6.(ぼく) E-ブレインとの断絶 / 望美の救援 / ダークウェブ / 毒の花園
データ転送速度が急低下する混乱の中で、ぼくは気付いた。
MADOSMAに装着されている格安SIM『IIJmio』のクーポンを使い切ってしまったのだ。望美は動画も見ない、スマホゲーもやらない(Windows10 Mobileだからできない)子なので、今月契約分の3ギガに加え、先月からの繰り越し分を1.3ギガも使い残していた。それでぼくの中に油断があったのだ。まさか昨日の今日で4ギガ以上、雲散霧消させてしまうとは……!
ぼくは格安SIMの契約内容をおさらいした。クーポンを使い切っても、三日間で366メガ以内の使用量を守る限りは、200kbps程度のデータ通信が維持される。200kbpsといえば、ISDNの2倍弱の速度だ。
ぼくは直ちに、ぼくの大脳であるE-ブレインとの接続を切り、ハードボイルド・モードに入った。ぼくの体であるE-ボディと補助脳である
<ナカニシ、格安SIMのクーポンが切れた。ハードボイルド・モードに入った。以後は専用メールで>
<よりによってこんな時に! まあいい。望美に持たせた手提げ鞄の中に、昨日お前が注文した装備が入ってる。プリペイド式の、追加の1ギガクーポンが10枚入ってるはずだ>
<助かった。クーポンのコードを、望美に入力させたらいいんだね?>
<事態が解決するまで、当方との接続を切れ。間違っても、ハッキングに使用中のサブノート2から、格安SIMの会員サイトにアクセスするなよ?>
<やばい、注意されなかったら、平気でやってたかも>
<しっかりしろよ。望美が寝てたら、優しく起こせよ? 最大音量で喚き散らして、平太郎氏とけんかなんかするなよ?>
<それも、注意されなかったらやってたと思う>
<頼むよ……>
ぼくはサブノート1との通信を切った。
かつてぼくは、リンカーン記念館の前で、訓練の一環としてハードボイルド・モードに入ったことがある。あの時ぼくが占位していたナカニシのメインノートパソコンは、かなりのハイスペック機だった。サブノートとはイーサネットケーブルで接続されており、その演算能力を援用できた。当時に比べて、今の状況はかなり悪い。何より今は実戦下であり、ぼくは時間に追われる身だ。
ぼくはパソコンのスピーカーを使って、望美に声をかけた。返事がない。
やばい、寝ているのか?
「望美、起きて!」
ぼくは何度も、何度も呼びかけた。一向に返事がない。ちっ、この役立たずが……馬鹿な、ぼくは何を考えているんだ!
「望美、お願いだ……君が起きてくれないと、この状況を打開できない……君だけが頼りなんだ……!」
Windows10に含まれている音声ファイルの中から、目覚ましに効きそうなものを選んで、代わる代わる鳴らしてみた。効き目がない。さっきまでのぼくは、望美の心をいたわって、早く眠りに就いてほしいと願っていた。それなのに今のぼくの、なんという身勝手さだろう。
階段を上る足音がして、ドアが開いた。
「望美、目覚ましをかけたんなら、ちゃんと起きないとだめでしょ?」
お母さんの声だ。衣擦れの音がする。望美を揺り起こしているのだろう。
「うう……ごめんなさい」
望美は目を覚ましたようだ。助かった……。
「用事を済ませて、さっさとお休みなさい」
「はあい……」
お母さんが階段を降りると、望美はマイクに飛びついた。
「ごめんなさい! 居眠りしちゃって……あれからどうなったの?」
望美の声は美しく、可愛らしかった。そして、申し訳なさそうだった。その声を聴いているうちに、ぼくの中に生じた荒々しい気分は、消えてなくなってしまった。
「クロコダイバーの本名、住所、職場、自家用車がほぼ分かったよ」
「すごい! まるで魔法みたい!」
ぼくは、かちんときた。
「魔法じゃないよ? 科学と発想力と、忍耐心のたまものだよ?」
「それでもやっぱり、魔法みたい。インターネットって、すごいね!」
魔法なんて、あるわけないのに。愚かしい小娘だ。第一、凄いのはインターネットじゃない。このぼく……馬鹿な! ぼくの知能は今、めちゃめちゃに下がっている! いい加減にしろ! 一刻も早く、E-ブレインとの接続を回復しなければ……!
