第16話 勝正④-4

「――って」

 目が覚めると同時に、頭に重い痛みが走る。抵抗して起き上がることも出来たのだけど、昨日コウと飲んだ後の記憶があまりに曖昧で、今自分がどこで寝ているかすらも分からず、とりあえず再び横になることにした。幸い、時間はあったから。

 ズキズキと自分の鼓動に合わせて痛む頭を押さえながら、昨日の事を思い出す。

 確か、飲み終わってから、家に帰ろうとして、でも代行だとお金が掛かり過ぎるから……コウは免許持ってないしで……ダメだ。



 それ以降を思い出せない。代わりにおぼろげだった視界が冴え始めて、今いる場所が実家だとわかる。コウがタクシーで送ってくれたのだろうか。うん、確かそうだった。

 意識がハッキリしてくる。と同時に、最近嗅いでいない、だけども馴染の匂いが鼻腔に入って来る。

 南篠家の朝食の定番、味噌汁だ。きっと、母さんが作ってくれているのだろう。

 前の、雄太が居なくなる前の僕だったら、目覚めの良さを発揮して、母さんの手伝いをしに台所へ向かったと思う。



 けど今の僕は、二日酔いを理由にして布団から起き上がらなかった。

 母さんとはしばらく顔を合わせていない。雄太の死以降、マイペースだった母さんも流石に傷心し、ほとんど家に籠もりきりだったと聞いている。僕が母さんの傍に居てあげるのが良かったのかもしれない、だけども自分の事で精一杯で、絶えず動き続ける日常、仕事を理由にして母さんから距離を取って来た。

 それに、僕が暴行事件を起こしたことを、母さんは知っている。ラインで返信や既読はしなかったけれど、一方的に僕が事の顛末を送信したのだ。

 だから気まずい。出来る事なら、こっそり家から出て行ってしまいたかった。



「カツくーん、起きたー?」

 でもどうやらそれは、出来そうもない。

 僕は少し閉口した後、出来る限り日常的に「はーい」と返事をして、体を起こす。案の定頭に痛みが走り顔を渋らせるも、最初に上体を起こした時よりかはマシだ。畳に敷かれている寝具一式を簡単に畳んでから、平静を装って隣の台所へ入る。

「おはよう」

「おはよう、帰って来るなら言ってくれれば良かったのにー」

 僕の不安をよそに、母さんの表情は雄太が亡くなる前と同じだった。

 五十代前半に似つかわしくない声色、口調。だけども風体は年齢なりで、髪の毛には少し離れた所からでも白髪が生えているのがわかり、顔には幾本かの皺があった。



 いつもの母さんだった。

 僕と雄太を育ててくれた、優しい母さんだった。

 僕の心を締める感情が生まれる。だけどそれに気付かないフリをして、粗方準備が終わった食卓に座る。

「ごめん、色々用事があって」

 用事なんてなかった。ただ気まずかっただけ。それを正直に言うのは、気が引けた。

「コーヒーは食後よね、あと少しでお味噌汁も出来るから、待っててね」



 食卓に並んでいるのは、白ご飯、ベーコンエッグ、納豆、ウーロン茶だった。昔と変わらないいつもの食事。

 そう、昔と変わらない――変わるはずの場所が変わっていない食卓。

 イスが三脚、そして僕の隣には雄太が嫌いな納豆を除いた、僕と同じ料理。

 母さんは雄太の分も作っていた。

「……いただきます」

 僕はその理由を聞くわけでもなく、箸を取る。



 この光景は、子供の頃に見た覚えがあった。父さんが死んだ時だ。

 父さんが死んでからしばらくは、こんな風に父さんの分の食事も置かれていた。

 きっと毎日、母さんは雄太の料理も作っていたのだろう。

 母さんは、雄太の死を、力に変えられたのだろうか。父さんの死を、力に変えているのだろうか。

「母さん、父さんが死んでから、変わった事ってある?」

 背中を向けて味噌汁を作りながら、洗い物をしている母さんに言う。父さんが無くなった事について話すのは、これが初めてだった。



 母さんは洗い物を擦る腕を止める。

「そうねぇ、お酒代とたばこ代が無くなったわね。あと免許も取ったわ、あんまり乗らないけど」

 最後に軽く笑って、再び手を動かし始める母さん。もちろん、僕はそれだけでは納得しなかった。僕が次の言葉を引き出そうと、どんな質問をするか考えている最中、蛇口を捻る音が聞こえ、

