休養中やから選抜んときよりかは劣るけんど、一五〇キロのストレートが投げれるで。明豊に勝ちたいんやったら、見て損はないやろ」
「なにがいいたいんだ」
「わかるやろ。九人、用意しいや。レギュラー予定のメンツ、全員を相手に甲子園決勝ノーヒットノーラン投手が、勝負したる。そんかわし、相良がここにおらん事情を教えて」
猛獣、番犬、獣、そんな言葉が服を着てるような国虎も、黙ってしまった。
どうやら野球に関しては頭が回るらしい。これは彼らにとって得しかない。怪我でもしない限り、必ず明豊が決勝に駒を進め、クリスが投げるのだ。動画くらいは選抜のものがいくらでもあるだろうが、目の前で見る機会などほぼありえない。
国虎は、それでも即答せずに、尋ねてきた。
「なんでこだわるんだよ。相良がいないほうがお前にはいいんじゃないのか?」
「おってもおらんでも変わらへんよ。あいつが毎回ホームラン打ったところで一点や。それとも、常に満塁を用意するんか?」
できるわけがない。クリスでなくとも、明豊のピッチャーを相手にそんなことができるならいますぐ全員プロ選手だ。
国虎は殺しかかってきそうな眼光を向けてきた。
「ムカつくやつだ。勝って当たり前な顔をしやがって」
「甲子園優勝投手やもん。で、どうや? 得しかないで?」
「……全員、練習中止! カメラをもってこい! 自前のスマホもだ! 一年もいけ!」
話はまとまった。
よく統率が取れている。国虎の号令で、ぱっと弾けるように部室へと走っていった。
大須にとってこんなチャンスはない。ギラギラと飢えた獣の様相でありながらも、しっかりデータを取ることにしたのだ。
フェンスの向こう側においていたバッグからグラブとスパイクを取り出していると、そこにいた一条から、苦言を呈された。
「明豊の十河監督にバレますよ? 学校サボってきてんですから、まずいんじゃないですか?」
「しゃーないやん。明豊、すんごい山奥やもん。放課後になるんを待っとったら練習が終わってしまうわ。新聞には載せんとってや」
「SNSに絶対上がると思いますけどね」
「もう上がってますやろ」
準備は着々と進んでいき、マウンドのすぐそばにカメラが設置され、さらに部員がずらりとスマートフォンを掲げて並んだ。
圧迫感が凄まじい。
夏でも春でも、クリスは甲子園での練習中は鈴なりになったスポーツ記者にカメラを向けられていたが、さすがに彼らはフェンスの外からだった。マウンドから二メートルも離れていない超至近距離からなんてのはない。
国虎も真横に立って、獣のような眼光を向けてきていた。
「ま、ええけどね。国虎くん、キャッチャーは?」
「吉良って二年がやる。もう座ってんだろ」
「キャッチャー、秋よりえらい細くなっとらん?」
「秋は賢一だったからだろ! あいつに比べたら誰でも細いわ!」
賢一、相良賢一郎のことだろう。彼はキャッチャーだった。クリスが打席に入ったとき、彼の圧迫感も強かった。そんなのは体験したことがなかった。
打席に部員が立つ。
マウンドを均して、クリスは大きく振りかぶった。
ストライクコースのど真ん中に、一五〇キロのストレートを叩き込む。バッターは見逃した。
「よく観察しいや。特盛りや」
二球目も見逃し、三球目ではバットを振ってきたが、空振りだった。
クリスは際どいコースには投げていない。中心付近の、打ちやすいコースばかりだった。それでも打てないのがエースの球である。
次の打者も三振。
その次も、さらにその次も三振。
偶然当てられることもあったが、ファールかボテボテのゴロ。フライにすらならなかった。
最後は、国虎。
彼は大須の中では上の打者で、秋では三番だった。
バントを決められたのをクリスは覚えている。
「国虎ー、お前さんは、一番か二番が出たら送りバントで出塁させることが役目か。ツーアウトなら、なにがなんでも相良に繋ぐことやろ」