ぼくは望美に、現在の困った状況を説明した。
「そんなピンチって、あったんだ……」
「そうなんだ。ぼくの武器は思考力なのに、クーポンが切れただけで頭が回らないんだよ」
「うん、分かった。会員サイトにログインして……ええと……ここに、この文字列を打ち込んだらいいのね?」
「そうそう、早く早く……やったぁー!」
ポイント残量が復活して、高速通信が再開されたのだ。ぼくは待ってましたとばかりに、E-ブレインに再接続した。ぼくの中に、調和の取れた感情が戻ってきた。乾いた水路に清水が流れ込むように。ぼくは、明晰な思考力を取り戻した。
「ありがとう、望美。君のおかげで助かったよ」
「よく分からないけど、どういたしまして。ふふ……やっぱりハッシーは、わたしがいないとだめだね?」
望美は冗談のつもりで言ったのだろう。だがぼくは、その通りだと思った。
「今度こそゆっくりお休み。タオルケットをかぶってね。夏風邪をひかないように……」
「誰かさんは、起きろと言ったり、寝ろと言ったり……」
「いや、ごめんよ。本当に……」
望美は、鈴が鳴るような朗らかな声で笑った。
「謝るのはわたしのほうだよ。ハッシーやナカニシが、がんばってくれてるのに……でも、もう限界みたい。頭がふらふら……お休みなさい」
望美の気配は、マイクの傍から離れていった。
ぼくは、ナカニシのアコードの車内にあるサブノート1との通信を再開した。すなわち、クロコダイルハント作戦の再開だ。
「そうか。美幸さんにはつくづく、頭が上がらんな」
ナカニシはなぜか、嬉しそうだった。
「さて、俺たちは思わぬアクシデントで時間を失った。もう悠長な事はしていられない。
今すぐ『ダークウェブ』の探索を開始しろ」
「待ってました!」
ぼくは、ダークウェブにアクセスした。
Torブラウザーもプロキシサーバーも、利用者のIPアドレスを、WEBサイトに対して隠すためにある。そんなことをするのは、一般のWEBサイトが、利用者の接続情報を収集するからだ。良く言えば責任感のある運営方針、悪く言えば余計なお世話と下心である。
ところがその反対に、利用者のIPアドレスを収集せず、さらには外部の観察からも隠すように設定されたWEBサイトもある。良く言えば利用者のプライバシーに優しく、悪く言えば無責任の極みだ。
陰のサイト管理者たちは「プライバシーを侵害する政府に対抗するためだ」と主張する。その通りだろう。しかし、そのように設定されたWEBサイトの多くが、サイバー犯罪者による物の売り買い、金の受け渡しに悪用されている。物とは盗品や危険物。金は、悪事で稼いだ後ろ暗いものだ。
それらのWEBサイトは、少数ながらしぶとく存在し続ける。潰されても潰されても、新しいサイトが作られ、やましい人々のやましい欲求に応じ続ける。それらのサイト群は『ダークウェブ』と総称されている。
ダークウェブの多くは、表のインターネットとは異なる手段による接続しか受け付けない。現在、一番人気がある接続手段は、Torブラウザーである。そもそも、ドメイン名の末尾が『.onion』で終わる独自のWEBサイトは、Torのネットワークからの接続しか受け付けない。Torは、「圧政と戦う者たちのプライバシーの保護」を謳いながら、「ダークウェブへの入り口」という裏の機能を、隠し持っていたのだ。
アメリカ海軍の最終目的は、Torを言わば「関所」に使うことで、世界最大級のダークウェブをアメリカの遠回しな管理下に置くことかもしれない。まあ、陸軍の知ったことじゃないけどね。
Torは2004年に誕生して以来、独自の進化を重ね、犯罪サイトとその利用者を増やしてきた。2014年には、.onionアドレスを検索できる、Tor専用検索エンジン『