「強く生きなきゃって思ったの」

 母さんは僕に振り返り、言う。



「……強く生きる」

 僕は繰り返した。イマイチ腑に落ちない返答だったから。母さんはマイペースで、どこか頼りない所がある。そんな母さんが言っても、説得力に欠けたのが正直な感想だった。

「ふふっ、どこがって顔してるわよカツ君。でも本当よ、お母さん、お父さんが亡くなるまでは他人に頼ってばっかりだったんだから」



 母さんはそう言うと、配膳されていた二つのお椀を取って、再び台所へ体を向け味噌汁を注ぐ。

「昔はもっと頼りなかったってこと?」

「そうね、雄太が生まれる時だって、私ゼンゼン病院行かなかったもの」

 冗談っぽく言いながら、湯気の立つ白味噌の味噌汁を並べる母さん。



 母さんは微笑し、

「お母さん、病院嫌いだったから」

「病院嫌いでも、出産ならちゃんと行かないとダメだよ」

 どうやら雄太は、生を受けた時から多難だった様だ。

「そうね、母子手帳も無いモノだから、お母さん、お婆ちゃんにすっごく怒られちゃった」



 温くなったベーコンエッグにソースをかけて食べる。母さんも僕の対面に座り、続きを語り始めた。

「家計簿も作らなかったし、家事もやったりやらなかったり、カツ君も夜泣きが酷かったから、お婆ちゃんに寝かしつけて貰ったり。自分で思い出しても、良い母親とは言えないわね。でもお父さんが亡くなってからは、ちゃんと二人の立派なお母さんになろうって、決めたの」

 母さんはいつもと変わらない調子でそう言った。日常と変わらない、マイペースな優しい口調で。



「結果はカツ君の見た通り、頼りないお母さんかもしれないわ。だけども以前の私から比べると、自分で花マルをあげたいくらいには、よく頑張ったと思うの。でもこれからは、花丸に枝を付けるくらい、立派なお母さんにならなくちゃね。ユウ君も頑張ってって、言ってくれてるハズだから」

 母さんは笑う。いつもと変わらない笑顔で。



「強いね、母さんは」

 僕は言う。

「強くなんかないわ、一人で頑張ってるカツ君の方が、よっぽどよ」

 母さんだって、今はもう一人じゃないか。

 味噌汁を手に取り、沈殿した具を軽くかき混ぜ、少し飲む。

 いつもの味だった。三人、いや、四人で飲んでいた、味噌汁の味だった。



「雄太と父さん、天国で仲良くやってるかな」

 僕の心にあった感情が、込み上げてくる。

 それを味噌汁と一緒に、なんとか飲み込んだ。

「どうかしら、早く来すぎだ! って怒ってるかも、あの人厳しかったから」

「それは覚えてる。よく悪い事したら外に出されたし」



 少し静かになり、隣の雄太に並べられたご飯を見る。

「雄太、まだ納豆嫌いだったんだね」

「えぇ、好き嫌いはしたくないからって、最近は食べようとしてたのだけれど」

 志半ばに、ってヤツだ。

 それから僕は、母さんへムラサキの話をした。母さんは驚きながらも、確かに納得していた。



「おかしいと思ったのよ、ユウ君があんな事言うなんて……じゃあ、雄太の将来の夢は、優しい人になりたい、だったのね」

「うん」と頷く。あくまでこれはコウの推理だけど、今の僕はこれが真実だと、確信していた。

「じゃあユウ君の将来の夢は、叶ってたのね。きっと、そう思った時に。だから神様が、他の人より早く、連れて行っちゃのかな」



 随分勝手な神様だなと思う。お父さんも、雄太も、早く居なくなり過ぎだ。もう少しくらい、一緒に居させてくれよ、残された僕達の事も考えずに、勝手な神様だ。

 雄太の所へ置かれた味噌汁を飲む。

 もう冷たくなり始めていた味噌汁だったけど、体が熱くなるのがわかった。



 僕は声を震わせながら、

「雄太ってさ、何も喋らなくてさ、ホントはずっと辛かったハズなのに、黙ってて、死んじゃって。もっと長生き出来たハズなのに、もっと一緒に居れたハズなのに。友達も居て、いつかは彼女も出来て、コウや皆とお酒を飲んだり、車に乗って遠くへ出かけたり、母さんと三人で温泉とか行ったり。色々、もっと雄太と話したかった。もっと雄太と笑いたかった、喧嘩もしたかった、もっと、もっと母さんと雄太と、一緒に」



 僕は泣いた。葬儀の時よりも、どんな時よりも大声で泣いた。

「おいで、カツ君」

 母さんが言う。見上げると、母さんも泣いていた、だけど笑顔だけは変わらないで、僕を待っていた。

 僕は母さんの体に、顔を埋める。

 母さんの体は、随分痩せていて、腕も細くなっていた。

 きっと母さんも雄太の死を悲しみ、心を病み、途方に暮れていたに違いない。もしかしたら今も、心は癒えていないのかもしれない。

 けどそれでも、母親として、僕を慰めてくれている。強い母であろうと、僕の背中を優しく撫でてくれている。

 僕は雄太の名を叫びながら、泣いた。




 

