第14話 勝正④-2
「ん、どうした南篠、今日非番だったろ」
「すいませんちょっと用事があって」
先輩にすれ違い、軽く会話をする。
流石田舎と言った所か道は込んでおらず、上司が出勤するであろう時間にはまだ余裕があった。けどコウ達との約束や、立花さんへの手土産を渡す時間も考えると、少しだけ焦る気持ちもある。
「あっそ、んじゃ」と興味なさげに言って僕から視線を逸らす先輩。僕は感情が仕草や表情に出やすいタイプで、先輩はそれを酌んでくれたようだった。
僕は急ぎ足で担当の棟の職員室へ入り、まず上司が出勤していないかを確認する。もしかするとがあるし、
だけどこれは杞憂で、上司はまだ出勤していなかった。僕は安堵して、エナジードリンクの空き缶が置かれたままの机に資料を置く。
直接渡したほうが印象が良いだろうなと考えたけど、あまり上司とは顔を合わせたくなかった。悪い人ではないけれども、やっぱり、上司というだけで一歩引いてしまう。
結局そのまま資料だけ置いて、立花さんがいる棟を目指し歩いていく。
彼女が食べたいと言っていた、コンビニのミルクレープと缶コーヒーを道中で買っておいた。彼女の喜んだ拍子に浮かぶであろう笑顔を想像し、自然と頬が緩む。他人から見たら、凄く気持ちが悪い人に見えるだろう。実際、利用者さんが僕を見て声を潜めて何かを喋っていた。
僕はそれを気に止めず、ただ立花さんを探していた。
――僕は彼女に依存してしまっていた。
立花さんの存在を、弟が消えたことで生まれた心の穴に、僕はそのまま埋め込んでいた。
彼女は僕の話を嫌な顔一つせずに聞き、頷いて、時には一緒に涙を流してくれた。
だけど。
彼女が悪いワケじゃない、僕の心に空いた穴は、僕が思っている以上に大きくて、彼女、立花さんの存在を持ってしても、完全に埋まる事は出来なかった。
隙間が生まれていた。
そこに埋まったのは、憎しみの感情だった。
――雄太はきっと、誰かの事を考えて生きていけるとても優しい大人になれたと思う。雄太が老衰で亡くなったとしたら、この間の告別式よりも遥かに多くの人が参列し、雄太の死を悲しんだと思う。
だけど雄太は死んでしまった。この事実は、僕も認めている。
けど、だけども、雄太みたいな優しい人間が死んで、人の事を考えられない、私利私欲の権化の様な人間が歳を食っても生きているのは、おかしいと思うんだ。
告別式の時、お坊さんが言っていた言葉を思い出す。
『徳のある人ほど、仏様は欲しがって修行、つまりは現世から離れさせようとするのです』
ふざけるなと言いたかった。
雄太はもっと生きたかったに違いないし、何より、理不尽だろ。
こんな、こんな、こんな奴等が生きて、雄太が死ぬなんて、理不尽すぎる。
「やめて下さいっ! ちょっと、ホントにっ……!」
――立花さんが、塩崎に襲われていた。
塩崎はただ立花さんでは無い誰かの名前を呼びながら、彼女の胸を揉みしだこうとしていた。
僕はその光景を見て、
「おい」
自分の中で、何かかが切れる音がした。
立花さんの元へ、走るとも歩くとも言えない速度で近付いていく。
「どうしてだよ……どうしてお前みたいな奴が生きてるんだよ」
塩崎の耳には届いていなかった。
もしかすると痴呆が悪化して、欲求しか考えられていなかったのしれない。
塩崎が立花さんを剥こうとしているのは、病気のせいなんだろう。
だけど僕はそれでも、
「南篠さんっ!? たっ助けて下さ――」
コイツが雄太を差し置いて生きている事が、許せなかった。
彼女に抱き着いていた塩崎を思いきり蹴り、細く薄い白髪を引っ張って立花さんから引き剥がす。
「や、やめんか!」と塩崎が言ってきたが、僕の行為をエスカレートさせる材料にしかならなかった。
髪を持ったまま塩崎を無理やり引っ張り、持ち上げ、目を合わせる。
塩崎は怯えた目をしていた。僕と目が合うや否や、きつく目を閉じた。
痴呆症だけど、これから何をされるかは想像できるらしい。僕は空いている手を大きく引き、何故か雄太よりも長く生きているゴミを――。
「やめて!」
立花さんが、背後から抱き着いてきて僕を引き留める。
僕は言葉を出せなかった。彼女に一言いい、そのまま塩崎を殴ることは出来ただろう。
それを止めた理由は、
「ダメだよ南篠さん、ダメ……ね、私大丈夫だから」
――僕を止める彼女の声が、震えていたから。
塩崎は手を離すと「ヒィ」と言って殺人者を見る様な目つきをしながら、自分の病室へ逃げていく。
「ありがとう、立花さん」
あそこで殴っていれば、更にタガが外れていたような気がしてならない。僕が立花さんにお礼を言うと。
「私の方こそ、ありがとうございます。最近塩崎さんのセクハラがエスカレートしていて、特に今日は……もし南篠さんが止めてくれて居なければ私……」
「お礼は要らないよ、いらないんだ」
謙遜じゃなく、本心から言った。
僕は彼女を救いたいと思って、塩崎を蹴ったんじゃない。のうのうと生きる、他人に迷惑をかける事しかせずに皺を刻んでいく塩崎が憎かったからだ。
周りを見る。不幸中の幸いか、他の職員や利用者の姿は無かった。もともと、病室に籠もる人が多い棟で、この階にいる職員も立花さん一人。塩崎を蹴った事を、隠すことは出来る。
「立花さん、悪いけど他の職員さんに伝えてくれるかな、塩崎を蹴り飛ばした事」
彼女は一度言葉を出そうとしたけど、飲み込んだ様だった。だけども僕からは離れず、同じ場所に立っている。
「隠すことも出来ると思うし、立花さんにこんな役回りをさせるのは申し訳無いよ。でも、今の僕じゃこの仕事、続けられる気がしないんだ」
介護職は雄太が死ぬ前までは、僕の天職だった。お年寄りと接するのは小さいころから嫌いじゃなかったし、小学校あたりから、介護職に就くんだろうなと漠然と思っていた。
でも現場は思ったよりも大変で、お風呂に入れさせたりとか、下の世話みたいな嫌な仕事もたくさんあった。
それでも、辞めようと思った事は一度として無かったんだ。
雄太が死ぬまでは。
雄太が死んで、僕が塩崎に対して憎しみの感情を持つまでは。
「ごめんね、立花さん」
僕には死を力に変えるなんて、できそうもない。
雄太の死を枷にすることしか、僕には出来ないんだ。
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