「よくわかってんじゃねーか。そうだよ、賢一だけじゃねー。俺だってお前からヒットを打ってやる」
「ま、百回中の一回くらいはあるやろね。今回は、どう?」
「今回もだよ! ボケ!」
国虎はその性質に違わず、初球から振ってきた。
しかも、当ててきた。打球は真後ろにすっ飛んでいったファールだが、それはつまりタイミングをしっかり合わせたということだ。
クリスは素直に賞賛した。
「……やるやん。甲子園でも初球を合わせてきたんはほとんどおらんかったのに」
「キャプテンなんだよ! 舐めんじゃねえ! 賢一のいるチームでキャプテンやるにはな、打たなきゃいけねーんだ! あいつの前に塁に出るのが役目なんだよ!」
激しい気迫だ。試合でも何でもないのに、ごおごおと燃えている。
明豊にはこういうタイプはいない。前へ前へと進む必要がないからかもしれない。
嫌いではない。クリスは好意さえ覚える。
二球目もストレート。ど真ん中に入った球を、国虎はまたファールにした。
三球目、クリスは大きく振りかぶって、足を踏み出し、腕を思い切りよく振った。
投げ出された球は、遅かった。
緩い球、速度は一〇〇キロほどのチェンジアップだった。
タイミングを狂わされた国虎は、空振った。
キャッチャーが受け取ったところで、クリスは人差し指を空に伸ばした。
「アイムナンバーワン! センキュー!」
「滑舌、悪……」
部員の誰かがぼそりと呟いた。
クリスはアメリカ出身だが大阪育ちなので英語は全然喋ることができないのだ。
「国虎くん、頭カッカなりすぎやで。キャプテンなら時にはちいっと引いた視線が必要や」
「――んなもん耳にタコができるほど聞いてんだよ! クソ、ボケ、カス! ヤンキーゴーホーム!」
「それ、普通のアメリカ人に言ったらぶん殴られるで。ともかく、俺の勝ちやな」
マウンドから降りて、スキップでクリスは国虎に駆け寄っていった。
「約束通り、教えてや」
「……やっぱり、めちゃくちゃ嫌だな。あいつの問題だ。あいつ自身がどうにかするしかない。他人が干渉するもんじゃない。そう思う。ただ、ああ、」
じろっと国虎がクリスの顔を見つめた。このとき、猛獣のような眼光が消えた。
「一応はお前も当事者だ。だったら責任持って、助けてもらうか」
「はい?」
意味がわからず首を傾げるクリス。
国虎は静かに、落ち着いた目で言った。
「賢一が野球部を離れたのは秋季大会、うちと明豊との試合が原因だ。あの日の雰囲気、覚えているだろう」
「そりゃね。気持ち悪かったわ。試合終わったあとに吐いたもん。ゲロゲロって」
「賢一は吐くくらいじゃすまなかった。……そうだな。クリス、お前は知ってたか。あの秋までに、あいつのことを」
いいやとクリスは首を振った。
知っていたら対策を監督がする。あのバッターは要注意だとか、ここが苦手とか、データがどうとか。試合前日のミーティングでは、四番バッターはパワーヒッターとしか聞かされなかった。
というのも、夏は賢一郎が出場せずに一回戦負けをして、秋では大須はさほど強くない相手とばかり試合していたからだ。使えるデータがない。評価されていたのは守備と、ピッチャーの国虎だけだった。
国虎は、だよなとうなずいた。
「みんなそうだった。俺たち、野球部以外、誰も賢一に注目していなかった。準決勝に進んで応援団が組まれて、OBやらがしゃしゃりでてきたが、注目されていたのは俺。俺が、完投できるかどうかってところだけだった」
だが、蓋を開けてみれば相良賢一郎の独壇場。
大須応援団も、負けるとしか思っていなかった。明豊に叶いっこないと。そこに、いきなり賢一郎のホームランだ。仰天し、歓声を上げた。
予想もしていなかった強敵に明豊はエースに必死の応援をする。
球場では拮抗した熱気が衝突して嵐のようだった。
クリスたち明豊は必死になった。夏の甲子園でもあれほどまでの奮闘はなかった。