 少しだけ埃を被った部屋の窓を開けて、換気をする。寒さに耐えながら腰を下げ、部屋の隅々に散らばった教科書や、漫画、ライトノベルを雄太の学習机に置いていく。

 朝食を食べ終え、赤子の様に泣き疲れて一眠りをした僕は、雄太の部屋兼、元僕の部屋を掃除することにした。



 高校生になった雄太の部屋は、中学の頃とあまり変わっていなかった。プラスチック製の三段カラーボックスの上には、雄太の卓球ラケットが置かれてある。雄太の運動神経はあまり良くなかったけれども、持ち前の直向きさで、県大会へ出場する快挙を遂げた。

 コウと僕は万年予選敗退だったので、コウはともかく、僕は悔しさと嬉しさが合わさり、複雑な感情で雄太の躍進を讃えたことを覚えている。



 高校に入ってからは簿記部に入り、完全に体育会系から離れていたようだけれど。

 ふと、カラーボックスの下に本が隠れているのが見えた。まったく、兄に似て整理整頓が出来ないのはどうしたものか。

「これか……」と、本の表紙、次にタイトルを見て呟く。内容を具体的にまでは覚えていないけれど、僕が雄太へ譲った本だった。



 コメディ寄りの推理小説で、舞台はスキー場。そのどこかに、時限爆弾が仕掛けられていて、主人公がそれを見つけ出す話、だったハズだ。少なくとも、表紙にゴンドラが映っている所から、スキー場が舞台であることは間違いない。

 この本に強い思い入れは無い、だから雄太に譲った。そして雄太も読み終えた後、何かの拍子でこの隙間に入っていったのだろう。

 思い入れは無い、だけど、僕にある事をこの本は思い出させた。



 僕を救おうとしてくれた――立花さんだ。

 スマホに手を伸ばそうとして、止める。僕から彼女へ連絡を取る資格は無い。彼女が作ってくれたチャンスを、僕は故意に放棄してしまうことが決まっている。それに僕は彼女の協力を台無しにしたんだ。雄太の死を力に変える前に、僕は全てを壊してしまった。



 雄太が生き返らない様に、僕が塩崎に暴行した事実は戻らない。あの行為は、立花さんが僕に向けてくれた優しさを無碍にしてしまう愚行だった。だから、僕が彼女と会話する資格は無い。

 本に被っていた埃を振り払い、机に置く。

 僕はただ無心で片づけた。整理整頓は苦手だ、だけども不思議なモノで、今みたいに現実から目を背けたい時なんかは、面白い様に整頓が進む。



 今の僕は何から逃げているのだろうか。この時代で早々に職を変えることへの不安だろうか、いや、違う。

 なら、立花さんへ会う資格が無いと勝手な理由を付けて、謝罪の言葉すらも掛けずに彼女との縁を切ることへの罪悪感か。



 これは近い、だけどもっと本質的な部分だ、

 もっとシンプルな部分から、僕は逃げていた。



 ――僕は今の自分自身から、目を背けていた。雄太の死を言い訳にして、前へ進もうとしていない自分から、目を背けている。



 雄太の死は、確かに僕の枷になった。だけどそれは母さんと会わない理由になるか、立花さんに謝罪しない理由になるか。

 自分自身に怒りが湧いてくる。なぜ今まで気付かなかったのだろう。

 雄太の死に甘えて、僕は進む事から逃げていたのだ。

 母さんと顔を合せなかったのはただ気まずかったから、立花さんと距離を置いたのは、彼女から失望の目を向けられたくなかったから。



 そこに雄太は関係ない。そこに必要なのは、僕が現実を見て前進することだけだ。

 僕は雄太の死を自ら枷にして、自分の心をワザと弱くして、現実から目を背けていたんだ。

 そんなんじゃ、雄太があまりにも可哀想だ。

 それに僕だけずっとこんな調子じゃ、兄として格好が付かないだろう。

 母さんも、コウも、賢治君も、牧田さんも、おじいちゃんも、おばあちゃんも、雄太のクラスメイトだって、きっと雄太の死を、糧にして生きようとしている。



 あいつの分まで生きようとか、そんなももの数年で忘れてしまうかもしれないちっぽけな意思。だけどきっとその雄太が作った意思は、心の奥で、永遠に残り続けるハズなんだ。



 今僕の中に在る雄太の意思を、枷にして生き続けるのは嫌だ。

 でも現状、僕には枷にしかなっていない。

 ならどうするか。

 簡単だ。



 前へ進めばいい。

 僕はラインを開き、立花さんへメッセージを送った。

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