8.(わたし) 須磨寺附近 / 境内にて / ふたりの赦し
わたしは、ナカニシが運転する灰白色のアコードの助手席にいた。
掌には、MADOSMAを握りしめている。熱がこもるのはスマホの電子部品にはよくないらしいけど、もう少しの間、お守りみたいに持っていたかった。
わたしは今朝、ハッシーから探索の結果を教えられた。そして、どうしても日賀さんに会いたくなって、ナカニシに車を出してほしいと頼み込んだんだ。
平日の午前中に学校にいないで、街を車で移動するのは、やましいような、わくわくするような不思議な気持ちだった。
ナカニシは、スマホで誰かと話を始めた。
「山陽電鉄
「日賀さんのスマホ?」
ナカニシは電話を切った。
「そうだ。クロコのマンションに行くにしては、中途半端なところで降りたもんだ」
ナカニシとわたしを乗せたアコードは、きびきびしたスピードで国道2号線を西へ向かっていた。助手席の窓からは、美しい須磨浦の海が輝いて見える……というわけにはいかない。海岸沿いに大小のビルが立ち並んでいるからだ。
わたしは、ナカニシが『スマホを追いかける』という行為を説明不要の事柄のように話すことに、少し驚いていた。
「どうやってスマホを追いかけるの?」
「携帯電話の基地局のふりをして、携帯機器識別番号を受信するんだよ。自動車三台で囲めば、それぞれに届く電波の強さで、おおよその位置を計算できる」
「自動車三台って?」
「俺にも部下がいるんだよ、ペンテスターの部下が」
「ナカニシ……どんどんロボット工学から離れていくんだね」
「望美だってどんどん病院から離れていくじゃないか。学校休んで、予約まで取ったのに」
「ひと晩寝たら治ったよ」
「この先、下手にこじれて訴訟沙汰になった時に備えて、診断書を作っといたほうがいいんだぞ……ちょっと待て」
ナカニシは再びスマホを握った。
「須磨寺商店街を北上している。須磨寺か、離宮公園にでも向かうのかな?」
ナカニシはUターンできる場所を探し始めた。
日賀さんは今日、登校はしたものの、学校から飛び出してしまったんだ。わたしは、美優ちゃんからのLINEで、それを知った。
みゆ「私が思いっきし蹴ったからやろか そんなことないよね?」09:23
その理由を、わたしはハッシーから聞かされていたが、美優ちゃんには話せなかった。
ハッシーがMADOSMAの中から話しかけてきた。深夜の探索を終えたハッシーは、今朝わたしに接続を頼み、MADOSMAの中に戻っていた。
「望美、君は無理にこの勝負をしなくてもいいんだよ?」
「勝負、なのかな……?」
「そのつもりで臨むことだ。君の信じることを日賀さんに訴えて、それが通るとは限らない。通ると信じて語りかけることは、おそらく戦いだ、とぼくは思う」
ハッシーの口調は、まじめだった。
「この先どう転ぶかは、日賀さんの機嫌次第だ。日賀さんがむかっ腹を立てたら、けんかの第2ラウンドが始まるかも」
「それでもいいよ。その時は……殴られる。わたし、日賀さんに謝りたい」
ナカニシは、すごく不機嫌になった。
「言っとくが俺は、お前が殴られたら、殴り返すからな!」
まるで、かみなり雲がゴロゴロ鳴ってるみたいだった。
昔、おじいちゃんはわたしに教えてくれた。「ここは、お寺と人が仲良しだった時代の名残りを、今に留めているのだよ」と……。
わたしは、日本庭園のような参道と、長い石段を上がり、須磨寺の境内に着いた。ナカニシは、どうしてもついてくると言って聞かなかったので、石段の上り際で待ってもらうことにした。
日賀さんは、大きな桜の木の根元を囲む、木製のベンチに腰掛け、ぼんやりとしていた。わたしの足音に気が付いて、振り向いた。
彼女を、常に怒らせていた何かが、立ち去った後のような顔だった。
「何でここが分かったん?」
「知り合いの大人の人が、調べてくれて」
不思議に、わたしの声も体も、震えてはいなかった。
「探偵か? あんた、妙なところあるな……何立っとんねん。座りや?」
わたしは、日賀さんの隣に腰を下ろした。
「で、何の用?」
「日賀さんに謝りたくて」
「頭打って、おかしくなったん?」
わたしは、この先を話すことをためらった。でも、話さなければならなかった。そのために、ここまで来たのだから。
「わたし、知らなかった。小学生の女の子を……妊娠させる大人がいるなんて。赤ちゃんを見捨てるお父さんがいるなんて、知らなかった」
そうだ。わたしは、何も知らなかったんだ。
日賀さんは、クロコダイバーにだまされて、妊娠してしまったんだ。
日賀さんは、「自分の妊娠中絶費用を援助してくれ」とは恥ずかしくて言えなかったから、「美咲ちゃんのかけおち費用を援助してくれ」と、LINEのトークに書いたんだ。
美咲ちゃんは、いなかったんじゃない。いなきゃならなかったんだ。
分かってる人は、分かってた。彼女らは何も言わず、黙ってお金を出してあげた。でも、わたしは……。
わたしの顔は、くしゃくしゃになった。わたしの目から、涙がぽろぽろこぼれ落ちて、膝と、握りこぶしを濡らした。
「わたし、お金を渡した人は、弱虫だって思ってた。わたしは負けない、そう思ってた。
馬鹿だった。わたしが意地を張ったせいで、日賀さんは周りから責められて……。
ごめんなさい……」
「誰が、あんたにそれを教えたん?」
「クロコダイバーは、日賀さんを裏切ってる。日賀さんを……抱きしめてる動画を、インターネットで売ってる……」
日賀さんの顔色が、蒼白になった。
「ちょ、待て!」
「日賀さんだけじゃない。他の子も裏切ってる……」
日賀さんは、わたしの胸元をわしづかみにした。すごい力で揺さぶってくる。
「黙れ! 嘘や!」
「ハッシー、お願い……」
わたしはMADOSMAを日賀さんに手渡した。
日賀さんは、MADOSMAの画面を、突き刺すような目で見つめている。わたしのいる場所からは、何が表示されているのかよく見えない。
日賀さんの目から、煮えたぎるような涙がこぼれてきた。
「嘘や! くそっ! 畜生! なんで……!」
いつの間にか、わたしと日賀さんは、抱き合って泣いていた。
わたしと日賀さん……
「おばあちゃんがまだ生きてたころ、
紅ちゃんは、青空の遠い先を見つめていた。
「あのころが、一番楽しかったな」
わたしは何も言えず、ただ、紅ちゃんに手を差し出した。
ふたりは、手を固く握り合った。
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