試合が終わったときは、肉体も精神もへとへとだった。しかし、この経験のおかげで部員全員に胆力がついた。明豊は、甲子園に負けない心を手に入れた。
国虎たちはどうだったのだろうか。
「俺たちもあの経験があってレベルアップした。守備じゃあ、明豊に次くらいにはなったんじゃないかって思ってる。特に、集中力だな。そこが磨かれた。でも、賢一郎には毒だった」
そこで、国虎は話を戻した。
「知らなかったよな、あいつのことを。あんな凄いバッターでありながら、明豊もどこの学校も知らなかった。それも当然なんだ。なにせ、あいつの野球経験は一年半だからな」
「……――は?」
クリスは自分の耳を疑った。
ハッキリと、国虎の言ったことが聞こえていた。
とても信じられないことを、彼は言ったのだ。
「何度でも言ってやるよ。賢一の野球経験は、一年半だ」
冗談、の雰囲気ではなかった。
「野球部に所属したのは高校からだ。公式戦に出たのは、秋の大会が初めて。一回戦や二回戦はのんきなものだったのに、準決勝であんなことになった。それでも、勝っていたらまだよかったかもしれない。勝っていたら、乗り越えられたかもしれない。でも、あいつは打てなかった。プレッシャーに負けて、打てなかった。そしたら、あとは、わかるだろ」
「……イップス」
「正解」
頭のなかでガチガチッとパズルの欠片が組み合わさったが、同時に、胸のうちに重い絶望が生まれてしまった。
イップス。
野球だけでなく、スポーツをやっているものならば一度は耳にする病だ。
一般的には精神的な原因によって精細なプレーができなくなってしまうことである。
よく見られるのが、決定的なシーンでミスをしてしまった選手が以降、同じようなミスを山ほど連発してしまうというようなものだ。
国虎は、さらに教えてくれた。
「大会の翌日から練習を始めたが、そのときすでに症状が出ていた。ピッチングマシーンを打てなくなっていたんだ。部員のトスバッティングさえ全然だ」
トスバッティングとは、近くからパスされた球を打つもの。ただそれだけのこと。これもできないというのは異常だった。
「結局、その日はランニングとか守備練習くらいで終わらせたが、その次の日も、またその次の日もバッティングができなかった」
「完全にイップスの症状やんけ」
「ああ。怪我や病気なら治したらいいが、イップスはちがう。どうしようもない。治るとしても、十年か二十年はかかるかもしれない」
「じゃあ、どうすんだ。相良は放置か」
「んなわけないだろ。戻ってくるのを待つんだよ」
正気かと、クリスはその目で尋ねた。
国虎はじろりと睨み返した。
「賢一のスイングを見ただろ。打たれただろ。俺だってこんなところに来るくらいだ。野球に本気じゃなかった。でも、あいつを見てしまったら、本気に、甲子園を目指そうってなってしまうだろ。そういうスイングなんだよ。だから、待つんだ」
わかる。
クリスもわかる。
あの男を大舞台に立たせたいという気持ちはわかる。
一五〇キロのストレートと同様、見るものを感動させるスイングだ。投手からしたら怖いが。
「いまはなにしとるんや。学校をやめたわけやないやろ」
「そりゃな……。あ、でも、教える時間はなさそうだな」
「ああ? なんでや」
「あっち」
国虎がグラウンドの外、フェンスの向こう側を指差した。
そこには新聞記者の一条が待機しているが、彼女は腕で大きくバッテンを作っている。
そして、その隣に二人の男が立っていた。両方とも見知った顔だ。
一人は明豊のジャージを着ている若い、がっしりしたスポーツ刈りの男。もう一人はスーツを着た、頭を剃り上げた壮年の男。
前者はキャプテンの本山で、後者は監督の十河だった。
○
明豊への帰路、十河が運転する車中では、本山の怒声が鳴り響いていた。
「この大馬鹿野郎! 自分がどういう立場かよくわかってるだろ!」
「本山ちゃん、そんな怒鳴らんといてーな。聞こえとるから」
「ちゃん付けすんな!」