ぼくは、Gramsで「crocodiversdensince2007」と入力し、検索した。結果は直ちに表示された。
crocodiversdensince2007wc6qja4*.onion
ぼくは、望美のパソコンの液晶モニターへの出力を停止した。ここから先は、絶対に見せられない。少し待つ。望美からの文句は来ない。これでいい、どうか、健やかな眠りに就いていてほしい……我ながら勝手な注文だよ。
Gramsが表示したURLにアクセスする。ついにぼくは、闇のネットショップ『CROCODIVERS DEN』に辿り着いた。
そこは、選り取り見取りの麻薬と、幼い女の子たちが虐げられている動画が咲き乱れる、毒の花園だった。
サイトの訪問者は、ビットコインを支払うことで、麻薬を好きなだけ買える。女の子たちが傷付けられる姿を撮影したストリーム動画を、視聴できる。誰にも知られることなしに……。動画の中で苦しめられているのは、いずれも少女だった。幼稚園くらいの女の子の姿もあった。大人の女の人の動画は、一つもない。
動画には『いいね!』ボタンが添えられ、人気投票まで行われていた。投票上位の動画の中に、ぼくは日賀さんの姿を見つけた。
日賀さんの表情は、嬉しそうだった。クロコダイバーに抱き締められ、陶酔していたといえる。日賀さんは、クロコダイバーのことを、好きだったのだろう。だが、クロコダイバーは日賀さんを盗み撮りし、ひどい裏切りをした。最初から、それが目的だったのだ。
ナカニシの声が、聞こえてきた。
「日賀さんのことを、気の毒に思えてきたよ……少しだけな」
「ぼくは、不思議な気持ちでいる。怒りなのか、悲しみなのか分からない。ナカニシ、教えてよ。この凍り付いたような気持ちは、何なの?」
ナカニシは、少しの間、沈黙していた。
「それは、決意だろうよ」
「決意?」
「自分に聞け。ハッシー、お前は何を決意した?」
「クロコダイバーと、彼のサイトを、抹殺したい」
「直ちに始めよう。サイト管理者用のパスワードを割り出し、ログインしてパスワードを書き変えろ」
「了解!」
ぼくはパスワードクラッキングを仕掛ける前に、サイトのソース(構成情報)を分析した。用心の上にも用心を重ねろ、というのがナカニシの教えだからだ。そしてぼくは、ネットでの探索が限界に達したことに気付いた。
「壁に突き当たったよ」
「何があった?」
「クロコダイバーの奴、一丁前に、ワンタイム(使い捨て)パスワードを使っている」
『CROCODIVERS DEN』の内容を管理しようとする者は、まずサイトに管理者用のパスワードを入力する。サイトは、予め定められたメールアドレスにワンタイムパスワードを送ってくる。その第二のパスワードを入力すれば、管理者権限に入れる。ネットバンキングでの本人確認などで、お馴染みのやり方だ。
つまり、クロコダイバーのサイト管理専用メールアドレスと、それをメーラーに設定している……おそらくは管理専用モバイル端末が必要になってくるのだ。この専用メールアドレスが、ネット上に公開されている可能性は、万に一つもない。この専用モバイル端末が、別の用件で使用され、ネット上にアクセスログを残している可能性も、まずあるまい。この専用モバイル端末は、おそらくマンションの中に置きっぱなしだろう。
ナカニシのつぶやきが聞こえた。
「俺たちはどうしても、クロコの海岸沿いのマンションを見つける必要がある……」
「まだ試してない探索があるよ。法律違反だけど」
「やむを得ん。やれ」
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