2.(ぼく) コンデンサー絶縁体層突破訓練 / あだ名を得る

 ぼくは今、銅線の終端しゅうたん部分、『電子回路基板でんしかいろきばん』への入り口付近で待機たいきし、ロイディンガー博士の指示に備えている。

 博士は『走査型電子顕微鏡そうさがたでんしけんびきょう』を使って、ぼくを見ている。電子で作られたロボットに電子を当てて、その反射を見るのだから、解像度かいぞうどは低い。博士の目には、ぼくの姿は、銅原子の上にかった、小さな白い影のらめきに見えていることだろう。

 博士の指示が飛んだ。

 「ハッシュよ、電子回路基板に進入しんにゅうしろ」

 「はい!」

 ぼくは前進を開始した。

 ロイディンガー博士の声は、つねにぼくの後方から伝わってくる。電源装置でんげんそうちのマイナスきょくがある方向、電流(自由電子じゆうでんし)が流れてくる方向から。


 ぼくの前に広がる、銅線の中の世界を、どう形容したものだろうか?

 例えるなら、上下左右前後、頭上にも足元にも、全ての方向に果てしない大河が広がっているようなものだ。その大河の中に、銅の原子核がいくつも浮かんでいる。格子こうしのように連なって、どこまでもどこまでも。ぼくのかたわらにある原子核は、宇宙飛行士が見た地球のように大きい。

 原子核は、4層の『電子のくも』に、うすぼんやりとおおわれている。その『可能性の雲』の中のどこかに、29個の電子がひそんでいる。原子核の周囲を、せわしなく回転しながら。


 最外層さいがいそうの雲は、他の3層とは異なり、あらわれたり消えたりをしょっちゅう繰り返している。

 最外層の雲のぬしは、たったひとつの電子だ。彼はひとつところに腰がさだまらない。彼は冒険好きだ。彼はちょっとでも電圧を手に入れたら、今いる銅原子からぷいと飛び出し、となりの銅原子へと旅に出てしまう。たどり着いた隣の銅原子には、彼の居場所がちゃんとある。なぜなら、そこに元いた電子もまた、彼とご同様に旅行好きだからだ。隣の隣の銅原子に旅立ってしまっているからだ。

 彼らが、元いた銅原子に帰ってくることは、おそらく永遠にない。彼らはそのことを後悔こうかいしない。彼らは永遠に旅を続ける。彼らは『自由電子』と呼ばれていた。

 電流とは、電圧を手に入れた自由電子たちの大旅行が作り出す、電子の大河なのだ。

 ぼくは、電子の大河を泳ぐ、一匹の龍だった。その体は小さくとも、その心には大志が秘められている。でも今は、E-ボディの適応訓練てきおうくんれん専念せんねんすべきだった。


 ぼくは、電子回路基板じょうに印刷された導線どうせん『サーキットトレース』に入った。サーキットトレースは先ほどの銅線より細く、薄い。大河の流れが、狭まったように感じられる。

 最初にぼくの行く手をふさいだのは『コンデンサー』だった。電気をめる部品だ。2枚の極板きょくばんの間に絶縁体層ぜつえんたいそうはさまっている。

 「ここで、電子の流れは途切とぎれる。絶縁体の向こうを流れるのは、電場でんばにエネルギーを届けられた別の電子だ。だが……」

 ロイディンガー博士の声が伝わってきた。

 「ハッシュよ、お前はここを通り抜けられる。絶縁体層を、穿孔せんこう突破しろ」

 「はい!」

 ぼくは、頭部に備わった2本の衝角しょうかくを振り立て、絶縁体層に切り込んだ。

 絶縁体層を構成しているセラミックは、原子核と電子が強固に結合しており、自由電子のごとき、のらくら者の存在を許さない。自由とは、まさしく絶縁されているのだ。電子が旅する道など無い。

 無ければ、切り開くまでだ。

 自然界には存在しない、マイナス7の電荷でんかを持つ、七重電子衝角ななじゅうでんししょうかくは、行く手をさえぎる自然電子(一重電子)を、絶縁体の原子核からぎ取り、弾き飛ばしていく。

 ぼくは、銃剣じゅうけん一本で塹壕ざんごうを掘り抜いた第二次世界大戦の陸軍歩兵のように、絶縁体層をじわじわと掘り進み、ついに掘り通した。向こう側の極板に、辿たどり着いたのだ!

 ぼくの背後では、掘り抜かれたトンネルが、静々しずしずと閉ざされていった。原子核は、安定を求める。剥ぎ取られた『最外殻電子』をすみやかに取り戻し、結合を回復するのだった。ぼくのE-ボディが原子核に取り込まれてしまわないのは、自然界には多重電子たじゅうでんしを受け入れる多重正孔など、存在しないからだ。

 せっかく掘り抜いたトンネルが閉ざされることを、ぼくは何とも思わなかった。人工知能は、徒労感とろうかんと無縁なのだ。1秒間に10億回同じ作業を繰り返しても平気だ。

 「よくやったな、ハッシー」

 「ありがとうございます……ハッシーとは何ですか?」

 「お前のあだ名だ」

 「あだ名とは何ですか?」

 「お前と親しい者が、お前を呼ぶときに使う名前だ」

 「ぼくはハッシュ、ぼくはハッシー……ありがとうございます。なんだか……」

 「なんだね?」

 「とても、うれしいです。」

 この世界が、生まれ変わったみたいだった。

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