明豊に到着し、すっかり暗くなった学校の敷地を歩いているさなかにもギャンギャン吠えられた。
「あの一条ってのはいい人かもしんないけどな、ほとんどのマスコミは醜聞がもれないか手ぐすね引いて待ってんだ! 変なところを撮られたら、それだけで俺たちは最悪、甲子園に出れなくなるかもしれないんだぞ!」
「別にタバコや酒を買いにいったわけやないよ」
「今の時代、火のないところに煙を立たせるのが容易だってわかってんだろ!」
まったく止まらない。
本山は頑固な男だった。頑固で真面目な男だった。練習漬けの野球部員なのに、しっかり勉強もしているので火のないところに煙は云々なんて言葉がぽんっと出てくる。他の部員が聞いたら、まずぽかんってなるだろう。顔立ちもガチガチに固まっていて、岩のようである。
うるさい男だが、キャッチャーとして座っていると安心して投げられるので、クリスは頼りにしていた。
怒鳴られ続けながら明豊の寮に入り、そのまま会議室に向かった。ベンチ入りするメンバー、全員が入れる程度の広さだ。長机が並び、前方の壁にホワイトボードが掲げられている。試合前は、常にここでミーティングをしていた。
そのミーティングのように十河が前に立ち、クリスは机についた。本山は壁際に立っている。
十河はふーっと長く息を吐いてから話し始めた。
「お説教はしない。本山が散々やってくれたからな。改めてだが、今日の行動の目的は?」
「野球部辞めたって聞いたからですわ。相良が。せやから、調べにいきました。いてもたってもいられず」
「そうか。いや、たしかに、すごい。あの男のスイングは、すごい。いまからプロにいっても通じるくらいだ。しかし、そこまで入れ込むのはなぜだ。昔、友達だったのか?」
「いいえ、話したこともありませんわ。ただねえ、これは野球界の損失ですよ? あの、あのスイングができるやつが、野球をやめちゃったなんて、そんな、許せます?」
「ふんむ……。復帰させたいということか」
「そこがよくわからんのですわ」
十河は眉をひそめた。
「わからんってのはどういうことだ?」
「いや、あいつが野球をやめたっていうんは、もう、めちゃくちゃに腹がたったんです。あのボケ、しばくぞドアホって感じに。んで、復帰させたいってのは事実です。でも、わけわからんでしょ、なんの関係もないのに」
「いや――、」
そこで、十河は小さく首を横に振った。
「わかる。わかるとも。私は君の気持ちがわかる。ああいうのを放ってはおけん」
今度はクリスが眉をひそめた。予想にしていなかった反応である。
十河は多少の茶目っ気はあるが、一本芯の通った厳しさがある。野球の実力がいくら高かろうと生活態度が度を越えて悪いものであったら懲罰も辞さない。
彼は野球部監督だけでなく、国語の教員として授業を受け持っている。部活動も教育の一環であるという態度を貫き、風紀の乱れは徹底して許さなかった。
今回、クリスもそうなるのかと思っていたが、そんな様子ではない。
十河は微笑みさえ浮かべていた。
「かまわんよ。復帰させなさい」
黙っていた本山が目をひん剥いた。
クリスも驚き、聞き返す。
「ええんですか? なんや、キャプテンに監視されると思うとったんですけど」
「飲酒や喫煙を始めとする不良行為をしなければかまわん。注意する点は、新聞だな」
「ん、一条はんとは同行しちゃいかんってことですか?」
「いいや、逆だ。絶対に同行しろ。彼女に同行させて、君自身の心情を洗いざらい伝えておくんだ。独占取材をさせろ」
クリスは言っている意味がわからない。
我慢できなかったか、本山が口を挟んできた。
「どういうことなんですか監督! こいつだけ特別扱いしちゃあ、示しがつかんでしょ!」
「説明は後でする」
本山の抗議を切り捨て、十河は話を続けた。
「その日になにがあったか、投球したのならその回数と球種もきっちり報告すること。これらを守るのが大前提だ。いいな」
「ええですけど、実は試しているのだっていうんじゃないでっしゃろね。俺が自由にした結果、協調性がないとかいうてレギュラーから外されるとか」
「そんなものはない。なにかやらかせば、そのぶんの罰は出すがな」
話はそこで終わり。
クリスは部屋に戻るように言われた。
○
会議室では、じっと黙ったまま明豊キャプテンの本山、本山茂宗が監督を睨んでいた。
十河はクリスの足音が遠ざかっていってから、言った。
「座りなさい。私の考えを説明するから」
「……わかりました」
手近な椅子ではなく、本山はいちいち十河の真正面についた。
そこでたっぷりと抗議の意を込めた視線を向ける。
十河も椅子に深く座って、本山に語った。
「一条房実って記者をそばにつけるのは、保険だな。親しくなれば、悪評の記事を書けなくなるからな」
「そうじゃないかとは思いましたけど、そもそもどうして勝手を許すんですか」
答える前に、十河は逆に質問した。
「クリスは頭がいいと思わないか?」
「……思いますが、それがなにか問題ですか?」
「ああ、問題だ。頭がよく、意志が強い。しかも才能がある。おかげで、打たれてもすぐに理由を分析して取り乱さず、次にはバッチリ仕留める。練習内容にもぐだぐだ文句を言わず、かといって犬っころのように従うわけでもない。しっかりと効果を確認して、納得してから始める。だから、あっという間に成長した。入学した当時とは大違いだ」
「そうですね。一年のときから一三五キロを投げてましたが、指導されるようになってから速度がぐんぐんと伸びていきました。さらに、左も一流レベルに持ってきて……」
「二刀流だな。あれを考案したのもクリス自身だった。右腕ばかりだと、必ず肘を痛める。肩や背中にも負荷がかかる。だから、左でもやると。シニアリーグのころから鍛えていた」
「器用ですよね。しかも、全部が一流。完璧です」
「私が見てきたなかでもトップの才能があり、努力をするピッチャーだ。ただ、完璧ではないよ。あいつは、甲子園で優勝しながらも――、がむしゃらになったことがない」
つまらなさそうに十河がため息をついた。
本山が抗議をする。
「それは、あいつや俺たちが力をつけて、監督の指示が的確だったからです」
「ああ、上手くやった。苦戦はしながらも、絶体絶命なんてのにはならなかった。勝ち筋が見えないなんてのはなかった。私が監督を始めてから、お前たちが最も優秀なチームだ。だからこそ、成長が止まってしまった」
「そんなことはありません。俺達は、着々と、力をつけていっています。優勝したあとでも、なお」
「精神的な話をしている。逆境に立たされたことがほとんどないというのは、極めて不利になる。高校野球だけじゃなく、人生においてもな」
必要なのか、と、本山が目で問う。
「必要だ」
と、十河は断言する。
「苦しい状況。なにをやろうとひっくり返すことができない。そういうことがお前たちにはなかった。そして、最も足りてないのがクリスだ」
「……では、監督は、あの相良を復帰させて、クリスをさらに成長させようという考えなんですか」
十河はうなずいた。
「クリスの才能は、あんなものじゃない。もっと先へ行ける。そのためには、相手がいる。そのための相良賢一郎だ」
「俺たちにしたら、相手は弱いほうがいいんですけど」
ぶすっと、本山が苦言をこぼした。
十河は笑った。
「すまんな。何分、教師だ。甲子園で勝つじゃなく、社会に出ても折れず曲がらず、立派に生きていけるように育てるのが仕事だ」
「……それは、相良もですか?」
「いや、なんていうのかね。相良、相良賢一郎は……」
十河はその瞬間、本山から視線を外した。どこか遠くを見つめるような目になっていた。
「私は、クリスと相良賢一郎で、あの日のやり直しをしたいのかもしれない」
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